兄弟
深更。
篠突く雨の中、密かに三成が大谷陣を訪れた。
大垣城から笹尾山へ転進する途上である。
三成は重臣島左近とわずかな供回りだけを従えて吉継の前に現れた。
「内府の軍が赤坂の本営を出て、西に進軍している」
冷たい雨にずぶ濡れになりながらも、三成は熱い口調で唾を飛ばしながら語った。
その目は爛々と輝いている。
「聞いておる。いよいよだな」
頷く吉継は床の上に半身を起こした状態で三成を迎えている。
何とか震えは治まったものの、起き上がるまでに体力は回復していない。
「わしは、今しがた、松尾山に寄ってきた」
「松尾山に?」
吉継は少し驚いた様子で三成の顔を見た。
「此度の戦、金吾の軍が鍵を握っておる。松尾山に入るはずだった毛利輝元様は何かの手違いで間に合わなかった。しかし、その松尾山の穴を金吾が一万五千の大軍で埋めてくれた。これで我らの鶴翼の陣は完成した。後はこの陣形の大きな翼で内府の軍を包み込むだけ。戦が始まり、頃合いを見計らってわしが狼煙を上げる。その狼煙を合図に金吾は一万五千の兵を伴って一気に山を下り、内府の軍の脇腹に突っ込むという算段だ」
「金吾は何と言っておった?」
「いや。話をしたのは平岡頼勝という小早川家の重臣じゃ。金吾は風邪の気があると言うて伏せて出てこんかったわ。それは仕方ない。この時刻であるし、無理に出てこられてうつされでもしたらかなわんからな」
おかしい。
イツキでさえそう思った。
実質上の大将である石田三成が直々に面会に来たのだ。
その相手を家臣に任せるとは、どういう了見か。
風邪どころか生死の境をさまよう重篤な吉継であってもこうやって自らが出迎えている。
それが礼というもの。
時刻や体調の問題ではないはず。
頼勝という名前にも覚えがある。
吉継が談判しに行った時に、吉継に対して冷たい態度を取り、無礼として刀に手を掛けた男がいた。
あの時、秀秋にたしなめられていた男が頼勝と呼ばれていた。
あれが三成の言う小早川家の重臣平岡頼勝だろう。
小早川軍の中に石田派と内府派といるとすれば、平岡は間違いなく内府派だ。
その平岡が三成の相手をしたという事実に不吉な空気を感じ取ったのはイツキだけではないはずだ。
「すまんな。わしがこの体たらくで。だが、もう少し休めば大丈夫だ。佐吉の足手まといにはならん」
「そんなことは平馬に限っては心配しておらん。それにおぬしの場合は体が動かなくても頭と口が動けば十分だ。わしが頼りにしている大谷刑部はそれだけの価値がある男だからな」
「あまり買いかぶるな」
「買いかぶるさ。おぬしはわしに命を預けると言ってくれたが、わしも同じようにおぬしに命を託しておるのだ」
そう言って、三成は懐から白いものを出した。
二枚の盃だった。
背後から左近が差し出した瓢箪を受け取り、三成は盃に白く濁った酒を注いだ。
一枚を吉継に差し出す。
「佐吉」
吉継は少し震える手で盃を受け取った。
「平馬。ゆっくりはしておられんが、どうしてもこれだけはやっておきたかったのだ。わしとおぬしは同じ北近江に生まれ、若いころから太閤殿下にお仕えし、奉行として共に切磋琢磨した。そして今日ここにそれぞれ軍を率いて古今稀に見る大戦に出る。この因縁、血の繋がり以上のものがあろう。しかし、わし達はこれまで格式ばった契りの盃は交わしたことがなかった。今、ここで交わしておかねば、一生後悔することになるかもしれん。平馬。おぬしに出会えたこと、わしの誇りじゃ。兄弟として盃を交わしてくれんか」
三成の目はいつになく真剣だった。
「おう」
吉継は頭巾を口元まで上げ、一気に盃を呷った。
二人は互いの盃を交換し、もう一度酒を飲んだ。
「これで思い残すことはない」
三成の目にうっすら涙が浮かんでいる。
それを振り切るように三成は立ち上がった。「明日は力の限り暴れよう。そして共に勝鬨を上げようぞ」
「ああ。その時はわしが敦賀の酒を振る舞おう」
三成は吉継と見つめ合い、一つ頷いてから場を去っていった。
三成の後ろに付き従って出て行こうとする左近を吉継が呼び止める。
踵を返して左近が「何か?」と吉継の膝もとに座る。
「明日、誰が石田軍を攻めてくるかは分からんが、内府に従う輩はどいつもこいつも石田三成憎しの思いで笹尾山を標的に突進してくるだろう。厳しい戦いになるが、そこは考えようだ。闇雲に突進してくる敵は横から押されると弱い。そこは左近殿も十分承知しているだろうがな」
「伏兵は拙者の得意の戦法。良き場所を見計らいまする」
左近の言葉に吉継は深く頷き、手招きをする。
左近が吉継の枕元ににじり寄る。
「佐吉は賢い男だ。万が一この一戦において不覚を取ったとしても、命さえあれば、あいつの才覚ならまたやり直すこともできよう。戦況が如何ともしがたいと思えば、すぐに北国街道を落ちのびさせよ。目と鼻の先に佐吉の生まれ故郷の石田村がある。佐吉なら村を上げて匿ってくれよう」
「刑部様……。笹尾山を石田の陣とされたのはそういう意味だったのですか」
左近は目を見開いて吉継を見た。
吉継は照れたように小さく笑い声を漏らした。
「将棋は玉将が取られるまでは負けではない。この将棋、我が方の玉将は石田三成だ。わしは駒。駒は玉将を守るのが本分」
左近が出て行き静かになると、吉継は再びぐったりと床に伏せた。
すかさず、イツキは吉継に寄り添って横になる。
“殿”
“何だ?”
“私にとっては殿は駒ではありません。私が命を懸けてお守りいたします”
吉継は布団の中でイツキの手をしっかりと握り締めた。