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邂逅

 風の流れを捉えるのが難しい。

 広げた羽をどちらに傾ければ、どの方角に身体が流れていくのか未だに掴めない。

 向きは西からの追い風なのだが、湖上は風の強弱が刻一刻と変化し、少しでも気を抜くと強風に煽られて高さを失い、湖面に叩きつけられそうになる。

 かと言って湖面すれすれを飛ぶのはまだ怖い。

 漸くの思いで湖を渡りきり、浜辺の枯れ松の枝に宿る。


 振り返ると見えるのは穏やかな群青色の湖面だけだ。

 島は遠くに霞んでいる。

 イツキは心の中で母のために祈った。


 母上が一日も早く健やかになられますように。


 そのためにもイツキは仕事をこなさなければならなかった。

 爺が言っていた七尾山の麓まではまだ遠い。

 そこに生い茂っている薬草を持って帰るのがイツキに課せられた仕事だった。

 しかし、それは途方もない難事だった。


 傷だらけの姿で寺の門の脇に狼の姿のまま気を失っている母を見つけて腰が抜けるほど驚いた。

 いつも温和な爺が見せたことのない険しい目つきで「これは……」と呟いたきり言葉を失ったのを見て、事の重大さに胸が震えた。

 爺と寺の小僧の五助の二人が運んだ母のぐったりとした様子に悲しみが募った。

 爺の必死の看病でも母は苦しそうに荒く息を吐き唸るだけで二晩経っても目を覚まさない。

 薬草があれば、と耳に聞こえ、それは何かと爺を問い詰めた。


 あの伊吹山の、その手前にある少し低い山が七尾山。

 その麓に草むらがあり、そこで一際苦そうなにおいを発しているのが今必要な薬草だ。

 そこまで聞いた時にはイツキは既に身体を鷹に変化させていた。

 

 しかし、八歳になったばかりのイツキはまだ島を出たことはなかった。

 本来の姿は白蛇。

 人の娘には簡単になれるが、鷹に変化できるようになったのはまだ去年のことだ。

 狭い島の中では好き勝手に飛び回っていたが、母上に島から出てはいけないと厳しく言われていたので、波打ち際の上ですら飛んだことはなかった。

 

 姉のタキは敵襲のあったあの夜に姿を消して以来戻ってこない。

 爺は母の看病で付きっきりだし、そうでなくても七尾山までの往復に三、四日はかかるだろう。

 五助は姉と同じ十一歳だが、飛べないのでは爺と同じだ。

 私が行くしかない、と後先考えず湖上へ飛び出したのだが、四半刻もしないうちに心細くて仕方なくなった。

 それでも引き返さなかったのは、せっかく帰ってきてくれた母を死なせたくないという一心だ。

 姉が帰ってこない。

 ここで母に死なれては私は天涯孤独の身になってしまう。


 こうして松の上で初秋の風に吹かれているのは心地良いが、初めての遠出で羽だけでなく全身に疲労があった。

 しかし、いつまでもこうはしていられない。

 母が待っている。


 イツキは松の枝から飛び上がった。

 再び東へ針路を取る。

 時折、どこの者かは分からないが、武装した集団を何度も見つけた。

 あの者たちが母を傷つけたのか。

 そう思うと怒りが込み上げてくるが、同時に恐怖も湧いてくる。

 母でも敵わなかったのだ。

 私に何かできるはずがない。

 今は一刻も早く薬草を持ち帰らなければならない。

 それだけを考えよう。

 イツキは少しずつ近くなる七尾山だけを見つめて懸命に羽を動かした。


 やがて七尾山が近づいてきた。

 麓は一面草が生い茂っている。

 イツキは草むらの上空を旋回した。

 薬草はあれだろうか。

 確かに苦そうなにおいが漂ってくる。

 もう少し低いところを飛んでみよう。


 イツキが羽をすぼめ高度を下げると、いきなり、空を切り裂くような銃声が耳の傍で轟いた。

 それと同時にイツキの左の翼から羽が舞い上がる。

 痛みはないが、驚いたイツキは身体の平衡を失った。

 一度体勢を崩すと元に戻らない。

 何が起こったか分からない。

 自分がどういう状態にあるのか把握できない。

 とにかくどんどん地面が迫ってくる。


 駄目だ。

 どうしていいか分からない。


 あっという間に身体が地面にぶつかり、イツキの意識が遠のく。


 ヘイマ!ヘイマ!

