茶会
唐入りの軍奉行に任じられた吉継は同僚の石田三成、増田長盛らと東奔西走した。
今回は散々苦労して何とかなし終えた小田原征伐の倍の兵力が注ぎ込まれる陣立てになったのだ。
兵が倍なら、必要な兵糧も倍となる。
さらに、海を渡っての戦であるから、補給路も長く、さらに馬だけではなく船も大量に必要となる。
聞いているだけでも気が遠くなりそうな任務をこなす吉継をイツキは陰ながら見守った。
吉継に請われてイツキは大坂に来ていた。
吉継が奉行の職を務めるにあたってイツキに傍にいてほしいと言うのは今回が初めてのことだった。
殿はこの唐入りを最後に奉行の職を辞するつもりなのだろう。
イツキはそう理解していた。
だからこそ、吉継はイツキを傍に呼んだのだと。
吉継は唐入りにおける自らの任務を完璧に遂行しようとしていた。
従って発熱や体のだるさから仕事が疎かになることを吉継は恐れていた。
奉行の任は相当骨の折れるもののようだが、夜、イツキと同衾すると朝にはある程度体から疲労が取れているようだった。
それでも体調が優れない日は日中でも吉継に請われイツキは鼠に変化して吉継を天井裏や縁の下から見守った。
妻が近くにいると任務に集中できないと吉継はこぼしもしたが、背に腹は代えられないと思っているようだった。
吉継は大変そうだが、イツキは大坂での毎日を楽しく思っていた。
大坂であれば琵琶湖からの距離は遠くなく、渇きに苦しむことはない。
夜は同衾できるし、時には日中も傍にいられる。
島にいたころはもちろん、一つ屋根の下で起居する敦賀でもこんな日はなかった。
アゲハの傍にいてあげられないのは不憫に思うが、アゲハももう八歳になり、身の周りのことは自分でできるようになっているし、侍女もいるので毎日の生活に心配はなかった。
吉継の娘として、竹姫としてかしずかれている身であるのだから、やがて遠くない将来輿入れすることになるだろう。
その時のために、今、母と離れることで色々なことをできるように学ぶことはアゲハのためにもなるはずだ。
「皆の者。ご苦労、ご苦労」
聞き覚えのある朗らかな声が聞こえてきてイツキはハッと我に返り天井の隙間から下の様子を見た。
やはり秀吉だった。
場にいた者が全員さっとひれ伏す。
辺りにピリピリとした火花が散るような緊張感が走る。
久しぶりに見る秀吉は髪がすっかり白くなっており、動きも少し緩慢になっているが、煌びやかな着物をまとい全身から天下人の他を圧する気を放っていた。
吉継も下座で頭を垂れていた。
イツキのいる天井裏からは角度が悪く顔色が見えない。
今朝は少し熱が出ていたので傍に付き従っていたのだが、今の体調はどうだろうか。
「このような場におなり遊ばすとは、殿下、いかがなされましたか?」
石田三成が場を代表して問いかける。
秀吉は無造作に三成の隣に腰を下ろす。
「唐入りの手筈も大方整ったと聞いてな。戦において大事なのは何をおいても兵糧じゃからな。三十万の軍勢の兵糧を切らさず海の向こうに運ぶというのは並大抵のことではない。天下に類を見ない大仕事じゃ。しかし、頭の切れるそちらはその大事業に大方目鼻をつけたと言う。やはり我が幕下でも頼りになる者たちじゃ」
礼を言うぞ、と秀吉は頭を軽く下げた。
居並ぶ四、五人の家臣たちはさらに床に額をこすりつける。
「もったいなきお言葉。身に余る光栄に存じます」
吉継がほんの少し頭を起こして返答をした。
「平馬。体はどうか?」
「問題ございません」
「そうか。いとえよ」
秀吉の言葉に、ハッと恐懼したようにひれ伏した吉継の肩が小刻みに震えているのが分かる。
主君に優しい言葉をかけられて、感涙に咽んでいるのだろう。
イツキもじんわりと胸が熱くなった。
急に秀吉が、「よっこいしょ」と立ち上がる。
「茶を振る舞う。参れ」
秀吉はひょこひょこと歩いて出て行った。
残されたものたちは顔を見合わせ、慌てて秀吉の後を追っていった。
イツキも鼠の姿のまま吉継を追って茶室に向かった。
茶室の天井から覗き見ると、既に茶釜から湯気が出ている。
