人知
「父上。お変わりはございませぬか?」
しおらしく床に手をついて挨拶をするアゲハはすっかり戦国武将の妻の落ち着きを見せていた。
アゲハが真田に嫁いで二年余りが過ぎている。
吉継が伏見の屋敷に滞在しているときは、たまに顔を見せてくれるが、アゲハは夫の自慢はすれど、その口から悪口は聞いたことがない。
今日は吉継の方から幸村とアゲハを呼んだのだが、若夫婦が並んで座っていると仲の睦まじさが伝わってくる。
この婚儀は成功だったと確信できて、イツキはそれだけで涙が出そうになる。
「わしはまだくたばらん。安心しろ。幸村殿。よく来てくれた。今、酒肴を運ばせる。今日はゆるりとしていってくれ」
頭巾の下の目を細めて吉継は二人を歓待した。
しかし、その目は向かい合う二人の顔もぼんやりとしか見えてはいないだろう。
周囲の様子は吉継の隣に座るイツキが心の声で伝えている。
それで何とか用を足しているような状態だ。
吉継の体は日に日に衰えている。
屋敷の中を歩くのですらイツキや五助の付き添いが必要な有様だ。
それでも吉継が今年に入って一度も敦賀に帰っていないのは世情がそれを許さないからだった。
秀吉が死去してまだ一年経たないが、予想よりも早く豊臣家は瓦解し始めていた。
秀吉に愛され大事に育てられ立身出世を果たした武将たちが二派に別れ激しく対立しているのだ。
いわゆる武断派の加藤清正や福島正則、黒田長政らと、石田三成や小西行長らの文治派と呼ばれる勢力の抗争は秀吉の死後日増しに先鋭化。
今年三月、五大老の一人であり三成の数少ない擁護者でもある前田利家の死去をきっかけに武断派の七将が三成を襲撃するという事態にまで発展した。
三成は命からがら逃げのび、最後は武断派を陰で操っていると目される徳川家康の屋敷に飛び込むという奇策に出て事態の沈静化を図ったが、武断派に矛を収めさせるのと引き換えに三成は佐和山城で隠居させられることとなったのだった。
秀吉子飼いの武将の中で武断派と文治派の両方と話ができるのは温厚で気骨のある吉継ぐらいのものだった。
従って両派の内部抗争が激化するなか、豊臣家の行く末を案じ、争っている場合ではないと各武将を説いて回るのは吉継しかいなかった。
実際に武断派七将の三成急襲後、三成を領国に落ちのびさせることができたのは吉継が三成、家康、七将の間を奔走し取り持った結果だった。
酒を酌み交わしながら、吉継が口を開いた。
「今日、婿殿と竹を呼んだのは、他でもない。わしとイツキはそろそろ敦賀に戻ろうかと思うてな」
「そんな……」
アゲハが寂しそうな表情を見せる。
「病が篤くなったわけではない。ただ、ここのところ少々わしは働きすぎた。敦賀に戻って海を眺めながらゆっくりしたいのじゃ」
吉継は乾いた笑い声をあげる。
笑ってはいるが、虚飾はない。
三成の安全を確保した今、病身に鞭を打ってまでして取り掛かるべきことは何もないという判断だ。
「義父上のお力はまだこの伏見に必要かと。ここで義父上の目が届かなくなれば天下はますます不穏になりましょう」
幸村が冷静な眼差しを吉継に向ける。
「わしがおったところで何も変わらぬ。婿殿はわしを買いかぶりすぎじゃ」
「いや。石田治部殿が失脚された今、豊臣の政を裏から支えられるのは義父上しかおられませぬ。義父上は徳川内府様をどのように見ておられますか?」
「内府様のう」
「少々専横が過ぎるのではないでしょうか」
幸村は声を抑えて言った。
その表情は酒に酔った様子はなかった。
「婿殿には専横に見えるか。力を持つ人がその力を発揮するのは自然なことではないかな」
