来客
母上。私に何ができると言うのですか。
今日は泣くまいと思っていても、イツキはサヨリの墓前で手を合わせていると涙を止めることができなくなった。
四十九日も過ぎたというのにイツキの心には何の区切りもつかなかった。
寂しい。
ただひたすら寂しかった。
父も母も姉もほぼ同時に失った。
イツキは天涯孤独の身となってしまったのだ。
神畜の血は今、私一人にしか流れていない。
そう思うとイツキはいっそ琵琶の湖に身を投げ出して、この身も滅ぼせば清々するのではないかと考えてしまう。
神畜の血なぞこの世には必要ない。
あの強い母でさえ世の流れに逆らえず没した。
ましてや、一人残された私は一族の掟に縛られて、この狭い島から出ることも叶わないではないか。
私が神畜の血を長らえさせたところで、一生この島から出られないでは、如何ともしようがない。
振り返れば視界全てが湖だ。
湖面は春の日差しを跳ね返し美しく輝いている。
今日は波も穏やかで、吹きすぎる風に刺々しい冷たさはなくなりつつある。
今日なら水も冷たくなく、入水しても楽だろう。
そんなことできもしないのにイツキの思考はどうしてもそちらに向かってしまう。
「イツキ様!」
五助が駆け寄ってくる音がする。
イツキは慌てて涙を袖で拭き、五助を待った。
「どうした?」
「和尚様がお呼びです」
「そうか」
イツキは気丈に振る舞って、五助の前を歩いて帰った。
寺に戻ると爺の読経が本堂の外にまで響いていた。
鍛えられた爺の声は良く響く。
還暦はとっくに過ぎているはずだが、常に背筋は伸びており声も若々しい。
静かに本堂に上がると、爺は読経を止め、イツキの方を向いて座り直した。
「イツキ様。今日は寺に客がいらっしゃいます」
「珍しいの」
宝厳寺に参詣客が来るのは最近では珍しかった。
以前はひっきりなしに舟で渡って来ていたが、浅井家と織田家の同盟関係が崩れたころから北近江に戦雲がはびこり、誰も危険を冒して島へ渡ってこないようになったのだ。「戦が終わったということか?」
「各地では終わってはおりませぬが、この辺りは少し落ち着いたのでございましょう」
「良きことじゃ」
戦が終わってほしい。平穏な世になってほしい。
生前母がよく言っていたから、そう口にしてみたが、本当に良かったのかどうかは分からない。
浅井が滅び、母が亡くなった。
それで戦が終わったということは、イツキにとってみれば悲しいことなのかもしれない。
「まことに」
爺は二度三度とイツキの言葉に頷いた。
その様子を見ているとイツキは胸の裡がささくれ立つようだった。
爺は浅井が負けて良かったと思っているのか。
私が天涯孤独の身になってしまったことを悲しんではくれないのか。
「して、客が来ることが私に何か関わりがあるのか?」
客は勝手に参詣し、勝手に帰っていく。
話があるなら住職である爺が相手になる。五助もいる。
これまでサヨリやタキが客の世話をしたことはほとんどない。
「左様。あると言えばあります。全てはイツキ様の御心次第」
爺は禅問答のようなことを言う。
イツキは苛立って答えを催促した。
「一体誰が来ると言うのじゃ?」
「羽柴秀吉様にございます」
「羽柴……」
イツキは言葉を失った。
羽柴秀吉。
私から父上、母上、もしかすると姉上までも奪った男。
その男がここへやってくると言うのか。「何故?」
気が付いたらそう訊ねていた。
秀吉は何のためにここへ来るのか。
ここは浅井家ゆかりの寺。
秀吉にとっては敵とも言える。
その寺にやってくると言うことは、破却しようとしているのだろうか。
「他意はございますまい。由緒あるこの寺に参詣したい。それだけと推察します」
爺は眉尻を垂らして言う。
いつも通りの朗らかな表情だ。
その表情がイツキには憎らしく見えた。
「では、爺は秀吉をどのように迎えるのか?」
宝厳寺と浅井家は長い年月のつながりがある。
そしてサヨリとタキ、イツキはこの寺で暮らしていた。
それなのに、宝厳寺の住職である爺が浅井家を滅ぼした羽柴秀吉の来訪をこのような穏やかな表情で迎えようとしているのはどういう了見なのか。
「一人の参詣客としてお迎えいたします。ただ、それだけにございます」
「私の仇であってもか」
「そう、おっしゃられると思っておりました」
爺は何が楽しいのか声を上げて笑う。
「爺。無礼であろう」
「これは、失礼いたしました。イツキ様があまりにも予想通りのお答えでしたので」
笑いを収めると爺は細い目に力を込めた。
表情は柔和なままだが、どこか体全体から威厳のようなものを感じる。「御仏の前には敵も味方もありません。恨み、憎しみもまた同様にございます。どなたがこの宝厳寺にお参りになられても拙僧にとっては同じことでございます」
そう聞かされても、イツキは納得できない。
二親を弑された恨みは骨髄に達している。
穏やかに迎えられるはずがない。
