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淀君

 淀の方の寝所に入り込むことは容易だった。

 鼠になって夜の闇に同化すれば厳重な警護もイツキにとっては無力だった。


 しかし、煌びやかな布団に包まり静かに眠る淀の方を起こして、秀頼の出馬を要請する勇気がなかなか出てこない。

 梁から飛び降りたくても足が戦慄いて動かない。

 喉が渇き空咳が出た。


「何者じゃ?」


 見下ろせば淀の方がカッと目を見開いて梁の上にいる鼠のイツキを見上げていた。


 ことここに至ってはもう観念するしかない。

 イツキは淀の方の足下に飛び降り、素早く人の姿に変化した。

 淀の方に人を呼ばれては万事休すだ。


「女か?」


 淀の方が半身を起こした。


 イツキはひれ伏し、畳に額をこすりつけて懇願する。


「お方様。少しだけ私の話にお耳をお貸しくださいませ」


 そのとき、廊下を蝋燭の光が近づいてきた。

 「御方様。どうかなさいましたか?」と侍女が訊ねてくる。


 イツキは一度顔を上げ、熱意を目に込めて「何卒」ともう一度頭を下げた。

 緊張で胃がせり上がってきて、キリキリと痛んだ。

 背中を幾筋も汗が流れていく。

 馬にも鷹にも狼にも鼠にも変化できるイツキは侍女などには捕まらない自信はあった。

 しかし、ここで淀の方に話を聞いてもらえなければ、大名の誇りを捨てて土下座までした吉継のもとに帰ることは二度とできない。

 そして、石田方の不利は決定的になる。

 ここはイツキにとって生きるか死ぬかの戦場だった。


「何でもない。夢であった」


 淀の方が寝所の外に向かって声を掛け、侍女が去っていく足音にイツキは全身を使って息を漏らした。


「で。その方、何者か?」


 イツキに向けられた淀の方の声は不審に満ちていた。

 冷たく刺々しい響きに、再びイツキの胃がねじれるような痛みをもたらす。


「私は大谷刑部少輔吉継が妻、イツキにございます。御無礼の段、平に御容赦を願います」

「ならん。夜分に我が寝所に忍び入るとは不届き千万。亡き太閤殿下以外には許されぬ所業であるぞ。万死に値する。刑部も同罪じゃ」


 死を告げられ、イツキは漸く体のこわばりが解けるようだった。

 死は覚悟の上。

 それは吉継も同じこと。


「死ぬ覚悟はできております。亡くなった我が父、我が兄に免じて、何卒、お耳を」


 イツキが真っ直ぐに淀の方を見つめると、淀の方はつまらなさそうにそっぽを向いた。


「刑部と言えば、三成とともに此度の騒乱を起こした首謀者ではないか。あやつらのために世情は乱れ、民が不安がっておる。そのような輩の話など聞きとうない」


 この言葉にイツキは気が遠くなるのを感じた。

 淀の方は今回の石田方の義挙を迷惑がっている。

 これでは秀頼を出馬させるなどという気になるはずがない。


「お方様。徳川様の豊臣家をないがしろにする振る舞いは目に余ります。このまま放っておけば近い将来徳川様が天下を転覆させ、我がものにするのは必定。石田様は身を挺してそれを止める御覚悟。全ては亡き太閤殿下からの御恩に報い、豊臣家の安寧を願う気持ちからでございます」

「それが軽はずみと言うのじゃ。徳川内府は間もなく還暦。そのような年寄りに付き合う必要はない。放っておけば、そのうち勝手にくたばる。この日の本には太閤殿下の御恩を受けた大名が各地におる。いくら内府でも一人で正面から秀頼に反旗を翻すことはできん。今は、豊臣恩顧の大名がそれぞれ力を蓄えておればよいのだ」


