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背反

 松尾山は怖いほど静かだった。

 兵は山と同化しているかのように動く気配が全くない。


 石田方諸侯の勇気と決断の象徴として立ち上る白煙。

 見晴らしのきく小早川隊の本陣からあの狼煙が見えていないはずがない。

 動かないというのは、裏切りの意志表示に他ならないのではないか。

 イツキは心内に怒りが沸々と込み上げてくるのを感じた。


“松尾山に動きはありません”

“くそぉっ!青二才が!”


 吉継の憤怒の雄叫びがイツキの心を激しく打った。

 吉継がここまで怒りを露わにすることは初めてのことだ。

 小早川隊の裏切りを予測していたとは言え、いや、だからこそ病身をおして談判を試み最後まで石田方につなぎ止めようとした吉継の気持ちを推し量るとイツキは胸が潰れそうだった。


 大谷隊本陣から使番が松尾山目がけて駆け出て行く。

 出撃を督促しに行ったのだろう。

 怒りに打ち震えながらも、まだ吉継は秀秋を説得するつもりなのだ。


 一方、平塚隊は狼煙を見てさらに勇躍した。

 平塚為広本人が兵の先頭に立ち馬を走らせ槍をしごき敵陣深く斬りこんでいく。

 敵方から散発の銃弾が飛んでくるが、まるで神に守られているかのように為広は無傷で片っ端から藤堂・京極隊の兵を薙ぎ倒していく。


“平塚隊無双の働き。京極隊間もなく総崩れすると思われます”


 イツキはそれだけを報告し、吉継の次の指示を仰ぐため急ぎ大谷隊本陣上空まで戻ってきた。


 その時、イツキは背筋に氷柱を刺されたような悪寒を覚えて、ハッと後ろを振り返った。


 乱れに乱れた陣形で必死に抵抗する藤堂・京極隊の背後を二、三十の騎馬隊が南に向かって駆けていくのが見える。

 騎馬隊は松尾山の手前、三町ほどのところまで来ると下馬し、一列に並んで静止した。

 よく見ると火縄銃を構えている。

 銃口は紛れもなく松尾山に向けられていた。


“あっ”


 銃弾が次々に発せられたのが見えた。

 そして間もなく松尾山から微かなざわめきが聞こえてきた。


“イツキ。どうかしたか?”


 松尾山が揺らいでいる。


“イツキ。どうした?”


 松尾山が少しずつ動いている。


“イツキ。イツキ!”


 松尾山が崩れ出した。

 いや、松尾山に陣取る小早川隊が斜面を駆けおりているのだ。


“殿!殿ぉ!”


 イツキは絶望の光景を見た。

 一万五千の兵卒の雪崩だ。

 その雪崩はこの藤川台に向かっている。

 怖ろしさに胸が震え、呼吸ができず、方向感覚を失って、イツキは吉継のいる本陣脇に墜ちた。

 しかし、気力を振り絞って人の姿に変化し、本陣の幕内に入った。


「小早川隊、裏切り!」


 喘ぐようにそれだけを告げると、イツキはあまりの息苦しさに土の上に突っ伏した。

 「イツキ様」と五助が抱き起こしてくれる。


「吉勝!手はず通りだ」


 吉継から指示を受けた吉勝が「承知」と小さく頷きイツキと五助の脇を小走りに去っていく。


 遠く南から喊声が聞こえてくる。

 小早川隊が大谷隊の側面に突撃を仕掛けてくるのだ。


「五助。いよいよである。イツキは奥で休ませ、輿を用意せよ」


 吉継の声は落ち着いていた。

 投げやりな響きはなかった。

 裡に秘めた闘志を感じる。

 吉継はまだ勝利を諦めたわけではないようだ。


「御意」


 五助によってイツキは抱きかかえられ本陣奥の荒寺の堂に横たえられた。

 そして五助は素早く幕の外に走り出ていく。


 胸が押しつぶされるような苦しさに顔を歪めながらイツキは吉継の背を見つめた。

 白地の陣羽織の背中には対い蝶が見える。

 アゲハが生まれたときに吉継が定めた家紋だ。

 今回の大戦も吉継はアゲハを背に戦ってくれるのだ。

 イツキは涙に視界を曇らせた。


 五助が幕内に駆け戻ってきた。


「輿の用意が整いました」

「よし。出るぞ!」


 吉継は目も見えず足も動かないあの体で前線に出て自ら指揮を執るつもりなのだ。


「お待ちください。前線の因幡守様より文が届いております」


 五助が紙片を吉継に向かって差し出す。


「因幡守殿から?……読め」


 読め、と命じた吉継の言葉に重い憂いが籠っていた。


「名の為に捨てる命は惜しからじ ついに留まらぬ浮世と思えば」


 読み上げた五助は面を伏せた。

 為広の辞世の句に違いなかった。

 前線の平塚隊も側面から小早川隊の攻撃を受け、劣勢に陥ったのだろう。

 もはや、と思い、主と見定めた吉継に対し先に逝く覚悟と別れの挨拶をしたためたのだ。


「筆と紙の用意はあるか?」


 訊ねた吉継の声が潤み、震えている。


「はっ。ここに」


 五助は準備にぬかりない。


「契りあれば六つのちまたに待てしばし 後れ先立つことはありとも」


 為広への返歌であった。

 そこには吉継自身の最期が刻まれている。

 すでに吉継は死を目前のものとして覚悟している。


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