刺客
慶長五年九月十五日。
雨の止んだ関ヶ原は静寂のなか夜明けを迎えた。
東の空が明るくなるにつれ、辺りを覆う色は漆黒から濃紺、そして乳白へと変化するも視界は依然として開けない。
関ヶ原全体が深い霧に包まれているのだった。
しかし、霧のせいで余計に空気は緊張しているようだった。
霧のすぐ向こうには敵が槍を構えて立っているかもしれない。
その不安が殺気と変わって大谷軍の前線に位置する平塚隊の面々からは物々しい雰囲気が立ち上り、上空を旋回しているイツキの心胆を寒からしめる。
これが、戦か……。
イツキは腹の底に力を入れ直した。
“平塚隊の面々、まさに鬼気迫る気迫。一寸の気の緩みもございません”
“よし。そのまま慎重に東に向かい、平塚隊の正面に来る敵の様子を探れ”
“はい”
イツキは高度を上げ、ゆっくり東へ針路を取った。
羽を動かすたびに痛みが走る。
先ほど吉継に強く望まれ、イツキは腕に刃を立て、懸命に血を絞ったのだ。
吉継はそれを神酒に混ぜて飲み干すと、「勝つ!」とこれまでに聞いたことのない大きな声を発した。
吉継の体には不思議な気が漲っているようだった。
昨晩の床に伏せていた生死の境を彷徨うような男とは全くの別人のようである。
それは頼もしくもあり、不吉なようでもあった。
しかし、ここ数年で最も覇気があるのは間違いない。
軍配を持ってどっかりと床几に座る吉継の姿に、吉継と幾つもの戦陣を共にした五助が「鬼神のごとし」と呟いて頬に涙を流すのを見て、イツキは今日という日の意味を改めて感じ取った。
大谷刑部少輔吉継の三十五年にわたる人生を賭した舞台を共にできる喜びと悲しみを奥歯で噛みしめた。
これで本当に最後なのだと思うと嗚咽が漏れそうになる。
泣きじゃくりたいのを必死に我慢してイツキは主君であり定めの人である吉継を見つめた。
吉継は頭巾の向こうから一瞬慈愛に満ちた穏やかな眼差しをイツキの視線に絡めたかと思うと、すぐにその目に厳しさを湛え、イツキに下知を与えた。
霧が深くては差配のしようがない。イツキ。関ヶ原の様子を報告せよ。
吉継の今日の最初の命を誰よりも早く受け、イツキは一つ体を震わせて、上空に飛び立ったのだ。
霧の切れ間に人影が見えた気がして、イツキの全身に一気に緊張が走った。
懸命に目を凝らすと、やはり一軍がそこにあった。
少しずつ高度を下げ、敵陣の様子を探る。
“申し上げます!”
イツキは心の中で声を張り上げた。
“見つけたか?”
“はい。平塚隊の最前線から東におよそ五町(五百メートル強)。霧が濃く、推測でしかありませんが、数は五、六千かと。軍旗は黒地で、えっと……白い線で描いた波のような文様が見えます”
“それは『黒地に山道』の福島正則に違いない。先ほど、宇喜多様から使者が来た。福島隊と遭遇し一旦、互いに距離を取ったとな。福島正則、相手にとって不足はないが、恐らく福島隊は宇喜多隊を目指すべき敵と見ている。となると、我らの敵はその福島隊よりも後方かあるいは南に位置する隊になる。イツキ。探れるか?”
“お任せを”
イツキは再び高度を上げ、さらに南東に向かった。
福島隊に付き従うように更なる敵勢が二隊見えてきた。
“申し上げます”
“うむ”
“福島隊のすぐ南東に二隊。一隊は白地に朱い丸が描かれた軍旗。およそ二千五百。もう一隊は黒地に白い四角の文様の軍旗でおよそ三千”
“『白地に朱の丸』は藤堂高虎。『黒地に白の一つ目結』は京極高知。きゃつらがわしらの相手になるのかもしれん。イツキ、ようやってくれた”
“もったいなきお言葉”
“イツキ。もう一つ頼めるか?”
