破滅
南風を裂くようにしてイツキは竹生島に向かって飛んだ。
母サヨリと瓜二つの白狼との出会いでイツキの胸に急に里心がついてしまったのだ。
姉のタキと今生の別れを済ませたい。
天海に姉のこと、島のことを頼んでおきたい。
そして何よりも、死ぬまでにもう一度だけ、島の様子を目に焼き付けておきたい。
関ヶ原の地形を確認するという役目が終わった以上、速やかに吉継のもとに帰るべきだが、鷹になって飛べば竹生島までなら大して時間はかからない。
心置きなく死を迎えるためだと言えば、吉継もきっと許してくれるはずだ。
イツキは寺の庫裡の前に降り立った。
そして白狼の姿を頭に強く思い描いた。
すると、自分の体が鷹から白狼に変化し、やはり先ほどの白狼との出会いが夢幻ではないことが分かった。
この姿をタキが見たら何と言うだろう。
そう思うと自然と笑みが零れた。
その時背後で物音がした。
ざるが地面に落ちるような音だった。
振り返ったイツキの視線の先にいたのはタキだった。
イツキは久しぶりにタキの姿を見て頬を緩めた。
しかし、タキはイツキの姿に驚き体を強張らせているようだった。
そして、イツキは自分が白狼の姿をしていることを思い出し、慌てて人の姿に変化した。
「姉上!」
「イツキ!びっくりしたわ。イツキなのね」
タキは胸に手を当て、大きく息をついた。
表情からは血の気が失せている。
イツキはタキの傍に駆け寄り、その足元のざると青菜を拾い上げた。
「驚かせてしまって申し訳ありません」
「本当に驚いたわ。母上が生き返られたのかと思った」
「やはりそう思われましたか」
イツキは嬉しくなって、先ほど七尾山で白狼と出会い変化できるようになったことを伝えた。
「本当に母上にそっくりだったわ」
「そうでしょう?今の折にあのように母上そっくりの白狼と出会えたのは何かの導きのような気がしてなりません」
導き。
タキは小さくそう呟いて、イツキからざるを奪うように受け取ると庫裡に入っていった。
イツキが後を追っていくと、庫裡から出てきたタキはイツキを本堂へ誘った。
タキの顔は青ざめたままだ。
改めて本堂で姉と向かい合って座ると、妙に空気が重く感じられた。
緊張感と言うか、閉塞感と言うか。
何となく居心地が悪い。
「姉上。今日は天海様は?」
イツキの問いかけにタキは答えず、「確かに、今日、イツキが島に来たのも何かの導きなのでしょう」と言った。
その目の輝きはどこか悲しげであり、物憂げではあったが、何らかの決意が満ちていて挑戦的でもあった。
「イツキ。あなたはウカという人を知っていますか?」
「ウカ?存じません」
全く知らない。
これまでの人生で見たことも聞いたこともない名だ。
「ウカ様は私たちの祖母にあたる方です」
祖母?
