軍議
吉継は自陣から松尾山を見上げていた。
その目は既にほとんど光を捉えていないはずだが、じっと松尾山の頂を見据えて動かない。
被っている白頭巾でその表情は伺いしれないが、イツキや五助であっても、おいそれと声を掛けることのできない張りつめた空気が辺りを支配していた。
吉継が見上げる松尾山には柄の部分で鎌が交差した図柄、違い鎌が描かれた軍旗が無数に翻っている。
小早川秀秋の軍勢が松尾山を占拠しているのだ。
その数は一万五千を超えるだろう。
そのすぐ真北に陣を張る大谷軍は友軍の平塚隊を含めても五千前後。
空に低く垂れこめる分厚い黒雲のせいだろうか。
夥しい数の小早川の大軍が山を覆い尽くしてこちらを見下ろしている様は、イツキにも胸苦しい圧迫感を覚えさせた。
豊穣と戦勝を表すという鎌の絵がイツキには禍々しい不気味な凶刃に見える。
「あの隊は我が軍の味方なのであろう?」
イツキは思わず五助の袖を掴んで傍に引き寄せ、耳に低く問いかけた。
「ご安心を。小早川様は石田方。我らのお味方にございます」
顔をこわばらせた五助の返答に何一つ安心などできない。
「では、松尾山城に入られる予定だった石田方総大将の毛利様はどうなされたのか?」
「何の手違いか、未だに大坂とのこと」
五助も力なく俯いてしまう。
イツキはその五助に「何故、毛利様は動かぬ」とは訊けなかった。
答えは分かり切っている。
石田方総大将の毛利輝元は徳川家康と直接対峙することを恐れているのだ。
そこへ三成からの使者が現れた。
早口に大垣城での軍議への参加を求め、すぐに踵を返し去っていく。
「殿。徳川内府様の軍が尾張にまで出張ってきた由。間もなく美濃へ入られるのでしょう。石田方は大垣城で軍議とのことでございます」
五助に声を掛けられても、吉継は松尾山から顔を動かさなかった。
「吉勝を呼べ」
「ハッ」
間もなく、大股で足音を響かせて吉勝が現れ、吉継の傍で膝をついた。
吉勝は泰然としている。
きっと決戦を前にして内心は不安でいっぱいだろうが、それを外に見せないのは好ましかった。
「義父上。お呼びにございますか?」
「そなた、わしの名代として、大谷家当主として、今から大垣城の軍議に出よ。わしにはやらねばならんことができた」
「承知」
吉勝は機敏に立ち上がり、御免、と背を向ける。
その吉勝に吉継が「軍議にて」と声を放ち、吉勝を振り返させる。
「夜討ちの案が出された場合は、賛同すべし。長旅の軍を夜陰に紛れて討つは上策である」
吉勝は一礼を残して去っていった。
「五助」
吉勝の足音が消えると、吉継は五助を呼び寄せた。
「こちらに」
「我が陣のある藤川台の南に堀、土塁を築き、柵を設けよ」
「殿。藤川台の、南、でございますか?」
五助はゆっくりと訊ね返した。
吉継の声に聞き取りにくいところはなかった。
それでも問い返すのは吉継のこの指示がそれだけ重要だということだ。
「そうだ。南、だ」
藤川台の南は松尾山。
そこには本日、小早川秀秋が陣を張った。
その小早川軍との間に堀を築くということはつまり、吉継は松尾山の小早川を敵視すべきだと判断したのだ。
「承知しました。ただし、我らの動きは松尾山から丸見え。それでもよろしいのでしょうか?」
五助も吉継の意図を理解しているようだった。
全くうろたえた様子がないのは、この状況を吉継とともに想定していたということなのだろう。
「構わぬ。これ見よがしにやってやれ。そして、堀の進捗と松尾山の様子を逐一わしに伝えよ」
五助は吉継の意図を全て理解した様子できびきびと去っていった。
夕刻。
軍議を終えて吉勝が戻ってきた。
早速大谷軍の陣内でも軍議が催される。
座には吉継、吉勝を上座に、今回の戦では吉継の指揮下に入る諸侯、すなわち平塚為広、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らも参集された。
大谷家の重臣も居並び、その中にはもちろん五助もいた。
イツキも密かに吉継の懐の中で緊張しながら場を見守る。
吉勝が大垣城での軍議の内容を苦々しい顔で語り出す。