「ですが、内府様は豊臣家の家臣。豊臣家のために力を尽くすべきでしょう。拙者には内府様は私利私欲のために動いていらっしゃるように見えます」
「婿殿。一つ訊ねるが、天下安寧は誰のためか?」
「それは民のためです」
「そうであろう。民のための天下じゃ。豊臣家のための天下ではない」
「何と……」
幸村は吉継の言葉が信じられないようだった。
豊臣家の奉行として長く政務に携わってきた吉継の口から豊臣家の統治を否定するような発言が出るとは思いもよらなかったのだろう。
「婿殿。勘違いはせんでもらいたい。わしは豊臣家のためにこれからも尽くす。それは変わらない。だが、天下という器は納まるところに納まるとも思っておる。その動きには誰も抗えない。内府様とて流れに逆らうことはできぬのじゃ」
「天下の流れですか」
「そうじゃ」
「義父上。もう一つ伺いたいことが」
盃を一飲みで空にすると、アゲハの酌を受けながら幸村が身を乗り出した。
「何かな?」
「義父上は義母上と心の中で言葉を交わされるとか。本当でございますか?」
幸村の言葉にイツキは激しくうろたえた。
幸村は神畜のことをどこまで知っているのか。
それをはっきりさせないことには、この問いに答えられない。
事と次第によっては幸村とアゲハの良好な関係を決定的に破綻させることになりかねない。
「そのようなこと誰からお聞きになられた?」
吉継がイツキの意を酌んで言葉を選びながら慎重に訊ね返す。
「ここにいる竹からでございます」
吉継とイツキは幸村の隣に座るアゲハに視線を注いだ。
アゲハはにこやかに両親の眼差しを受け止め、一つ頷いた。
「父上。母上。私は幸村様と深い縁で結ばれていたようでございます」
「と言うことは……」
イツキは身を乗り出して若夫婦の顔を見た。
幸村も微笑んで頷く。
「拙者も聞こえるのです。竹の心の声が」
「おお!」
吉継は手にした扇子で膝をポンと叩いた。「これは良い話じゃ。のう、イツキ。奇跡と言うても過言ではないぞ。これが弁財天の御神威か」
普段冷静な吉継が興奮した声を上げる。
イツキも飛び上がらんばかりに嬉しさが込み上げてくる。
「本当か、アゲハ。幸村殿がアゲハの定めの人なのか?心の声で通じ合っているのか?」
「本当にございます。私は幸村様と心で通じ合うことができます」
「何と……」
イツキは言葉を繋げなかった。
涙が溢れてきて、慌てて身を捩り、部屋の隅に蹲った。
嗚咽が漏れるのを堪えられない。
「良かった。本当に良かった」
背中に聞く吉継の声も潤んでいる。「これだけが心配だったのだ。幾ら亡き殿下の御下命の相手でも、婿殿が弁財天の末裔である竹と通じ合えねば不幸を招くは必定。しかし、それも杞憂であった。まさか殿下もここまで見極めておられたということはないだろうが、さすが草履取りから天下人になられたお方。神の御意志に通じるところがあられたのだろう」
イツキは涙を拭い懸命に呼吸を整え吉継の隣に戻った。
見ればアゲハも目に涙を貯めている。
それを見ると再び泣けてきてしまい、口元を手で覆う。
「少々気になるのは、何故拙者なのかということなのです。信州のしがない小国の次男坊でしかない拙者がどうして竹と心を通じ合うことができるのか。義父上は弁財天の末裔との定めをどのように考えておいででしょうか?」
「わしもそれは昔から考えておったのだが」
吉継は力なく首を横に振った。「どれだけ考えても神の心は想像もつかん。イツキ本人も分かっておらぬのだから、わしなどには無理なのだろう」
イツキも困惑の顔で吉継に同調した。
「人知の及ぶところではないのですね。これは考えても無駄だな」
幸村は諦め顔で顎を掻いた。