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真田

 吉継が肥前名護屋へ出陣してしまうと、イツキも敦賀へ戻った。

 その毎日は再び気比神宮へ参詣し吉継の無事の帰りを祈願するだけの味気ないものとなった。

 文禄一年六月には軍奉行として海の向こうの朝鮮へ渡るという吉継からの文が届いた。

 あれほど正室小石の方が反対したのに吉継は行ってしまったらしい。

 主君への最後の奉公と考えてのことかもしれない、と思い、イツキは吉継を止めることはしなかったのだが。


 朝鮮。

 気候も文化も食生活も全く想像の外だ。


 小石の方と顔を合わせても、吉継のことを話すことが難しくなった。

 口をついて出るのは心配事ばかりだからだ。

 暗い顔を突き合わせてあれこれ想像しても良いことは一つもない。


 いっそ、変化して海を渡り吉継のもとへ行ってみようか、と何度も思った。

 しかし、きっと朝鮮どころか肥前に着く前に渇きに苦しんで野垂れ死にするだけだと自分を諌めた。


 待ちに待った吉継帰参の報せが届いたのは翌年の五月だった。

 また、五助が遣わされ、大坂あたりに呼び出されるかもしれないと待っていたが、その後使者は現れず、吉継本人が敦賀へ帰ってきた。


 少し狐につままれたような感覚で広間で吉継を待っていると、現れたのは白い頭巾で顔を隠した武将だった。

 頭巾からは目だけが見える。

 陣羽織や体格、歩き方からして吉継であることは疑いないが、見慣れないその頭巾姿に何と言ってよいか分からない。


「小石。イツキ。よう留守を守ってくれた」


 声もやはり吉継だ。


「殿。その頭巾は何故にございますか?」


 小石の方が我慢しきれない様子で訊ねた。


「朝鮮の風が肌に合わなかったのか、結節が増えてな。見苦しいのでこうしておるのじゃ」

「殿。それは病が……、病が……」


 小石の方はその場に泣き崩れた。「だから、言ったのです。お体に障るので朝鮮への御出陣は見合わせてほしいと。もっと……、もっと、ご自分を大事にしてくださいませ」


 小石の方は泣きながら、吉継を責めた。


 イツキも小石の方と同じ気持ちだった。

 ただ、二人して吉継を責めても仕方がない。

 イツキは目に涙を貯めながら、取り乱すまいと唇を噛んだ。


“殿”


 イツキの呼びかけに、頭巾から覗く目が動く。

 その目は小石の方の悲嘆に暮れる様子に困惑しているようだった。


“何じゃ?”

“実のところ、どうなのです?病は進んでいるのですか?”

“イツキには隠せぬであろう。病は進んでおる”


 吉継の目は何かを悟ったような落ち着いた光を宿していた。


“熱があるのですか?横になられた方がよろしいのでは?”

“熱はないが、手足が重い。少しのことで疲れるようになった。そして……”

“そして?”

“目が霞む”

“お目が……”


 いよいよか、とイツキは思った。

 結節が増え、手足の動きが重くなり、視力に陰りが見え始めた。

 吉継の病は確実に進行している。

 今日、明日ということはないだろうが、吉継の死が近づいているのは疑いようがない。

 それなのに、吉継が落ち着いているのは何故だろうか。


「小石。イツキ。わしは奉行の職を辞することに決め、殿下もお許しくだされた。これでそなたたちが言うように、体に無理なことはもうしない」


 吉継の戦国武将としての立身出世物語はここに終わったということのようだった。

 体に無理なことはしない、のではなく、もう無理がきかなくなったのだろう。


「悔いはございませんか?」


 涙を拭いた小石の方が訊ねる。


「ないと言っては嘘になる。わしも武将として死ぬなら病ではなく戦陣で散りたかった。しかし、この体では願うべくもない。そうなったときにわしに残された仕事は一つじゃ。それはこの敦賀を豊かな国にすること。これからはそのことに専念したい」

「民も喜びましょう」


 小石の方が濡れた頬を光らせてにっこりと微笑む。


 吉継は満足そうに頷いた。


「イツキ」

「はい」

「わしはまだ目が見えるうちに竹の嫁入りを済ませたい」


 アゲハの輿入れ。

 そんな。急に言われても。

 イツキの心が大きく揺れ動く。


「竹はまだ九つ。輿入れはまだ……」

「殿下の御厚意でもある。イツキ。頼む」


 吉継はイツキに頭を下げた。


 そういうことか。

 天下人の秀吉が決めたこと。

 母子の知らないところで話はもう固まっているのだ。


 イツキは体から力が抜けるのを感じた。

 こうなっては唯々諾々と受け入れるしかない。

 秀吉に逆らえる人間など一人もいないのだから。


 イツキは鼻の奥にツンとした痛みを感じた。

 アゲハを身に宿し、今日まで育ててきた十年の記憶がまざまざと蘇ってくる。

 まだ幼いと思っていたアゲハが嫁入りする。

 めでたいことと喜ばなくてはならないのだろうが、寂しさの粉が全身に降りかかっているように少しずつ心が沈んでいく。

 このご時世、十歳前後での輿入れは珍しいことではない。

 しかし、我が身と我が娘にその現実が突きつけられることになるとは。


 目が見えるうちに、と吉継は言った。

 それはつまり体の自由がきくうちにということだろう。

 このまま病状が悪化すれば、いつ、足腰が立たなくなるか分からない。

 父親として娘の婚儀に立ちあえないのは悲しいことだし、アゲハにとっても父親に嫁入りの姿を見送ってもらえないのは不憫。

 吉継は秀吉に娘の婚儀を告げられたとき、そう考えたのだろう。

 あるいは、自分の体の状況に焦った吉継の方から秀吉に娘の相手に誰か、と話を持ち掛けたかもしれない。


「お相手は?」

「信州上田の真田昌幸の次男、幸村という名の偉丈夫だ」

「信州……」


 遠い。

 イツキは信州までの距離を考えた。

 敦賀からではなく琵琶湖からの距離だ。

 アゲハはこの敦賀の地では苦しそうな様子は見せないが、イツキの娘である以上、イツキと同じように琵琶湖から遠く離れると体に渇きを感じて身動きが取れなくなってしまう可能性が高い。

 きっと信州ではアゲハは生きられない。


「ただ、幸村殿の住まいは伏見にある。竹もそこで暮らすことになる」


 つまり、秀吉に臣従する真田は次男の幸村を人質に差し出しており、秀吉が政務を行う伏見城周辺の屋敷で生活しているので琵琶湖からの距離は心配ないと吉継は言っているのだ。


 しかし、そうだろうか。

 豊臣の安寧がいつまで続くかは分からない。

 天下が乱れれば、幸村という武将も信州に帰るだろう。

 そうなったときにアゲハはどうなる。


 イツキはまだ九歳のアゲハに色々なことを伝えなければならないことに心を重くした。


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