博打
九月一日。
吉継は北陸の諸侯を従えて、石田三成のいる美濃大垣城を目指し敦賀を発った。
北国街道を進み翌日には美濃に入ったが、日が暮れたために関ヶ原の北部に位置する寂れた農村に宿陣した。
“イツキ”
足腰が弱っていて、進軍の間、輿に座り続けている吉継は足の血行が悪くなり、痺れがひどい。
そのため陣所で足を擦るイツキに吉継が心の声を掛けてきた。
“はい”
“疲れているのか?”
訊ねられ、イツキは手を止め無理に作った笑顔を吉継に向けた。
“いいえ。私はいたって元気にございます”
実際、体は普段と変わらなかった。
しかし、心が重かった。
吉継には島でタキに言われたことを黙っていた。
自分が破滅神であることなど、この大事な時に告げられるはずがない。
しかし、吉継の体に牙を立て病をもたらしたことから始まった吉継との縁を考えたとき、吉継に苦難の道を歩ませているのは他でもない、自分だということは否定のしようがなかった。
実のところ、タキの指摘に驚きはなかった。
自分でも見て見ぬふりをしていた真実をタキによって正面に突きつけられてしまったという思いだ。
そして、正面に向き合ってしまったことで、もうこれ以上見て見ぬふりは続けられなくなってしまった。
だが、大戦を前にした吉継に何と言えば良いのか。
言えるはずがない。
しかし、黙っていては吉継をさらなる不幸に導いてしまうのではないか。
思考が堂々巡りを続ける。
“そうか。ならば良いのだが”
そこへ五助が現れた。
「石田様がお越しでございます」
「佐吉が?通せ」
吉継はイツキを懐に仕舞い、居住まいを正した。
吉継の前に姿を見せた三成は「夜分にすまんな」と申し訳なさそうに言った。
「どうした、佐吉。浮かぬ顔をして」
「平馬には隠せぬな」
そう言って具足をきしませて座った三成は苦り切った顔で黙りこくった。
「岐阜城のことか?」
岐阜城は大垣城と並んで石田方の重要拠点だ。
この二城を中核とし、周辺の砦と連携して強固な防衛線を築くことによって家康方を包囲、圧迫するというのが目下の石田方の戦術だった。
その岐阜城が敵の手に落ちたという報せが吉継のもとに届いている。
「福島正則らに攻めたてられ、たった一日で降参しまった」
情けない、と三成は岐阜城城主の織田秀信を蔑んだ。「しかし、問題はそれではない」
「では、何だ?」
三成は怒りに染まった赤い目を吉継に当て「毛利様よ」と吐き捨てた。
「毛利様がどうかしたか?」
「養子の秀元殿を差し向けただけで、輝元様本人は大坂城から出る気が見えん。再三美濃への出陣をお願いしているのだが、今、準備しておる、ばかりじゃ。ひょっとすると裏で家康と通じておるのかもしれん」
「まさか、そんなことは、な」
ない、と言い切らなかった吉継がイツキには気にかかった。
吉継も毛利輝元が最後まで大坂城から出てこないことがありえると考えている、と直感的にイツキは悟った。
「大将がいない戦など聞いたことがない。これでは勝てる戦も勝てなくなる」
「弱音を吐くな、佐吉。我らはもう後には戻れぬのだ。やれることをやるしかない」
何だこれは、とイツキは思った。
愚痴を言う三成を励ます吉継という構図に腹が立った。
これはもともと三成が言い出した戦だ。
佐和山城に呼ばれた時、吉継は何度も「勝ち目はない」と三成を諌めた。
それが今さら「勝てる戦も勝てなくなる」では、付き従った諸侯は浮かばれない。
「もう一つ、懸念がある」
「まだあるのか」
吉継の声も呆れ気味だ。
「大津城の京極高次が裏切った」
「何?」
これは吉継も意外だったようだ。
心の臓がドクンと大きく跳ねて、懐にいるイツキにも音が聞こえた。
「京、大坂にほど近い大津城が敵のものとなっては、こちらもそれなりの兵を割いて当たらねばならない。これでますます毛利様は大坂から出てこん」
三成は口惜しそうに太腿を叩いた。
「どうする?」
「今、近くにいる立花宗茂らに大津城を攻めたてるよう指示した」
「立花殿を、か」
「仕方あるまい」
吉継は呻いた。
立花宗茂は秀吉をして「無双」と言わしめたほどの勇猛さを備えた武将だと聞いている。
今回の戦では、「太閤殿下への恩義に背き、内府に味方するなどありえん」と石田方に参陣を表明し、吉継も「百人力、千人力」と大いに喜び、期待していた。
恐らく吉継は京極高次が裏切ったことよりも、立花宗茂が余計な戦いで疲弊することを嘆いている。
「立花殿が一刻も早く大津城を落として、美濃へ来てくれることを願うばかりだ。しかし、敵はそれを待ってはくれまい」
「それだ。だからこそ平馬ともう一度戦略を立て直すために来たのだ」
三成は懐から尾張、美濃地方の図面を取り出した。「岐阜城を取られた今、放っておけば清州城、岐阜城を核に大垣城を包囲されてしまう。どうすれば良い、平馬」
「大垣城に籠っていてもじり貧だ。野戦しかあるまい」
「そうなるか。しかし、悔しいが野戦と言えば家康。相手の土俵で戦うことになりはしまいか」
不安そうな三成を鼓舞するように吉継は腹から声を出した。
「ここは乾坤一擲の大博打に出るしかあるまい。得意の野戦で内府様に油断が出ないとも限らない」
「そうか。野戦で家康の首を取ることができれば、これ以上痛快なことはない。して、大博打の決戦場はどこになる?」
三成は図面に目を落とした。
視力をほぼ失っている吉継にはその図面が見えない。
しかし、吉継はきっぱりと言い切った。
「関ヶ原だ」
「関ヶ原?」
「おぬしは大垣城に籠り守りを固め長期戦の準備をする。敵は城兵を引きずり出そうと色々手を打ってくるに違いない。そして、気づく」
「気づく?何に?」
「大垣城の北を通って北国街道や東山道を通れば近江に出ることができる。石田三成の本拠地佐和山城を狙える、と」
「なるほど。佐和山城を狙われれば大垣城から打って出るしかない。城から出てきたところを迎え撃つということか。これは武田信玄公の三方ヶ原の戦いと似ているな」
「そうだ。しかし、あの時誘い出され、打ちのめされたのは内府様。今回は誘い出すのが内府様だ」
「やられたことは頭に残っているだろうからな。だが、わざと誘い出されたふりをして、わしは関ヶ原に先回りか」
「そうだ。あらかじめ北の笹尾山から天満山、藤川台、松尾山、南宮山と陣を築き、兵を配置しておく」
吉継は関ヶ原の地形をイツキから聞いて熟知している。
「これは!見事に敵を包み込む鶴翼の陣が出来上がっておるではないか。入り込んだ敵方は袋の鼠だ!勝てる。勝てるぞ、平馬!」
三成は吉継の策に興奮したように図面に食い入った。
そこには必勝の二文字が浮かび上がっているようだ。