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重責

「嫌です」


 アゲハはにべもなく答えた。

 その強い眼差しは膝を突き合わせる母の目を真っ直ぐに射抜いている。


「アゲハ……」


 予想はしていたが、あまりに取り付く島もない態度にイツキは掛ける言葉を迷った。

 もともとイツキ本人がアゲハの婚儀は早いと思っている。

 まだ手放したくない。

 もう少し傍において成長を見届けたい。

 そう。

 アゲハはまだ成長を続けている子どもなのだ。

 嫁入りするのは成長を終え大人になった女の務め。

 アゲハがまだその段に至っていないのは今年も少しずつ伸びている背が示しているではないか。


「アゲハ。お相手の真田幸村殿はことのほか器量に優れていらっしゃるようです。数年前まで幸村殿を預かっておられた上杉景勝様、直江兼続様も幸村殿のことを大層評価なさっておられます。この上ない、よきお相手なのですよ」


 必ずアゲハを納得させよ。

 吉継にそう厳命されている。

 こんなことでアゲハの気が変わるわけがないと思いながら、イツキは義務感だけで口を動かした。


「お相手のことは関係ありません」


 言うだろうと思っていたことをやはりアゲハは言った。


 アゲハも神畜だ。

 畜は定めの人のために尽くすことを課せられている。

 当然そのことはアゲハも知っている。

 幾ら幸村が器量人だとしても、アゲハの定めの人が別に現れれば、アゲハとしては幸村に尽くすわけにはいかない。

 その時はアゲハは様々な辛い思いを抱えて真田家を出ることになるだろう。

 このことがイツキを最も悩ませている。

 幸村がアゲハの定めの人となる可能性がないわけではないが、もしそうであったとすれば、それは奇跡だ。

 そこに賭けるのはいくら何でも無謀に過ぎる。


 まだ九歳のアゲハが神畜の定めをどれぐらい重く受け止めているか、どの程度正しく理解しているか分からないが、この婚儀は神畜のアゲハに不幸をもたらすことになるだろう。

 母としてそれを知っていながら娘に勧めなければならないのは非常に辛いことだった。


「太閤殿下の思し召しなのですよ」


 語尾が震えた。

 言いたくなかったが、言わざるをえなかった。

 天下人の命令だ。

 だから言うことを聞け。

 さもなくば当家にどのような咎めがもたらされるか分からない。

 ……脅すようなことを言ってまでして、どうして愛する娘を他家にやらなくてはならないのか。


「太閤殿下が……」


 さすがにアゲハも驚いた顔を示した。

 そして視線を畳に落とした。

 天下人が自分の婚儀を差配するとは思ってもみなかったようだ。「私が真田家に嫁すことが、天下の仕置きにつながるということなのですか?」


 天下の仕置き。

 大げさではなく、今回の婚儀はそれにつながっている。

 大谷家と真田家が縁戚となる。

 それは真田家を豊臣家に取り込むことにつながるようだ。

 秀吉ももう高齢だが、後継となる拾丸はまだ幼い。

 秀吉の身に今何かあれば、幼い拾丸をめぐって天下が再び荒れることになるかもしれない。

 特に秀吉が気にしているのは徳川家の動向だ。

 戦においては負け知らずの秀吉もかつて家康に小牧長久手で煮え湯を飲まされている。

 家康は今でこそ秀吉に臣従の姿勢を見せているが、そこに至るまでは紆余曲折があった。

 秀吉は家康を恐れている。

 秀吉としては一朝事が起きたときに家康に靡く可能性のある武将を減らしておきたい。

 そう考えたとき、信州上田の真田家は小勢力ながら侮れない存在だった。

 何せ、秀吉が勝てなかった家康と真正面に戦い、打ち負かして天下にその名を轟かせているのだから。

 そして、その真田家の長男信幸は家康の家臣、本田忠勝の娘を娶っている。

 今のままでは豊臣家と徳川家の関係にひびが入れば真田家は徳川方につくかもしれない。

 とすれば、残っている幸村を豊臣側に引き入れる必要がある。

 今回のアゲハの輿入れはそういう思惑が動いていると言えるのだ。


 しかし……。

 イツキはアゲハの問いに少しの間動けなかった。

 このか弱い九歳の女児に天下安寧の一端を背負わせるのはあまりに酷ではないか。

 自分はそのような重責は担っては来なかった。

 浅井家に生まれ、幼くして戦乱に両親を失い、神畜としての運命に翻弄されたが、それでも吉継という定めの人を得て、全身全霊で尽くすことができている。

 

 イツキは我が身を振り返り、アゲハの行く末に目を凝らして言葉を探った。

 しかし、口をついて出るのは脅し文句ばかりだ。

 他にアゲハの心を変える言葉を知らない。


「アゲハ。そなたの父上は天下のために尽くしておられる。私も、アゲハも大谷家、ひいては豊臣家のために生きなければならないのです」


 正論かもしれないが、空疎だ。

 イツキは我ながら自分の言葉を忌み嫌った。

 家だの天下だのという重い言葉で娘を追いこむような真似をしている自分を呪った。


「母上」


 これまで気丈に振る舞っていたアゲハが目に涙を浮かべた。「今でなければいけないのですか?」


 どうして父上が病魔に苦しんでおられる今、この家を離れなければならないのですか?

 それが天下のためなのですか?

 真田家に嫁したくないとは申しません。

 ですが、今は嫌なのです。

 私は父上の病を治したいのです。

 父上はおっしゃっていました。

 竹の顔を見ていると元気になれる、と。

 今、私が父上の傍を離れたら、父上はきっと元気を失ってしまわれます。


 涙ながらに父親を慕う気持ちを切々と述べるアゲハにイツキは胸をうたれた。

 この胸にアゲハを抱きしめ、よく言ってくれた、と褒めてやりたかった。

 しかし、今は心を鬼にする時だと思った。


 吉継の病は日に日に進行している。

 吉継の願いは目が見えるうちにアゲハの婚儀を済ませ、その晴れ姿を脳裏に焼き付けたいということなのだ。

 アゲハの言うとおりに時を過ごすことは吉継の本意ではない。


「今でなければいけません。それがそなたの父上が決められたことです」

「何故……」


 はらはらと頬に涙を零したアゲハは突然立ち上がり、部屋を飛び出していった。


“イツキ”


 部屋の障子に影が映った。


“殿。聞いておられたのですか?”

“アゲハは良い子に育った”

“はい”

“辛い役目を押し付けてすまぬ”


 スッと障子の影が消え、イツキは着物の袖を噛みしめ声を押し殺して泣いた。


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