 どうした、サキチ!

 

 走り寄ってくる足音にイツキは目を覚ました。

 

 ここはどこか。

 確か、薬草を取りに七尾山に向かっていたはず。

 

 苦いにおいがする。

 目の前に広がる緑の草の群れが爺が言っていた薬草に違いない。

 

 イツキは首を伸ばそうとして、動かないことに気が付いた。

 何か硬いもので首根っこを押さえつけられている。

 イツキは羽をばたつかせようとした。

 しかし、何も動かない。


「ヘイマ、これを見てくれ。蛇だ。世にも珍しい白い蛇だ」


 イツキの真上から興奮気味の声が聞こえる。

 そしてイツキの眼前に人の足が立った。


「確かに、これは珍しい」


 ヘイマと呼ばれた若い男が屈みこんでイツキを見つめてくる。


 イツキは自分が蛇に戻ってしまったことを悟った。

 もともとは蛇であるイツキは鷹と人に変化できるが、今はまだ意識を保っていないとその姿を維持できない。


「殿へ献上しよう。さぞかし喜ばれるに違いない」


 献上?

 怖い。

 どこかへ連れていかれる。

 怖い。

 何をされるのか。


 イツキは懸命に首を振り、尾を振った。

 その拍子にするりと身体が動いた。

 イツキの身体を押さえつけていた木の枝が折れたようだ。

 イツキは懸命に前進した。

 するとヘイマがイツキを捕まえようと手を伸ばしてくる。

 イツキは喘ぎながら首をもたげて進む方向を少し右へ変えた。

 その時にヘイマの指がイツキの歯に引っかかった。


「痛っ」


 ヘイマが慌てて指を引き、尻もちをついた。

 指先に赤いものが滲んでいる。


 イツキは顔を歪めたヘイマを見た。

 痛そうだ。

 イツキは逃げたかった一心だったとは言え自分が傷つけてしまったことに申し訳ないことをしたという気持ちになった。


「大丈夫か、ヘイマ。こいつぅ」


 再び首に木の枝が押し付けられた。

 身体が地面に痛いぐらいに強く押し付けられる。

 今度は全く首を動かすことはできなくなった。


 しまった。

 どうして今のうちに逃げなかったのか。

 私の馬鹿。

 誰か、助けて!


 イツキは心の中で叫んだ。


 するとヘイマが驚いたような顔になり、何かを確かめるかのように左右に顔を振った。


「ヘイマ。傷は大丈夫なのか?」

「あ、ああ。大丈夫だ。大したことはない」

「なら良いが。しかし、念のため傷口を洗わねば」

「あ、ああ。そうだな」

「ヘイマ。籠はないか?この蛇を入れたいのだが」


 やめて!逃がして!

 

 イツキは懸命に尾を振った。


「サキチ……」


 ヘイマは立ち上がり、思い詰めたような声で言った。「こいつは逃してやろう」


「何を言う、ヘイマ。こんな蛇、二度とお目にかかれないぞ」

「サキチ。白い蛇は神の使いと言う。捕まえてはいけない。悪さをすると怒りに触れるぞ」

「それを言うなら、白蛇は吉兆だろう。持ち帰れば殿の将来に良いことがあるに違いない」


 助けて!助けて!


 イツキは心の中で叫び続けた。


「サキチ。後生だ。持ち帰って殿が祟られたらどうする。ここは逃がそう。逃がしてやってくれ」

「ヘイマ……。仕方ないなぁ」


 途端に身体を押さえつけていた重みがなくなった。

 イツキは一目散に草むらに逃げ込んだ。

 苦そうなにおいが強くなった。

 イツキはその場で鷹に変化すると、周囲の薬草を銜えて闇雲に引き抜き、飛び立った。


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