報恩
佐和山城を出て一刻ほど。
籠の中の吉継に為広が声を掛けた。
「追手は来ないな」
同じことをイツキも考えていた。
当代随一の実力者である家康を向こうに回して兵を起こすと虚心坦懐打ち明け、命がけで勧誘してきた相手をすげなく見捨てたのだ。
即座に切り掛かられてもおかしくない。
ましてやむざむざと城から出すなどあり得ないことだ。
吉継が三成の腹案を家康に注進すれば、三成は戦わずして捕縛されさらし首にされてしまうだろう。
吉継が三成に「断る」と言った時、イツキは吉継の懐の中でいつでも飛び出せるよう準備をしていた。
命を掛けて吉継を守るつもりだったのだ。
しかし、三成は吉継と為広を黙って見送った。
そして未だに兵馬を送って来る様子もない。
聞こえてくるのは馬の足音ではなく、草むらの虫の音ばかりだ。
「佐吉め。わしの腹を見透かしておる」
そして、吉継は夜の闇に向かって哄笑した。
“イツキ”
“はい”
“わしのわがままを聞いてくれるか”
イツキは身震いした。
吉継が何を言い出すか、聞かなくても分かる気がした。
そして神畜として定めの人吉継のためにできることは一つだ。
“何なりと”
“イツキ。わしは佐吉の想いに答えたいと思う。これから佐和山へ戻り、佐吉とともに内府様に対し兵を起こす。……イツキにもついてきてほしい”
“無論。ご一緒させていただきます”
“すまぬ。許せ”
“何を仰います。私は殿のお傍にいられれば、それだけで幸せでございます”
吉継は五助に言って籠を止めさせた。
「因幡守殿」
「どうした?」
「どうか、わしを見逃してほしい。わしはこれから佐和山へ戻る」
「そう言うと思っておったわ。治部殿に加勢するのだな?」
「あいつとわしは幼馴染。あいつはわしを信じて命がけの決断を打ち明けた。その熱い想いを聞いておきながら否と言ったままでは男が廃る。わしは石田治部少輔三成と生死を共にする。因幡守殿。黙ってわしを見逃してくれ」
後生じゃ、と頭を下げた吉継に今度は為広が高笑いを響かせた。
「黙って見逃すなどできぬ相談じゃ。わしも刑部殿と同行させていただこう」
為広の言葉に吉継が「何と」と驚きを見せる。
「わしの腹は島左近から話を聞いて刑部殿に家臣を遣わせたときには決まっておったわ。治部殿ほどの人物が勝算ありと見て大博打に出るのだ。乗ってみない手はない」
「因幡守殿。これは頼もしい」
吉継と為広の一行は踵を返し再び琵琶湖に向けて歩を進めた。
静かな籠の中で吉継が心を通わせてきた。
“イツキ。この体では戦場を生き抜けまい。勝っても負けても、この戦でわしは死ぬ”
“はい”
不思議と涙は出なかった。
ただ、淡々と吉継の想いを受け止め、心の底から吉継の判断に納得していた。
イツキには分かっていた。
隠居してのんびり湯治に出かけるよりも、戦場で干戈の交わる音を聞きながら命を燃やし尽くすことを吉継は選択するだろうと。
それでこそ戦乱に身を投じ名を馳せた大谷刑部少輔吉継である。
もとよりこの出陣の折に命は捨てたものと覚悟はできていた。
この期に及んでは吉継の死出の旅を勝ち戦で飾るため身を粉にして最善を尽くすまで。
“最後まで勝手な男ですまぬ”
“いえ。私はどんな道であれ、殿の進まれるところについていくだけにございます。それが神畜の務め。それに、殿が石田様にお味方されることで私は安堵しているのです”
“イツキが?何故じゃ?”
“私は石田様に恩を受けております。石田様はかつて太閤殿下の茶の湯の席で殿をお助けくださいました。いつかあの御恩に報いたいと思っていたのです。此度、殿が石田様の命がけの大勝負にお味方されることで、漸く私も石田様の御恩に報いることができます”
秀吉が点てた茶に吉継の膿が落ちたあの時、三成は涼しい顔で吉継から茶碗を奪い取り、一思いに飲み干した。
あの光景は今でもイツキの瞼の裏側に焼き付いていて片時も忘れることはできない。
“覚えておったのか”
“はい。鮮明に”
あの時のことを口にするだけでイツキの胸は言いしれぬ感謝の気持ちで熱くなり、涙が零れそうになる。
“わしも同じじゃ。あれがなければ今回助けに帰ることはなかったかもしれぬ”
やがて一行は佐和山城の門前に到着した。
吉継と為広は目と目を合わせて頷き合った。
五助が城門に拳を叩きつける音がイツキの腹に重く響いた。