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母衣

 藤川台の吉継の本陣に駆けこんできた三成は、顔を紅潮させていた。


「何じゃ、佐吉。騒々しい」


 吉継は手で口元を押さえ、扇子で宙を舞う埃を払いのける仕種をした。

 実際は家臣がしっかり掃除をしているので舞うような埃はないのだが、吉継の気持ちも理解できないわけではない。

 三成はまさに埃をまき散らすほどの、イツキが吉継の懐に入り込む猶予もない勢いで吉継の前に現れたのだ。

 従って、イツキは今、鼠の格好で吉継の背後に隠れている。


「平馬。これが喜ばずにいられようか」

「そんなに良いことがあったのか?」


 相変わらず吉継は三成の勢いを風に揺れる柳の葉のように受け流す。

 イツキは三成と吉継のこうしたやり取りを何度となく見てきた。

 今回もかと思うと、思わず笑ってしまいそうになる。


「淀の方様から先ほど黄母衣が二千人分届いたのじゃ。ありがたいことだ」


 これも亡き太閤殿下のお力添え、と三成は西方に向かって手を合わせる。


 母衣とは戦場において甲冑の背中に付ける大きな布袋のようなもので、馬で駆けると、母衣の中に風が入り込み背中全体を覆うように膨らむのだと吉継が教えてくれた。

 昔は背後からの矢や石から身を守るために使われていたようだが、時代を経て今では専ら戦場で早馬を駆けて伝令の務めを果たす使番が周囲から目立つようにするための装飾具となっているらしい。

 従って母衣の色は遠目でも識別しやすいよう鮮やかなものとなってきており、秀吉が使ったのが黄に染めた母衣だということだ。


「なんと、黄母衣がか。これで少しは我らが豊臣家のための兵だということが敵味方に証明できるな」


 吉継は三成に合わせるように少し上ずったような口調で応じた。


 当然、イツキが報告をしているので、三成のもとに淀の方から黄母衣が届くことを吉継は知っている。


「せっかくなので我が兵で大切に使わせてもらう。異論はないか、平馬」

「もちろんだ。それよりも佐吉。これで、秀頼君の御出馬はなくなったと考えるしかない。毛利輝元様には絶対に関ヶ原に布陣していただかねばならんぞ」

「分かっている。昨日、文が届いた。一両日中に出立するとあった。家康が美濃に着くのももう少しかかるだろう。戦には間に合いそうだ」

「そうか。それはよかった。輝元様が松尾山に入れば陣形は引き締まる。輝元様に万が一のことがあったときは、宇喜多様に入っていただくしかないと考えていたところであったわ」


 イツキは久しぶりに吉継の喜びの声を聞いた気がした。「毛利秀元殿、吉川広家殿は今日到着され、南宮山に布陣されたようだな」


「ああ。着々と陣形は整ってきておる。もちろん宇喜多様も既に南天満山に陣所を築いておられるからな。輝元様に何かあっても、今さら変更は難しいぞ」

「ああ。もしものことを言ったまでだ」

「しかし、金吾は病気とほざいて近江から動かん。あの青二才め。来ないなら来ない方が良いわ。やる気のない奴は邪魔でしかないからな」


 三成は小早川秀秋の態度について憤りを見せるも、黄母衣の件で機嫌が良い。


 三成の帰り際に吉継は「自ら馬を飛ばして来なくても、使いを送ってくれれば十分」と、一々顔を見せに来る三成に釘を差した。

 会って話す用があるなら、自分から大垣城に出向くとも言った。


 しかし、三成は真面目な顔で「時間さえ都合がつけば軍師殿とは顔を交えて話をすることが肝要」と、何かあったらまた顔を出すことを宣言して帰っていった。

 三成は、不自由な体で輿に乗ることになる吉継よりも、自分が馬を飛ばした方が早いとも考えているようだ。


“やはり黄母衣は役には立たないでしょうか?”


 淀の方から黄母衣が送られてくると報告をしたとき、吉継がイツキに慰労の言葉をかけた後に垣間見せた態度は喜びではなく落胆だった。

 黄に染めた母衣など作ろうと思えば誰でも作れる。

 これでは一人として我が方に寝返る者は出てこない。

 そういうことらしかった。


“三成があれだけ喜んでおるのだ。それだけでも役に立った”


 吉継としてはそれが自分への、そしてイツキへの精いっぱいの慰めなのだろう。

 しかし、戦略的価値はないという考えに変わりはないようだ。

 イツキは表情を暗くした。


“我が方の不利は変わりませんか?”

“うむ。依然として厳しい”


 吉継は苦しそうに言った。


 その苦しさが自分に由来していると思うと、イツキは一層心が重くなるようだった。

 決戦の時は迫っている。

 イツキはこれ以上黙っていることはできなかった。


“殿”

“どうした?イツキ。顔色が悪いぞ”

“殿。私は殿にとんでもない不幸を背負わせているのかもしれません”


 イツキは指を噛んで嗚咽を堪えた。

 しかし、涙は次から次へと溢れ、見かねたように肩を抱いてくれた吉継の胸でイツキは童のように声を上げた。


 イツキは訥々とタキに言われたことを口にした。

 自分が破滅神であること。

 自分が傍にいることで定めの人である吉継を破滅に追い込んでいること。

 思い返せば、自分は何一つ吉継の役に立っていないこと。


“この戦。私が殿のお傍にいるがゆえに、不利を招いているのではないでしょうか?”


 吉継は、しっかりとした力強さでイツキの体を抱きしめ、イツキの言葉を否定してくれた。


“イツキ。わしはそなたと夫婦になれて幸せだったと思っておる。我が人生で最大の戦いを前にして、そなたとこのように語り合っている時間はわしにとって何物にも代えがたい心安らぐ大事な時間なのだ”

“殿”

“イツキ。よう考えてみよ。わしは北近江の田舎の寺の小僧だった。それが天下の奉行になり、城持ちの大名になれたのだ。これほどまでの出世を果たした者は、天下広しと言えど、なかなか見つかるものではないぞ。そして、いよいよ天下分け目の大戦に一軍を率いて参戦できるのだ。わしは十分に果報者よ”

“しかし、殿。私が破滅神であるが故に、この大戦で殿に敗北をもたらしてしまうかもしれません”

“よいか、イツキ。この戦には二十万の兵が集まっている。そして、その半分はこの戦に負ける。どちらかが負けるのは戦なのだから仕方がない。それを破滅と言うのは、この場に集まった者にいささか礼を失するぞ。それにこの世に生を享けた者は必ず死ぬ。そういう意味では誰も彼もが最後は破滅なのじゃ。生きとし生ける者に破滅は等しく訪れる。イツキが破滅神であろうがなかろうが、わしにはどちらでも良いこと。イツキが傍にいてくれる。それだけで何も望むことはない”

“殿”


 イツキは言葉なく定めの人の腕の中でその顔を見上げた。

 ただただ定めの人が大谷吉継であったことに感謝するだけだった。


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