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談判

 ぽつぽつと雨が降り出した。

 まさに泣きっ面に蜂である。

 吉継の顔色は次第に悪くなっている。

 吉継を支える五助も汗まみれ泥まみれで疲労の度が増しているようだ。

 やはり鼠になって懐に入り吉継の体力の低下を少しでも防いでいる方が良かったのかもしれない。

 いや、それ以前に、こんな無理なことは止めねばならなかったのだ。

 イツキは吉継の上空を旋回しながら、ますます雲が厚くなる空を恨めしく見上げた。


“イツキ。本陣まであとどれぐらいか?”

“七割がた登りました。残りは三割程度かと”


 イツキは咄嗟に嘘をついてしまった。

 吉継がいるのは松尾山の中腹。

 まだ半分程度登ったにすぎない。

 そして、これからさらに一層山道は傾斜がきつくなる。

 しかし、そう言ったところで吉継は途中で引き返すことはしないだろう。

 そうであるなら、もう少し、あと少しと励ますことしかイツキにはできなかった。


“分かった”


 イツキの目の下で吉継が五助に何かを話しかけた。

 それに対して五助がブンブンと左右に首を振っている。

 きっと吉継が五助に面倒をかけたことを詫びているのだろう。

 二人は松尾山の頂上付近にある小早川秀秋本陣を目指して一歩一歩踏みしめるように足を繰り出した。


 それにしても、とイツキは険しい目で吉継の周辺にいる小早川家の兵士を見た。

 病身の吉継が苦しみながら山を登っているというのに手を貸そうとする者は一人もおらず、誰も彼もが病が伝染するのを恐れるかのように、吉継と五助を遠巻きに眺めるだけだ。

 主の考えが家臣の態度として表れているのだ。

 面倒なことに首を突っ込まず、日和見を決め込み、大樹にすり寄り、保身を第一に考える。

 これが小早川の本性か。


 しかし…。


 そんな小早川であっても吉継は病んだ体に鞭を打って談判しようとしている。

 できることは何でもする。

 吉継は自分の命と引き換えに、石田方に勝利をもたらそうとしているのだ。


“イツキ”


 吉継は足を踏み出すたびに大きく体を揺らしながら頭上のイツキに心の中で声を掛けてくる。


“はい”

“わしは辛そうに見えるか”


 イツキは言葉の選択に逡巡した。

 この問いにはどう答えればよい。


“殿は……”

“言葉に詰まるということは、辛そうだということだな”


 吉継は明晰だ。

 全て見透かされている。

 先ほどの嘘も吉継には通用していないかもしれない。


“はい。見ていられません”


 もう、こちらは涙をこらえるだけで必死なのだ。

 無茶なことはやめてもらいたい。

 イツキは本心をさらけ出した。


“それで良いのだ。この大谷吉継が死病にありながら、無理をして山を登り会いに来た。そのことが金吾の心に深く突き刺さる。それが目的なのだからな”


 吉継は笑って、一瞬頭上に顔を向けた。


 やがて、吉継は松尾山城の小早川秀秋の本陣に辿り着いた。

 さすがに秀秋本人が幕の外に出て吉継を中に迎え入れる。


 イツキは本陣脇の杉の木の枝に止まり、耳を欹てた。


「文をくだされば、拙者から参ったものを」


 秀秋が困惑した声を出す。

 吉継の魂胆がいずこにあるのかを探っている様子もある。


 吉継は疲労困憊の体で床几に座り、手拭いで汗を拭きながら首を左右に振った。

 背後から五助が吉継の背中に向かって扇子で風を送る。


「亡き太閤殿下の御養子であり五大老でもあられた貴殿に拙者のむさくるしい陣にお越しいただくなどあってはならんこと。拙者が勝手にまいったので、お気遣いなく」


 はぁ、と秀秋は力なく相槌を打った。


「それで、その、本日の用向きは?」


 そう、それ、と吉継は右手の扇子で左手の平をポンと叩いた。


「いよいよ、内府様が美濃に入られた由。決戦は近い。早ければ明日にも戦端が開かれるでしょう。此度の大戦について北政所様は何と仰せですかな?」


 吉継はいきなり北政所の名前を出した。

 北政所とは亡き太閤秀吉の正室ねねのことである。

 小早川秀秋が伏見城攻めの前に密かに北政所に面会を求めたことは五助が突き止めていた。

 今後の身の振り方を相談したのではないかと吉継は見ていた。


 秀秋は一瞬大きく目を見開いたが、一つ咳払いをして居住まいを正した。


「北政所様とは久しくお会いしておりません。しかし、北政所様の心中をお察しするに、豊臣家の家臣が二つに割れていがみ合っているのを嘆いておられるかもしれません」

「なるほど。貴殿は貴殿の御一存でこの場におられるということでござるな?」

「左様。拙者は誰の指図も受けてはおらん」

「では」


 吉継は床几の上で体を少し前に倒した。「戦端が開かれたその時、貴殿が攻めるのはどの軍勢か?」


 吉継の迫力に腰が引けたような声で秀秋が答える。


「無論。敵方でござる」

「しからば、貴殿の敵の名を伺いたい」


 吉継の言葉に秀秋の周囲に座っていた家臣が色めきだった。

 無礼であろう、と腰の刀に手を掛けて立ち上がる者もいる。


 五助も吉継の背後に立って目を光らせた。


 イツキはハラハラして場を見守った。

 いざとなれば飛び降りて吉継を救い出さねばならない。

 しかし、どうすれば一万五千の兵士から逃げのびることができるのだろうか。


 秀秋は「頼勝。まあ座れ」と立ち上がった家臣を諌め、微かに頬を緩めた。


「ハハハ。刑部殿はおかしなことを申される。わしは刑部殿の味方。敵の名は言わずと知れておろう」


“イツキ”

“はい”

“ここから関ヶ原は見えるか”

“はい。殿の右手側に開けております”


 吉継は床几に座ったまま右側に顔を向けた。


「この大谷刑部少輔吉継。身は病に冒されてはおるが、なればこそ死をも恐れぬ槍働きを披露いたそう。その目でとくとご覧あれ」

「期待しておりまする」

「ここからは関ヶ原の様子が一望できる。そして我らが陣形の中央に位置する貴殿の力がこの戦の帰趨を決める。貴殿は三成のことは嫌いであろう。しかし、三成は私利私欲の男ではござらん。この戦は豊臣家の今後を大きく左右する。貴殿の秀の字は太閤殿下から引き継がれたもの。豊臣家のために、小早川秀秋ここにありというところを見せてくだされ」


 御無礼仕った、と詫びて吉継は秀秋の本陣を出た。

 秀秋に見送られ、五助に支えられて松尾山を少しずつ下山する。

 藤川台の大谷家本陣に戻ったときにはすっかり日が落ち、雨で濡れそぼった吉継の体は夏だというのに氷のような冷たさだった。


 薬湯を飲んだ吉継を床につかせ、吉継の体を温めるためにイツキも同じ布団に入る。

 ぶるぶる震える凍てついた吉継の体をさすっているとイツキの目には涙が溢れた。

 吉継の体は骨と皮だけだ。

 胸にはかつての厚みはなく、腹は大きく窪んでいる。

 この体であの急峻な松尾山を登ったのか。


“ここまでせねば、ならないのですか?”

“これが、……大谷、吉継の、……戦よ”


 吉継は微かに笑い、布団の端を握り締めてまた体を震えさせた。“でも、良いこともある”


“何がでございますか?”

“イツキの、体を、……今一度肌で、感じることができた”

“殿……”


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