羽柴の名前を聞いただけでも、怒りで全ての毛が逆立ちそうだ。
爺はイツキの様子を見て穏やかに言った。
「イツキ様はそれでよろしいかと。イツキ様は神の御使い。神はもともと荒ぶるお姿。ご自分の思うがままになさればよろしい。羽柴様の御命を狙われるもご随意に」
「良いのか」
「ただし、その時は今ではございません。失礼ながらイツキ様はまだ八つ。神力もまだまだ本物ではなく、本願を達せられる前に返り討ちにあってしまうかもしれません。そうなれば一族の血も絶えてしまいます。サヨリ様にイツキ様の行く末を託された拙僧としては、それをお許しすることはできません」
爺の言うことは痛いほど分かる。
母上でも勝てなかった相手に己一人で何とかできるはずがない。
「では、私はどうすれば?」
「敵を知るのも大切なこと。今は羽柴秀吉がいかほどのものか、とくとご覧なされませ」
爺の言葉はイツキの胸に深く突き刺さった。
気が付けばイツキの目から涙がこぼれていた。
爺は先ほど敵も味方もないと言ったが、心の中ではそうではないのだ。
浅井家に恩を感じ、イツキの気持ちに寄り添ってくれている。
その時、五助が本堂に羽柴秀吉一行の到着を知らせた。
イツキは涙を拭いて、本堂の裏手に回った。
念のため、鼠に姿を変え柱の陰に隠れた。
間もなく、十数人の武士が本堂に姿を現した。
先頭は赤ら顔の小男だった。
小男はカッカッカと哄笑しながら手にした扇子で手を叩いている。
その小男を取り巻いて他の武士が媚びへつらっている。
あれが羽柴秀吉か。
あれはまるで猿ではないか。
あんな醜い小男に浅井家は負けたのか。
秀吉は本堂の板の間に座すと、この寺の本尊である弁財天に手を合わせた。
そして、脇に控えた爺に向き直る。
「いやはや何とも荘厳なご本尊にござるな。秀吉、感服した次第」
秀吉はにこやかに言った。
「こちらの宝厳寺は六百年以上の歴史がございますれば」
「六百年!これは大したものじゃ。さぞかし、霊験もあらたかなのであろう」
秀吉は控えている供回りの者に向かって「のう」と声を掛ける。
屈強そうな武士たちが一様に神妙な顔で頷いた。
「こちらの御本尊は弁財天。財を成すだけでなく、戦の勝利を司るとも言われております」
「おう。それはわしにぴったりの霊験じゃ。これはしっかり拝まねば」
そう言って、秀吉はもう一度本尊に向き直り大仰に手を合わせた。
そして、従者に眩く光る金銀を持ってこさせる。
「これはお近づきのしるしに寄進させていただきたいと思って持って参った。このたび、わしは主、織田信長様により北近江を拝領した。こちらの寺はかねてより浅井家と昵懇であったと聞く。図らずも織田家と浅井家は敵同士となってしまった。浅井の縁者にとっては此度は辛いことと相成ったが、戦の勝ち負けは時の運。わしがその後にこの地に封じられたのも何かの縁。今後はこちらにもできる限りのことはさせていただくゆえ、過ぎたことは琵琶の水に流して、羽柴家との付き合いをよろしくお願いしたい」
秀吉は配下一同爺に向かって丁重に頭を下げた。
「もったいなきお言葉。拙僧からも、お願いいたしまする」
爺は秀吉よりも深く頭を垂れた。
「時に、御住職。わしはこのたび、ここから東にある今浜を長浜と名を改め、そこに新しい城を築こうと思っておる。城の周りを活気のある町にしたい」
「それは結構なことにございます」
「そこでじゃ、御住職に頼みがある」
「何でございましょう?」
「こちらの寺から何かいただけまいか。何かこうどーんとな、大きな置物が良いのじゃが。宝厳寺の霊験で長浜の町に繁栄がもたらされるようなものが良いのじゃがのう」
「宝厳寺の宝物ということにござりまするか?」
秀吉は顔の前で合掌し、「頼む。この通りじゃ」と爺に頭を下げた。
イツキは歯噛みした。
勝手に押しかけてきて、何かよこせとは、なんと都合の良いことを。
宝厳寺の宝物には浅井家が奉納したものも多い。
それがあの猿の手元に行くことだけはどうにも承知できない。
「良いものがございます」
「おう、何じゃ?」
秀吉は身を乗り出した。
「木でございます」
「木?木とは、あの木か?」
「左様。ご覧のとおり寺の裏は森となっております。羽柴様は長浜に城を築かれるとのこと。その普請にこちらの島の樹木をお使いくださいませ。この竹生島は古から神仏の住まう島と言われておりますれば、そこに生える樹木もまたただの樹木にはございません。城の普請にお使いになられれば、きっと神仏の御加護がございますでしょう」
「木か……。おう、木な。御住職の御言葉どおり、樹木は普請に欠かせぬわ」
秀吉は顎を撫でながら思案顔だったが、腹を決めたように腿をポンと叩いた。
「サキチ。ヘイマ。その方ら、今から森を見分してまいれ。普請に良い樹木を探してこい」
秀吉に名指しをされた武士が秀吉に向かって平伏し、立ち上がった。
サキチ?
