白狼
関ヶ原を上空から見渡すと、吉継がここに家康を誘い込みたいと言った理由が戦を知らないイツキにも良く分かった。
美濃から近江に出るには東山道にせよ北国街道にせよ関ヶ原を通るしかない。
その関ヶ原は伊吹山系の山々と南の南宮山によって狭められた道から入り込んだところに開けた小盆地。
盆地の西側は北から南へ笹尾山、北天満山、南天満山そして松尾山と小高い山が連なっている。
この四山と南宮山に先に兵を配置し迎え撃てば、入り込んだ敵軍はまるで袋小路に迷い込んだ鼠のようなものだ。
周囲から囲まれ、八方塞がりとなるだろう。
しかも松尾山には広大な山城が築かれており、ここを拠点に防御を固めれば長期戦も可能となる。
戦を長引かせることが石田方と徳川方のどちらに有利になるのかはイツキには分からないが、この関ヶ原を先に押さえ、そこへ敵を誘い込むことは石田方を有利にすることは疑いようがない。
しかし、イツキにも分かるような死地に当代随一の戦上手と言われる家康がまんまと入り込むとはな考えづらい。
徳川方を関ヶ原に侵入せざるを得ないようにする何らかの策が石田方には必要となるだろう。
策は殿に任せておけばよいか。
イツキは南風に体を預けて気ままに飛んだ。
眼下にはのどかな原っぱが広がっていた。
この地で間もなく二十万の兵が衝突し、見渡す限り累々と屍が倒れ、血で赤く染められることになるとは想像もできない。
夏の終わりの乾いた風に乗って飛ぶのは心地良かった。
そう言えば殿と初めて出会ったのはここからすぐそばの七尾山だ。
あの時はまさか自分を助けてくれた人が定めの人となるとは思いもよらなかった。
あれから何年になるのだろう。
母が戦乱に死に、姉と再会し、娘が生まれ、そしてその娘が嫁いで、また戦乱がやってきた。
西へ目を向ければ陽光を鋭く眩しく跳ね返す琵琶の湖が遠くに見える。
我が故郷、竹生島も朧に確認できた。
自分の身は琵琶湖を中心に今もある。
幼いころと何も変わっていないという思いがある。
しかし、一方で、遠くへ来てしまったという感慨が胸に迫って仕方がない。
定めの人である吉継はこの戦いで死を覚悟している。
であれば、当然自分も死ぬのであろう。
最期を迎えるのであれば、琵琶湖が見える場所が良い。
母、サヨリは息も絶え絶えになりながら、竹生島へ帰ってきた。
姉のタキも満身創痍で島へ戻ってきた。
私も彼岸を間近に感じたら、最後の力を振り絞ってでもあの島へ帰ろうとするのだろうか。
ふと、眼下にある七尾山の麓に一匹の白い獣を見つけた。
上空を、鷹の姿で飛ぶイツキをまるで呼んでいるかのように見上げている。
イツキは引き寄せられるように高度を落とした。
あれは……。
狼だった。
白い狼。
母、サヨリの本来の姿と瓜二つだった。
イツキは狼から三間ほど離れた赤松の枝に降り立った。
白狼は怯える様子もなく、静かにイツキを見つめてくる。
母上?母上なのですか?
イツキは枝から地面に飛び降り、人の姿に変化した。
「母上!私です。イツキです」
しかし、白狼は動かなかった。
もちろん人の姿に変化することはなく、死んだサヨリであるはずもない。
イツキは意識を集中して、頭の中に眼前の白狼の姿を思い描いた。
すると、自分の姿が白狼に変化した。
やはり、この白狼は母ではなかった。
神畜は神の使い。
獣ではない。
そのため神畜が変化した獣を見ても神畜はその姿には変化はできない。
獣の姿を見て変化ができたということは、この白狼が正真正銘の白狼であるという証拠だ。
それでもイツキは嬉しかった。
決戦の日を目前にして、母とそっくりの狼に出会え、自分がその姿に変化できるようになったのは、母から贈り物をもらったような気分だった。
白狼は目の前の鷹が人の姿に変化し、さらには自分と同じ狼の姿となっても驚く様子は一切見せない。
しばらく見つめ合った末に、空に向かって長く吠えた。
イツキも真似をして咆哮を辺りに響かせた。
やがて、白狼は満足したかのようにイツキに優しい視線を送り、そして草むらに消えていった。
イツキはその背中に向け、感謝の気持ちを込めてもう一度遠吠えをした。