 イツキは一瞬言葉を失った。

 淀の方が言ったことに反論ができなかった。

 世間知らずのお姫様と思っていたが、淀の方は案外しっかりと現在の情勢を把握しているのではないか。

 しかし、それでもイツキは引くわけにはいかない。


「お方様。お方様の仰られたことは、一つひとつごもっともではありますが、事はもう起きてしまっているのです。この日の本は今、尾張、美濃の境に二十万近い軍勢がひしめき合い、古今東西類を見ない大戦が始まろうとしています。これはもうどなた様にも止めることはできないかと」

「ほんに、困ったものよのう」


 淀の方はため息まじりに言った。「で、そなたは私に何を言いに来たのじゃ?」


 いよいよだ。イツキは腹の底に力を入れた。


「大谷の見立てでは石田方の諸侯の中には戦意に差があり、天下の大戦を前に向いている方角が異なっているため、いざという時局で後手を踏むことは必定。このままでは敗北必至と考えております。大谷が考えるに、偉大な力をお持ちの方に御大将の座に就いていただくしかないと。つきましては、ひ……」


 秀頼君に御出馬を、と口にしようとしたところを、まるでイツキに言わせないように、淀の方は「刑部の妻よ」と制した。

 零れ落ちそうなほど大きな瞳が真っ直ぐにイツキを捉えている。


「それはできん」


 淀の方は威厳に満ちた声できっぱりと断言した。

 やはり淀の方は石田方が秀頼の出馬を渇望していることを知っていながら、拒絶しているようだった。


 イツキは「ハハッ」と畏まるしかなかった。


「内府には秀頼から黄金や兵糧を与え、謀反を起こした上杉を討伐するよう命じておる。つまりは豊臣の名の下に軍を起こしておるのじゃ。対して、三成は勝手に兵を挙げ、誰の許しも得ず豊臣のためと称して軍勢を集め、さらには反逆の徒である上杉と誼を通じて内府が率いる豊臣の軍を挟撃せんとしておる。いや、分かっておる。三成の豊臣に対する気持ちに偽りがないことは承知しておる。しかし、天下を治める豊臣家が昨日の謀反人を今日は忠義の士として持ち上げるようにころころと掌を返すわけにはいかん。そこのところを了見せよ」


 イツキの胸にはこれ以上淀の方を説得する言葉は湧いてこなかった。

 淀の方は大所から時世を見ている。

 吉継であれば淀の方を言い負かすことはできるかもしれないが、世間を知らないイツキにはこれ以上なす術がない。


「お休みのところ、申し訳ございませんでした。この上はどのような処罰をもお受けする覚悟。何なりとお命じくださいませ」


 イツキは恐懼して畳に額を押し付けた。


「その方、先ほど、亡き父、兄に免じて、と申したな」


 淀の方の声が急に柔らかくなった。


「はい」

「それは、どういう意味じゃ?そなたの父、兄は何者か?」

「しからば、申し上げまする。私はかつて北近江を領した小谷城城主浅井久政の娘、イツキにございます。腹違いにはございますが、兄は浅井長政と申しまする」

「やはり。そうであったか」


 淀の方は得心顔で頷いた。


「御存知でしたか?」

「父上から聞いたことがある。私の叔母上には神の血を引いている者がおるとな。その叔母上はいかなる獣にも変化することができると。先ほど、鼠から人の姿に変化したのを見たときに、ようやく叔母上に会えたと、内心喜んでおったのだ」

「お方様……」


 淀の方は表情を引き締めた。


「刑部の妻。その方の豊臣に対する忠義の心は天晴。刑部も同じである。よって、咎めなし。速やかに立ち去れ。また、明日、美濃におる三成に黄母衣を二千人分届けさせる用意をいたそう。その旨、刑部に伝えよ」


 黄母衣とは何か。

 イツキには淀の方の言葉の意味はよく分からなかったが、この場でこれ以上淀の方を煩わせてはいけないことは分かった。


「御方様。ありがとうございます」


 イツキは今一度淀の方に向かって頭を下げると、燭台の灯りから遠ざかるように後ずさりし、静かに襖を開いた。


「叔母上。御武運を」


 見ると淀の方がイツキに向かって頭を下げていた。


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