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覚悟

 イツキが持ち帰った薬草を爺は溶けてなくなるまで煮込んだ。

 それを冷まして口の中に注ぎ込むとサヨリは苦悶に満ちた表情を和らげ、うめき声を上げることはなくなった。

 しかし、依然として目を覚ますことはない。

 どちらかと言えば、薬草を飲ませる前よりも眠りが深くなったように見える。

 イツキが島に戻ってきてもう六日が経つと言うのに。


 イツキは不満げに爺の肩を揺すった。


「母上は全然目を覚まさぬではないか」

「サヨリ様はひどく傷つき、お疲れなのです。ゆっくり眠らせて差し上げましょう」


 そう言われるとイツキは返す言葉がなかった。


 イツキはもう一度七尾山に薬草を取りに出た。

 前回、怖い目に遭ったことは爺にも言ってはいない。

 言うと、二度と島から出ることを許されないだろうと思ったからだ。

 イツキの目にも持ち帰った薬草の量が足りないことは明らかだった。

 サヨリの表情から痛みが消えたのは薬草の効能だと思う。

 であるとするなら、サヨリの加減が良くなるには、もっと薬草が必要になる。

 誰に言われなくても分かることだった。


 二度目は前回の七割の時間で帰ってくることができ、持ち帰った量は倍となった。

 方角が最初から分かっていたし、風の捉え方も上手になった。

 今回は七尾山の麓に着いてから暫く上空で旋回し人がいないことを確認した。

 次はもっと早く、そしてもっと多くの薬草を持ち帰ることができるだろう。


 薬草を見て爺は喜んでくれた。

 しかし、それを煮込む爺の顔は前よりも険しさが増していた。


「イツキ様」

「何?」


 囲炉裏の火に小枝をくべる爺の皺だらけの顔が赤く照らされている。


 五助が土間に入ってきて井戸から汲んだ水を甕に入れ、無言で出て行った。


「この薬草は痛み止めにござりまする」

「え?私、違う薬草を持ち帰ってしまったの?」

「いえいえ。この薬草は爺が求めていたもの。イツキ様は何も間違えてはおられません」

「じゃあ何?痛み止めということは痛みが消えるのでしょう?それが効いているから母上も穏やかな顔で眠っておられのではないのか?

「左様」


 爺が小枝を折って火にくべる。

 ぐらぐらと鍋が煮える音だけが聞こえてくる。


「爺。何が言いたい」


 イツキは爺の言葉の先を促した。

 何か言いにくいことがあることは伝わってきた。

 しかし、言葉として聞かなくては、こちらも対処のしようがない。


「サヨリ様は薬草で痛みを感じてはおられませぬが、この薬草では傷は癒えませぬ」


 爺が言っている意味は理解できた。

 サヨリは狼の姿で戻ってきてから、変化をしていない。

 イツキなら眠っている間に蛇の姿になってしまうことはあるが、普段のサヨリならどれだけ気を抜いても狼の姿になることはない。

 つまり、人の姿に変化する力が回復しないのだ。


「どうして癒えぬ?」

「サヨリ様の無数の傷をご覧になったでしょう。刀や鉄砲で全身傷だらけでございます。あれだけの傷を負えば、かなりの血が流れたことでしょう。人であれ狼であれ生き物は血がなければ生きていけません。血を作るには食べ物を食べなければいけませんが、サヨリ様は目を覚まされません。傷は血が出るだけではなく熱を持ちます。熱は体力を奪います。今のサヨリ様には目を覚ます力もないのでございます」

「では、どうすれば良い?」


 イツキは声が震えるのを抑えられなかった。

 何とかせよ、と爺に言いたかった。

 爺しか頼る者がいない。

 それなのに爺が弱気なことを口にしたら私はどうしたら良いのか。


 しかし、爺の口からは最も聞きたくない言葉が出てきた。


「覚悟をなされませ」

「何の覚悟じゃ?」


 イツキは分かり切ったことを訊いた。

 聞きたくはなかったが、訊かずにはいられなかった。「私に何の覚悟が必要なのじゃ!」

 

 涙が溢れた。

 ギュッと握り締めた拳にいくつも滴が落ちる。


「イツキ様。あなたもサヨリ様の姿をご覧になったときにお気づきになっていたでしょう。あなたが、サヨリ様の後継となるのです。あなたがこの島を、御神畜の掟を護るのです」

「嫌じゃ!」


 イツキは立ち上がると「母上は死なぬ」と叫び、裸足のまま土間へ、そして戸外へ飛び出した。


 辺りは夜の闇だった。

 それでも構うことなく、イツキは寺の敷地を走り抜け、東の湖に向かって駆けた。


 四足の獣になりたかった。

 母上のように狼に、あるいは姉上のように馬になれればもっと速く走ることができるのに。

 力任せに風を切って何もかも忘れてしまうほどに走りたい。

 それなのに私が変化できるのは蛇と鷹。

 鷹になって優雅に空に羽ばたく気にはなれない。

 蛇では人よりも足が遅い。

 どうして私は蛇なの?


 イツキは人の姿のまま懸命に足を動かした。

 人の姿では夜目が利かないが、慣れ親しんだ湖までの道のりは目を閉じていても全く問題ない。

 波音が聞こえる。

 足元が土から砂地に変わった。

 浜へ出たのだ。

 それでもイツキは足を止めなかった。

 そのまま湖へ身体を躍らせる。

 足が水で動きを鈍らされ、波がイツキの身体を浜へ押し戻す。

 掟がイツキを島から出させない。


「姉上!どこにおられるのですか!」


 イツキは叫んだ。

 姉上は一体どこへ行ってしまったの?