ヘイマ?
イツキはその名をどこかで聞いた気がしていた。
しかし、本堂から出て行こうとする二人の顔に覚えはない。
爺は五助を呼んだ。
五助が本堂に顔を出すと、爺は森の案内をするように申しつけた。
イツキはサキチとヘイマを確認するためにこっそり本堂から忍び出た。
鷹に変化し寺の裏側から飛び上がって、森の入り口の枝にとまり、三人が来るのを待った。
先に現れたのは二人の武士だった。
「体の具合は良いのか、ヘイマ」
「ああ。何故かは分からぬが、この島に着いてから体が楽なのだ。これも島の霊験かもしれんな」
「しかし、食えん和尚だったな」
サキチは虫の居所が悪いようだった。
「言葉に気を付けろ、サキチ」
ヘイマがサキチをたしなめる。
「そうは言うが、あれでは殿が体良く追い払われたということだろう。木は宝物ではないぞ。確かに宝厳寺は由緒ある寺ではあろうが、寺は寺だ。殿は今や北近江を治める大名。領主の命であれば従うのが当然ではないか。あの和尚は殿を見下しておる」
「おぬしの言うことも分かる。確かに殿は北近江を拝領された。だが、拝領されたから領地が治まるわけではない。領地を治めるには人心を掴まねばならぬ。北近江は長い間、浅井家が治めていた。その浅井家を打ち滅ぼしたのが羽柴家だ。北近江の人間は我々を敵と思っている。まして浅井家と深いつながりのあった宝厳寺はなおさらだ。しかも、北近江で宝厳寺の名声は高い。ここで宝厳寺の住職にそっぽを向かれたら、羽柴家は北近江で立ちいかなくなるぞ。羽柴家はゆっくりとこの地に根を張らねばならぬ。それにはある程度下手に出なくてはならないということだ。だからこそ、殿も島の木で了承されたのだ」
「そうは言ってもな、ヘイマ」
そこへ五助が現れ、ヘイマがサキチの口を制した。
「遅くなりまして申し訳ありません。こちらでございます」
五助は二人を先導して森の中に入って行った。
イツキはヘイマとサキチのことを思い出していた。
七尾山でサキチがイツキのことを取り押さえたが、ヘイマが逃がしてくれたのだ。
あれが、ヘイマか。
イツキは助けてくれたヘイマの顔を胸に焼き付けるように高所から見つめた。
「良い木がたくさんあるではないか。これなら城の普請にも大いに役立つな」
五助に気を遣ったのかサキチが大げさなぐらいに感心してみせる。
しかし、五助の声は冷たく響いた。
「ここら一帯は椨の木でございます。枝葉は良いにおいがしますので線香には使われますが、材木には向きません」
「何?」
サキチが気色ばむ。「ここら辺りは全部同じ木ではないか。では城の材木など取れぬと言うことか」
「もう少し奥へ参りますと、檜や杉がございます。それならば材木にうってつけにございましょう。ただし、十本もございませんが」
「十本もないだと?小僧。わしを舐めておるのか!それでどうやって城を建てるのだ!」
五助のにべもない答えにサキチが顔を赤くして怒り出した。
しかし、五助は臆する様子もなく、平然とサキチの顔を見返している。
そこへヘイマが「まあまあ」と間に入った。
「サキチ。殿は島の木で納得されたのだ。十本なら十本で仕方ないではないか。我々も木を切り倒し波間を舟で運ぶという手間が省けるというもの」
ヘイマはサキチをなだめ、五助に向き直った。「五助と申したな。サキチを相手になかなか胆が据わっておる。わしはその方を気に入った。どうだ。武士になるつもりはないか。なりたければわしから殿へ推挙いたそう。心配はいらぬぞ。元はと言えばわしもサキチもおぬしと同じ寺の小僧なのだ。我らの殿は出自は気になさらぬ。自分の才覚次第で立身出世ができるぞ」
五助は深々とヘイマに頭を垂れた。
「ありがたいお言葉にございます。ですが、私は浅井家には仕官しても、羽柴家に御厄介になるつもりはありません」
「なんじゃと!」
サキチが再び怒りを露わにする。
それをヘイマが「まあまあ」と再びなだめる。
「それは惜しいことじゃ。気が変わったらいつでも教えてくれて」