勝算
為広とともに佐和山城を訪れた吉継の前に現れた三成は隠居していたとは思えない精悍な表情をしていた。
顔の血色が良く、大事の前の緊張感のようなものが全身に漲っている。
「佐吉。軽挙は慎め」
吉継は向いに座った三成を挨拶もなくいきなり諌めた。
「平馬。わしはまだ何も言っておらんぞ」
三成は苦笑して白湯を啜る。
「言わなくても分かる。何年来の付き合いだと思っているのだ」
吉継の強い口調に三成が鋭い視線で応酬する。
静かに湯のみを戻し、両手を腿の上に置いた。
「なら、話は早い」
三成が下っ腹に力を入れたのが分かる。「止めるな、平馬。ここで立たねば上杉は倒れ、天下は家康の思い通りになってしまうぞ」
「極端なことを言えば、わしはそれでも良いと思っておる」
吉継は強風にさらされた柳の枝のような受け答えをした。
「何?」
三成は激しくうろたえた。
唇が細かく戦慄いている。
吉継の言葉を吉継が発したものとして受け入れられない様子だ。
「天下安寧は万民のため。その政を司るのは豊臣でなければならぬというものではない」
「平馬!それが亡き太閤殿下に大恩を受けた者の言うことか」
「大恩は忘れはせぬ。しかし、大恩に固執するがあまり、再び日の本を戦乱の世に逆戻りさせるのは、それこそ天下をないがしろにすることではないのか」
吉継と三成は互いに一歩も譲らず視線をぶつけ合った。
沈黙の中、同席していた為広が口を開く。
「治部殿。貴公は上杉征伐のため東国へ向かっておられる内府様の背後の隙を討つべく兵を挙げようとなさっておいでか?」
三成は為広の問いかけにゆっくり時間をおいて頷くと早口で一気にまくし立てた。
「いかにも。家康は亡き太閤殿下が定められた法度に背き、好き勝手に縁組を行い、諸将の加増や転封まで思いのままにしておる。さらには加賀の前田公に言いがかりをつけ、その母親を人質に取り、此度は上杉公にありもしない謀反の嫌疑を掛け、まつろわぬと見るや軍を起こし無理やり従わせようとする。上杉討伐は豊臣家のためでは決してない。家康の私利私欲、天下獲りのための布石でしかない。このままでは豊臣家は真綿で首を絞められるがごとく徐々に力を奪われ、近い将来、家康に追い落とされることは必定。今立たねば、豊臣家の存続は風前の灯火じゃ」
「して、勝算はござるのか?」
為広は三成の長口上など聞いていなかったかのように即座に簡潔に勝てる見込みがあるのかどうか訊ねた。
大義名分や義理人情の話など興味はないと言外に言っているように聞こえる。
これまで幾度も死線を乗り越えてきた武将の最も気にするところは勝てるかどうかの一点に尽きるのかもしれない。
勝算。
それに対し嗅覚が働くかどうかが、為広の戦の始まりなのだろう。
「もちろん勝算はある。今、西で兵を起こし東の上杉と手を携えれば家康を挟み撃ちにすることができる。家康の専横を憎々しく思っているのは拙者や上杉公だけではない。我らの義を説き、理を示せば、今、家康に従って会津に進軍している豊臣恩顧の大名の中にも賛同してくれる者が現れよう。もちろん因幡守殿のお力もお借りしたい。歴戦の猛者である因幡守殿や知勇に優れた平馬の名前を連ねて檄文を書けば受け取る者の心を大いに揺さぶることができる」
興奮気味に語る三成の頭に冷水を浴びせるように吉継は「甘い」と突き放した。
「おぬしでは百戦錬磨の内府様には勝てん。これは罠じゃ。内府様の会津攻めの本来の狙いは石田三成の挙兵、その一点にある。会津攻めでわざと背後に隙を見せ、おぬしが噛みつくのを待っておられるのじゃ。それが分からんか」
「そうであったとしても隙は隙。つけいる好機じゃ。ここで叩かねば一生後悔することになる」
「わしはおぬしのことを思って言っておるのじゃ。わしが病身をおして軍を進めたのも、おぬしの逸る気持ちを抑えられるのは旧知のわししかおらぬと思ってのこと。分かってくれ、佐吉。天下の情勢はもはやおぬしには如何ともしがたいところまで来ておる。ここで動いても無駄に命を縮めるだけのことぞ」
そういうことだったのか。
イツキは吉継が頑なに自ら軍を率いて出た理由を漸く理解した。
「命は惜しくはない。何もせず家康が天下を簒奪するのを指をくわえて見ているわけにはいかぬ」
三成の顔は若干青ざめて見えた。
吉継に死を突きつけられ気後れする自分を自分の言葉で鼓舞しているように見える。
「豊臣家の支柱であるおぬしが死ねば、それこそ豊臣家は終わりだ。豊臣家のためにも軽挙は慎むべきなのだ。分かってくれ、佐吉」
「答えは否だ。太閤殿下が亡くなられ豊臣家は権勢を失いつつある。ここは乾坤一擲立つときだ」
「どうしても兵を起こすと言うのか」
「そうだ。そして勝つ。勝つためには、大谷刑部少輔吉継、貴公の知略がどうしても必要なのだ」
「買いかぶるな、佐吉。わしにそのような力はない」
「そんなことはない。かつて太閤殿下は、平馬に百万の兵を差配させてみたかったと仰った。わしには百万もの兵は集められぬが、十万なら集めて見せる。平馬。豊臣家のために十万の天下の兵を差配してはくれぬか」
「十万?また、大きく出たな」
吉継の試すような響きの声に三成は不敵に笑った。
「わしにも策はある。勝ち目がなければ、わしとて無謀な喧嘩はせぬ。勝機は我にあり。頼む。平馬。わしに力を貸してくれ」
頭を下げる三成の脇で「刑部様。お願いいたしまする」と左近も平身低頭だ。
しかし、吉継は首を縦に振らない。
熟考の末、吉継は一つの決断を宣言した。
「断る。わしには万に一つも勝算は見えぬ」