“何なりと”
“三つ葉葵の紋を探してくれ。そこには厭離穢土欣求浄土と書かれた軍旗と金扇の大馬印があるはず”
“それは……”
“内府様の本陣じゃ”
“承知”
イツキは徳川方の軍勢の奥を目指した。
眼下に広がる関ヶ原の盆地には霧の切れ間切れ間に将兵がひしめき合っているのが見える。
嗚呼。
イツキは嘆息した。
これだけの人が今から殺し合いをするのか。
イツキの脳裏に悲惨な地獄絵図が思い浮かぶ。
これから途方もない数の人が死ぬだろう。
どの人にも家があり親がいて妻がいて子がいる。
一人の人が死ねば、その人を取り巻く多くの人が悲しむと言うのに、家康も三成も何のために合戦を始めようとするのだろうか。
ここで多くの屍と涙の上に勝利を得て、どれほどの価値あるものが生まれると言うのか。
こんなことは間違っている。
両軍が指呼の間に向き合ったこの戦は、もう止められない。
しかし、これを最後にしなくてはならない。
絶対に最後にしなくては。
イツキは目を凝らし、痛む翼を懸命に動かして家康の本陣を探した。
あれか……。
関ヶ原の入り口、南宮山の脇にある小高い山の頂上に金色に輝くものが見えた。
近づけばやはりそれは家康の大馬印の金扇だった。
隣には白地に厭離穢土欣求浄土と書かれた旗が翻っている。
この丘の名は確か、桃配山。
イツキはさらに近づいた。
そして見つけた。
武将たちの中央に座り爪を噛んでいる老武将を。
あれが徳川家康に違いない。
“殿!”
“見つけたか!”
“桃配山の山頂に金扇と厭離穢土欣求浄土。内府様に違いありません”
桃配山は山というよりは丘であり、関ヶ原全体を見渡すことができるほどの高さはない。
しかし、ここは壬申の乱の折、後の天武天皇となった大海人皇子が村人より献上された山桃を兵士に配り戦に勝ったという験の良い地。
家康も一大決戦を迎え人知を超えた何かにすがりたい思いがあるのだろうか。
“桃配山……。験を担がれたのだな。あい分かった。イツキ。ようやってくれた。早速、戻ってまいれ”
帰陣の命が下りたが、イツキは桃配山の上空から離れなかった。
やれる。
今ならやれる。
このまま家康の背後に飛び降り、狼に変化して身に着けた鎧ごと首元を噛み千切る。
そうすれば家康は息絶え、徳川方は総崩れになるだろう。
もちろん自分の命が引換えになるが、それで石田方に、吉継に勝利をもたらすことができるなら、ここでやるべきだ。
私が刺客になるべきだ。
霧が少しずつ消え始めた。
家康の脇を固める武将たちは誰もが視界の前方に開けていく戦場に集中している。
家康本人も立ち上がり関ヶ原の様子に釘付けだ。
“イツキ。どうした?何かあったか?”
“殿。……私にお任せください”
“イツキ?……イツキ。ならん。無茶はいかんぞ!早く帰ってまいれ”
イツキの意図を察したのだろう。
吉継の怒鳴り声がイツキの胸に響く。
しかし、イツキも引くつもりはない。
少しずつ降下し、家康の背後に回る。
“殿。ここで内府様を弑せば我が軍は勝てます。内府様の本陣は少しずつ霧が晴れていく戦場に目を向けており隙だらけ。今が絶好の機会。よもやしくじることはございません。お任せください”
“ならん!イツキ。今すぐわしのもとへ帰ってまいれ。これは主命である!”
主命。
叫ぶような吉継の声がイツキの決心を鈍らせる。
その時、イツキと家康の間に黒ずくめの男が立ちはだかった。
まるで鷹に変化したイツキをイツキと知っているかのように。
忍者か?
イツキはその黒ずくめの男に注視した。
身にまとっているのは僧衣のようだ。
どこか見覚えがある。
確かに知っている。
……天海様。
天海は家康の背中目がけて降下するイツキに向かって左右に首を振った。
タキの言葉が脳裏に浮かぶ。
我らは定めの人を破滅に追いやる破滅神。
タキは定めの人、天海を破滅から遠ざけるために徳川方につかせた。
しかし、タキの言うことが全て正しいとは限らない。
その言葉に抗わなければ、自分がここにいる意味はない。
イツキは天海もろとも家康を冥土に送ることに決め、桃配山に急速に近づいた。
誰にも刺客となった私の本懐を遂げる邪魔はさせない。
“イツキ。よう聞け。イツキがしようとしていることは無駄死にになる。内府様は何人も影武者を用意しておられる。よもやそのような分かりやすい場所に安穏と鎮座しておられるはずがない。イツキが狙っているのは影武者だ”
影武者?
だから天海は首を横に振っているのか。
イツキは羽に力を込め、一気に高度を上げた。
その時、前方で一発の銃声が霧を切り裂くように轟いた。