 姉上が戻ってきてくれれば。

 そうすれば、跡を継ぐのは私ではない。

 姉上はしっかり者で、変化の力も既に母上のそれに近づいている。

 私よりも余程、掟を背負うにふさわしいのに。


 大きな波がイツキの身体を揺らした。

 転びそうになり、もつれた足で浜へ戻る。

 そしてそのまま砂の上に寝転んだ。


 着物の裾が濡れ、足に貼りついている。

 肌寒い感じもするが、逆上せた頭には丁度良かった。


 空には無数の星が瞬いている。

 波の音は一定で、穏やかだった。


 この湖の向こうでは戦いが戦いを呼び、荒廃が著しいと爺が言っていたが、とてもそんなことは想像できない空と湖の穏やかさだった。

 しかし、かつてはここでも戦いが繰り広げられ、姉上の行方が知れず、母上も傷ついて帰ってきた。

 戦乱は間違いなく起こっている。


 戦いなどなければ良いのに。

 どうして人は争わなければならないのか。

 そして、神畜の一族はその争いに無関係ではいられないのか。


「イツキ様!イツキ様!」


 寺の方から駆け寄ってくるのは五助だ。「どちらにいらっしゃいますか?」


 五助の声は切迫している。

 何か悪いことが起きたのではないか。


「五助!どうした?」


 イツキは立ち上がって、暗がりの中きょろきょろと見渡している五助の傍へ駆け寄った。


「ああ。イツキ様」


 五助はイツキの声が聞こえて一瞬背に帯びた空気を緩ませる。

 が、すぐに声を引き締めた。「サヨリ様の様子が……」


 イツキは五助を置き去りに再び走り出していた。

 寺の庫裡に飛び込み、サヨリが眠る部屋の障子を開け放った。


 そこにサヨリが横たわっていた。

 しかし、狼ではなかった。

 久しぶりに見る人としてのサヨリだった。

 そしてサヨリは意識を回復していた。


「母上!」


 狼ではなく、人に変化しているということは、それだけ体力を回復したということなのか。

 眠りから覚めたということは、傷が癒えたということなのか。

 イツキは浮き立つ気分そのままに爺を押しのけるようにしてサヨリの枕元に座り、顔を寄せた。


「イツキか」


 サヨリの娘を見る目には力がなかった。

 焦点が合っていない感じがする。

 声も弱々しい。

 しかし、それでもサヨリに言葉を掛けられてイツキは嬉しかった。


「母上。イツキにござります。イツキは島を出て薬草を取ってきましたよ。薬草を飲めば楽になれるでしょう?」


 イツキはサヨリに自分が鷹となって七尾山まで飛んで行き、薬草を持ち帰ったことを誉めてもらいたかった。


 しかしサヨリの言葉はイツキの笑顔を凍らせた。


「タキは、……どうした?」

「姉上は……。あの晩に出て行ったきり……」


 あの夜襲があったとき、泣きながらサヨリの姿を見送ってすぐに久政の従者の一人が本堂に駆けこんできて久政の所在を訊ね、爺が一足違いで出て行ったと答えると、島の北と南も既に敵に囲まれていることを爺に伝えた。

 それを聞いたタキが突然鷹に変化してどこかへ飛び立ってしまったのだ。


「あの晩……」


 サヨリが虚空を眺める。

 サヨリにも思い当たることがあるようだった。


「母上。姉上は一体どこへ行かれたのでしょう。帰って来られないのはどういうことなのでしょうか?」


 イツキは爺に訊ねても返ってこない答えを母親に求めた。


「イツキ。心して母の言うことを聞きなさい」


 イツキの背中に緊張が走った。

 母の息遣いが次第に苦しそうになっている。

 顔色は悪いし、身体が小刻みに震えている。


「はい。何でしょう」

「そなたは気付いておらんだろうが、そなたの秘めた力は母の力とは比較にならぬほど凄まじい。蛇はやがて龍にもなれる。龍は神羅万象を司る」


 イツキはサヨリの言うことに全く実感が持てなかったが、深く頷いた。


「神畜は弁財天の末裔。神畜の役割は知っているな」


 この言葉にもイツキは頷いた。

 神畜の役割とは、普段からサヨリによく言われていたことだ。

 この世に一人だけ心で言葉を交わすことができる人が現れる。

 その人に仕え、その人に尽くすのが畜の役割。

 そして同時に畜の血がこの神の島から絶えてはいけない。

 畜と島は一体。

 神畜の一族の少なくとも一人は島から離れてはいけないし離れられない。


「必ずその人は現れる。どのようなことがあってもその人に尽くすのです」

「分かりました」


 イツキの返事を聞くとサヨリは苦しげな表情のままだが、微笑み「任せましたよ」と言った。


「住職」


 サヨリに呼ばれて爺が「こちらに」と返事をする。


「御首級を、御首級を持ち帰れなんだことが、何とも口惜しい」


 サヨリの双眸に涙の膜が張る。「殿の菩提をよろしくお願いします」


「拙僧にお任せください」


 爺の口調がいつになく力強い。

 

 サヨリは漸く苦しみから解放されたような柔和な表情になった。

 イツキが知っている、いつもの母上だった。


「ああ。殿が待っておられる」


 サヨリが天井を見上げる。

 目じりから涙が一筋伝う。

 そして、ゆっくりと目が閉じられた。

 サヨリの姿が静かに狼に戻っていった。


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