「つまり、それは……」
「そう。ウカ様は母上の母上になります。もちろん私たちと同じ神畜です」
「知りませんでした。当然私たちにも祖母はいたのでしょうが、考えたこともありませんでした。姉上はウカ様のことを御存知だったのですか?」
「母上から名前だけは聞いたことがありました。それが三日ほど前にこの本堂の整理をしていた時に、たまたまウカ様宛の文を見つけたのです」
ウカの文。
どうも話が見えてこない。
タキはこれから何を語ろうとしているのだろうか。
「誰からの文なのですか?」
「足利義晴様です」
「足利?」
つまり室町幕府の足利家と何か関係のある人なのだろうか。
「知りませんか?室町幕府の第十二代の公方様ですよ。そして、私たちの祖父にあたる方です」
「何と!」
イツキは心底驚いた。
自分が室町幕府の将軍の血筋だったとは夢にも思わなかった。
「私も祖父が公方様とは知りませんでした。しかし、その見つかった文には、サヨリのことを頼むと書かれていました。つまりはそういうことなのでしょう」
「なるほど」
イツキも頷くしかなかった。
「イツキ」
タキの眼差しに厳しさが増していく。
「はい」
「義晴様は権威失墜の著しい室町幕府の立て直しに努められましたが、周囲の裏切りにあい、志半ばに病に倒れ亡くなられました」
「そうなのですか……」
イツキは一歩引くような気持ちで姉を見た。
タキは深刻な顔で祖母と祖父の話を持ち出して何を言いたいのだろう。
「イツキ。おかしいとは思いませんか?」
「何がです?」
「ウカ様の定めの人は周囲の裏切りにあい病没。私たちの父上、浅井久政様は織田に攻めたてられ無念の自害。明智秀満様は山崎の合戦で敗れ、世間的には亡くなったとされています。そして、あなたの定めの人である大谷吉継様は死病に冒され、そのお命は……」
「おやめください、姉上!」
イツキは手で耳を覆った。
タキの言葉が呪詛のように響き胸を押しつぶす。
「イツキ。私は悟ったのです」
タキが膝頭がつくぐらいにまでイツキににじり寄ってきた。「我らは定めの人を破滅に追いやる破滅神なのです」
「やめて!」
イツキはタキに背を向けて床に突っ伏した。
「我が殿、明智秀満様は今、内府様のもとにいらっしゃいます」
イツキは「え?」とタキを振り返った。
「内府様のもとに?」
話の内容が理解できず、何故、という言葉も声にならない。
「神畜としての力量は私よりもイツキの方がはるかに上。であれば、此度の戦で滅ぶのは大谷様が属する石田方となるでしょう。だから、殿には内府様にお味方していただくようお願いしたのです。私はもう殿には近づかない。それが殿を破滅から遠ざけ、再び栄達の道へ押し上げる唯一の方法なのです」
イツキはタキの言葉から逃げるように本堂から外へ駆け出した。
「待ちなさい、イツキ!」
タキの激しい口調に呼び止められ、イツキは怒りと涙を湛えた目で振り返った。
何が破滅か。
何が栄達か。
タキの言葉は妄想に過ぎない。
自分勝手な都合の良い辻褄合わせでしかない。
神畜の存在を否定し、蔑ろにするような一方的な考えを聞きに来たわけではない。
タキは少し青ざめた表情で胸に手を当て立っていた。
「島のことは私に任せなさい。神畜の掟は私が守ります」
「え?」
「あなたとアゲハは存分に戦いなさい。それぞれの定めの人のために」
「姉上……」
命を捧げて定めの人のために尽くす。
それが神畜である者の務めであり、本意でもある。
イツキは吉継のためなら、この命、いつ失うことになっても惜しくはない。
アゲハも幸村のためなら、いつでも命を投げ打つ覚悟はできているだろう。
それはイツキもアゲハも神畜の一族であるからだ。
そして、それはタキも同じはず。
なのに、タキは自分と一緒にいると破滅に導いてしまうかもしれないとして天海を島の外に追いやった。
苦渋の決断だっただろう。
今もきっと本心は島から出て天海のもとに飛んで行きたいと思っているに違いない。
しかし、タキはその気持ちを押し殺してここにいるのだ。
それは神畜としては死ぬよりも辛いことなのかもしれない。
「私は自分の考えに自信があるわけではありません。ですが、殿のこれからに思いを馳せたとき、この選択が最も有益であるという考えにいきついたのです。そこから頭が離れないのです。行きなさい、イツキ。私の決心が揺らぐ前に。そして私が間違っていると証明してみせて」
タキは両の拳を震えるほど強く握り締めて立っている。
やはりタキも本当は天海の傍で神畜の命を燃やしたいのだ。
今、タキはイツキに先んじれば島から出ることができる。
逆にイツキが島から出てしまえば、タキは神畜と島の掟により天海を追うことはできない。
それが分かっていてイツキに島を出るように勧めるのは、さぞかし苦しいことだろう。
「ありがとうございます」
イツキは鷹に変化して空へ飛び上がった。
タキの覚悟に応えるためにも全力で吉継を守り吉継に勝利をもたらさなくてはならない。
「イツキ!弁財天は世に平安をもたらします。龍は弁財天の化身。あなたは龍になるのです。そしてこの世に平安をもたらしなさい」