「宇喜多様、島津様より夜討ちを行うべしとの提案がありました。長旅に疲れ徳川方の軍は覇気を失っている。夜陰に紛れ撃ちかかれば勝利間違いなしとのことでした。意見を求められ、私も強く賛意を示したところです。しかしながら、石田様におかれては、我らは亡き太閤殿下のために立ち上がった正義の軍。夜討ちなどという小人の策を選択することなどあってはならん。それで勝っても天下の笑い者。豊臣家の名を貶めるだけのことだ、と即座に却下なさいました」
「佐吉らしいの」
吉継は低く声を押し殺すようにして笑った。
「義父上。笑い事ではございません。島津様などは、おぬしは戦が分かっておらん、と息巻いて、石田様に掴みかからんばかり。小西様のとりなしで場は収まりましたが、あれでは先が思いやられます」
「今さら言っても始まらん。我らはあいつに従ってここまで来た。この戦、あいつの好きなようにやらせてやりたい」
吉継の言葉に吉勝は諦めたように息を吐き、報告を続けた。
「徳川方はおよそ七万五千。対する我が石田方は八万四千。兵数でいけば我らが有利」
驚きの声が上がった。
石田方は大将の毛利輝元や大津城攻めを行っている立花宗茂らの軍勢が不在であるのに、徳川方に勝る兵力となっていることが諸侯には意外だったようだ。
「戦は兵の数では決まらん。各々方、油断めさるな」
吉継が座に注意を促す。
吉継は小早川の軍勢を考慮しているのだろう。
小早川軍、一万五千余が敵につけば一気に情勢は変わってしまう。
「それから、信州の情勢が伝わってまいりました。上田城の真田昌幸殿、幸村殿親子が徳川秀忠の軍勢、およそ三万八千を向こうに回して奮戦の由。僅か二千五百の手勢で徳川軍を翻弄。徳川秀忠はまだ信州を出られぬ模様」
吉勝の報告に場が沸き立った。
イツキも心の中で快哉を上げた。
さすがは幸村。
十倍以上の敵勢を前にして怯むことなく、そして返り討ちにする。
まさに天晴。
「どうじゃ。我が婿殿は強かろう」
吉継も万座に自慢するように幸村を褒めたたえた。「我らも負けてはおられん。この戦で信州の真田に劣らぬ武名を轟かせようではないか!」
吉継の気合いが場を一気に引き締め、奮い立たせた。
軍議が終わり、各将が持ち場に戻るところ、吉継は為広を近くに呼び寄せた。
「因幡守殿。折り入って貴殿に頼みがある」
「刑部殿。どうなされた?」
「この期に及んで申し訳ないのだが、わしの目はもう全く見えぬ。これでは戦況に応じた指示が出せぬ。因幡守殿には我が軍の前線の指揮を預けたい」
「何を弱気なことを。前田軍を戦わずして敗走させた大谷刑部少輔吉継の言葉とは思えんな」
為広は吉継の手を手に取った。「わしは刑部殿の知略に全幅の信頼を置いておる。目が見えようが見えまいが関係ない。予定通りわしを顎で使ってくだされ」
因幡守殿。
吉継は一瞬声を詰まらせた。
「わしは最後の大戦で貴殿と戦陣に立てることを誇りに思う。……貴殿だけには我が本心を伝えておきたい」
「本心?何かな?」
「わしが貴殿に前線の指揮を預けると申したのは、前線以外に集中したいことがあるからなのだ」
「前線以外に?」
「左様。わしは我が軍の南、松尾山の動向に全ての神経を注ぎたい」
「金吾か」
「彼の者、内府様と通じておるとわしは見ている」
「何と?」
為広は自分の声が大きくなったのを気にして辺りを見回し、声を潜めた。「それはまことか?」
「金吾はかつて唐入りの折、釜山で予定とは違う行動に出て、その軽挙を亡き太閤殿下に咎められ、転封の憂き目にあっている。その際、亡き太閤殿下に事の次第を報告した佐吉に対して、自分を貶めたと恨みを抱いているのだ。そして、先年内府様に旧領に戻してもらったことで内府様には頭が上がらない。今、石田方についているのは上杉攻めの出立が遅れ、そこに佐吉が兵を起こしたことで近くにいた石田方に入らざるを得なかったという成り行きでしかない。そしてわしの密偵によれば、金吾は内府様に付き従っている黒田長政と度々文のやり取りをしており、大久保なる目付役を黒田から送り込まれている。わしは金吾は八割がた裏切ると見ておる」
「なんと……」
「因幡守殿。わしは金吾に備える。貴殿は鬼も恐れる槍働きでできるだけ敵陣深く斬りこみ石田方優勢という印象を金吾に与えてほしい。金吾は優柔不断。まだ石田方として動く余地を残している。情勢を見極め、勝ち馬に乗るつもりなのだ。そこを我々は突きたい。しかし、万が一の時は、金吾はわしが食い止める。命に代えても金吾の好きにはさせん」