鮮血
定めの人、吉継が自ら前線に出ようとしているのに、神畜である自分が寝ているわけにはいかない。
イツキは気力を振り絞って体を起こした。
そして、白狼に姿を変えた。
かつて、イツキの父、浅井久政が小谷城に籠り織田信長の軍勢に抗ったとき、母サヨリは白狼として定めの人である久政のために奮戦したという。
この大戦を前に白狼と出会ったことは、きっと弁財天の神託に違いない。
イツキは駆けた。
我が定めの人が命を賭したこの大戦。
一人の裏切り者のために敗れるようなことがあってはならない。
ましてやその裏切り者に定めの人が弑されるなど絶対に許さない。
殿の命は私が守る。
“殿。私も戦います!”
イツキは輿に乗る吉継の横を通り抜け、陣幕の外へ出た。
そして藤川台の南に素早く展開を済ませた吉勝の隊に駆け寄る。
“イツキ。戻ってまいれ。無理をしてはならん!”
“殿。お許しください。ここに至っては命を惜しんではいられません”
イツキは吉勝の隣に並び立った。
向かい合う松尾山からはまさに怒涛の勢いで小早川隊が迫ってくる。
山ごと迫ってくるような錯覚に陥るほどの大軍勢だ。
駆け降りてくる兵馬の足音が轟轟と響き渡りイツキの腹を揺する。
聞いているだけで逃げ出したくなるほどの圧迫感だ。
あれだけの人の雪崩をどうやったら食い止めることができるのか。
イツキが見上げた吉勝の顔は血の気が引いていた。
しかし、その目は怒りを宿し、その奥で静かに闘志を燃やしているようであった。
吉勝は静かに軍配を頭上に掲げた。
目にものを見せてくれる。
全身でそう叫んでいる。
唸り声をあげて迫り来る敵兵がその不敵に光る歯の白さが見えるほどの距離にまで近づいてきたとき、吉勝の軍配は風を切り裂いて振り下ろされた。
同時に無数の銃声が鳴り響く。
立ち上る白煙の彼方で違い鎌の旗がバタバタと倒れていく。
しかし、それは高波に砂利を投げつけたようなものだった。
打ち寄せる波の大きさは一寸も小さくなってはいない。
それどころか小早川隊の大谷軍に対する敵意は一層高まりを見せたようで、挑みかかってくる将兵の目は怖ろしいほどに吊り上がり、空堀を苦も無く突き進んでくる。
イツキは前脚を思わずわずかに引いてしまった。
その横で吉勝が二度目の采配を振るう。
先ほどよりも多くの銃声が轟き、空堀の中で多くの兵馬が屍と化す。
それでも山は止まらない。
前方の兵が倒れたおかげで空堀がなだらかになったと言わんばかりに、屍を踏み越え勢いを増して近づいてくる。
吉勝の舌打ちが聞こえる。
吉勝は三度目の一斉射撃を命じた。
しかし、その効果は前の二度の射撃と同じ程度であった。
「よぉし。鉄砲隊は下がれい」
小早川隊の喊声に負けない大音声が辺りに響き渡る。
輿に乗った吉継の声だ。
規律だった動きで鉄砲隊が後方に引き、代わって現れたのは槍隊だった。
「者ども、わしについてまいれ!戦は数ではないことを、このわしが見せてやる!」
吉継を乗せた輿は大谷軍の先頭に位置して空堀を越えてきた小早川隊に分け入った。
イツキは怯えを捨て、土を蹴って乱戦に身を投じた。
吉継は死ぬつもりだ。
吉継だけを死なせるわけにはいかない。
小早川隊の前線は白頭巾を被った吉継が目と鼻の先に姿を見せたことに一瞬どよめいたが、次の瞬間我先にと輿に群がり始めた。
「撃てーっ!」
吉勝の号令が辺りに響き渡る。
いつの間にか吉継の背後で左右に展開していた吉勝の鉄砲隊が一斉射撃を加える。
イツキの目の前で幾人もの小早川隊の兵士が膝から崩れ落ちた。
しかし、その兵士の後ろから無数の兵士が押し寄せる。
吉継を取り囲むようにして至る所で乱戦が始まった。
イツキもそこへ身を踊らせる。
吉継に向けられる槍を銜えてへし折り、その槍の刃先を相手の喉元に突き刺す。
刀を振り下ろそうとする武者の腕にかじりつき、籠手ごと噛み千切る。
輿を持つ兵士に掴みかかっている敵兵の背後から首筋に歯を立て脊髄を噛み砕く。
血しぶきが目に入るが構ってはいられない。
牙をむき出しにして闇雲に噛みついて回る。
「今だ!押せぇ!押しこめぇ!」
吉継の叱咤が響き渡る。
その声に力を得て、イツキが、そして大谷隊が小早川隊に喰らいつく。
イツキは一人の兵士のふくらはぎに牙を立て、力任せに振り回した。
それによって周囲の敵兵がなぎ倒される。
倒れた兵士にのしかかり喉元を次々に噛み千切った。
辺り一帯は赤黒く血塗られ、鉄のにおいが鼻を打つ。
イツキは喉を鳴らして周囲に眼光を向けた。
来るなら来い。
イツキは威嚇のために大きく吠えた。
小早川隊の動きが止まったように見えた。
“よし。イツキ。一旦退くぞ”
“はい”
吉継は軍配を返して鮮やかに槍隊を撤収させた。
交代に吉勝率いる鉄砲隊が前に出る。
吉継を無防備に追ってきた小早川隊に銃弾の雨が降り注ぐ。
二段、三段と鉄砲隊が敵兵に鉛の弾を見舞った後に再び吉継が輿を前線に移動させる。
「ここが踏ん張りどころだ!我が命、そなたたちに預けた。そなたたちもわしに命を預けよ。突っ込めぇい!」
イツキは大谷隊の先頭を駆けた。
輿のために道を作るように、群がってくる敵兵に牙を剥いた。
槍をかわし、刀を避けた。
至る所に噛みついて肉を裂いた。
体ごとぶつかって骨を砕いた。
大谷隊は同じ戦法を何度となく繰り返した。
吉継が自分の姿をわざと敵に見せつけるように輿の上で大きく采配を振るう。
そこへ敵兵が殺到する。
乱戦が始まると、吉継が退却を指示する。
深追いをしてきた敵兵が吉勝の鉄砲隊の餌食となる。
そこへ吉継が突撃を命じる。
イツキは隊の先頭を縦横無尽に駆けた。
小早川隊の兵は見る見る屍に変わっていった。
それでも敵は次から次へと湧いてくる。
イツキの脳裏に不意に一万五千という数が過る。
きりがない。
母のサヨリも小谷の城で定めの人久政を守って戦ったときも同じことを思ったのだろうか。
見下ろせば、元の色が想像できないほど自分の体が朱に染まっている。
ぽたりぽたりと口から落ちる血は敵のものか自分のものか定かではない。
歯を食いしばると違和感がある。
戦闘の繰り返しで牙がぼろぼろになっているのだろう。
こちらの兵数は千程度。
いつまでこの戦いを続けられるだろうか。
息があがり、喉が渇いた。
「くたばれ、犬ころがぁ!」
怒声にハッと顔を起こすと、目の前に大鉈が迫っていた。
横に転がり込んで何とか交わすと鉈を振るう大男の顔に噛みつくためイツキは大きく跳ねた。
その時、大男の向こうに何本もの銃身が見えた。
と、思ったときには、脇腹に焼けるような激痛が走った。
体の中を熱く硬い塊が通り抜けていく。
それと同時に体が弾け飛ぶ。
撃たれたか。
心の中で舌打ちしたとき、視界の端に白頭巾があった。
そして、白頭巾の向こうに鮮血が噴き上がるのが見えた。
吉継の陣羽織から赤い血の塊が飛び出している。
“殿!”
ゆっくりと宙に浮きあがった吉継の血の塊が何かの獣のように見えた。
見たことのない獣だ。
蛇か?
蜥蜴か?
いや、あれは……。