慰労のため秀吉が準備していたのだろう。
秀吉は昔から人たらしと言われているが、部下に対しても気配りができる男のようだ。
「平馬。こっちへ来い」
亭主の位置に座った秀吉は、主客の座に吉継を呼んだ。
そこに座っていた三成が嫌な顔一つせず、逆に秀吉と見つめ合い頷き合って下座にずれる。
「殿下。私はここで結構です」
末席にいた吉継はひれ伏して秀吉の指名を固辞しようとした。
イツキの体にも緊張が走った。
敦賀城に入って、花や茶のことを少し学んだが、濃茶は一つの茶碗で回し飲みをする。
吉継もそのことを心得ているからこそ末席に座ったのだ。
末席で残った茶を全て飲み干し、秀吉に戻す。
末席以外に座れば、自分が口をつけた茶を他の者が飲まなければならない。
吉継が癩に冒されたことは秀吉はもちろん、他の者も知っている。
心の中では皆、吉継の下座に座るのは遠慮したいだろう。
それなのに秀吉は吉継を主客の位置に座るように指名した。
一体どういうつもりなのだろうか。
「平馬。その方の忠勤ぶりはわしの誇り。その体で本当によくやってくれている。今日はその方のこれまでの尽力にわしが報いたいと思う。平馬の下に座ることを厭う者はわしの臣ではない。わしがここに座れと言うておるのだ。何を遠慮することがある」
吉継としてはこれ以上ない褒め言葉だった。
そこまで言われてしまっては断ることはできない。
吉継は静かに立ち上がり、上座についた。
秀吉は淀みのない動きで茶を練り、吉継の前に碗を差し出した。
吉継は少しぎこちない動きで碗を持ち上げ、さっと一口飲んだ。
そして懐紙を取り出し、飲み口を丁寧に拭き取る。
その時、茶碗に何かが落ちた音がした。
イツキはハッと息を飲み、目を疑った。
しかし、現実は変えることはできない。
碗に落ちたのは膿だった。
吉継の左頬の結節が弾け、中の膿が飛び出してしまったのだ。
吉継も気付いたのだろう。
見る見る顔を青ざめさせる。
手がわなわなと震えている。
天下人が点てた茶である。
作法を崩して秀吉に返すなどという不届きなことはできるわけがない。
濃茶である以上、次客に回さなくてはいけない。
しかし、癩の膿が溶けた茶を三成以下の同僚に飲ませるわけにもいかない。
吉継は碗に目を落としたまま石になったように硬直した。
“殿”
心の中から呼びかけても吉継から返事はなかった。
イツキは最悪のことを考えた。
吉継は腹を切ろうとしているのではないか。
少なくとも吉継の正面にいて亭主としてもてなす立場の秀吉は一部始終を目にしただろう。
わしの点てた茶に膿を落とすとは何事かと叱責されても文句は言えない。
秀吉から咎められる前に、自分から非礼を詫びる。
吉継ならそうするのではないか。
“殿!”
こんなところで吉継を死なせたくはない。
こうなったら破れかぶれだ。
イツキは意識を集中して変化しようとした。
馬に変化して天井を破り茶席に落ちれば、全てを壊すことができる。
茶室の天井から馬が落ちてくるなどあり得ないことだが、吉継の命を救うには他に手立てが思い浮かばない。
しかし、眼下では思いもよらないことが起きていた。
次客の石田三成が硬直している吉継から強引に碗を受け取り、平然とした顔で茶を飲んでしまったのだ。
しかも、全て。
吉継はただ口を開いて三成の行動を見つめるだけだった。
「あっ。私としたことが、作法を忘れて全て飲んでしまいました」
三成が悪びれもせず、亭主である秀吉に「あまりに美味しかったものですから、つい」と言い訳をする。
「佐吉。お前はいつまで経っても茶の道が上達せぬのぅ」
秀吉は苦笑して言った。
「申し訳ございませぬ」
「まあ、良い。わしは茶の席は楽しければ良いと思うておる。粗相をとやかく言うつもりはない」
「ありがたきお言葉。つきましては、殿下」
「何じゃ」
「この茶碗を私にいただけませんでしょうか。今日の粗相を繰り返さぬよう、戒めとして持っておきたいのです」
「よかろう。その茶碗はそなたにくれてやる」
秀吉は別の茶碗を取り出し、もう一度濃茶を練り始めた。
三成は袱紗を取り出し、さっさと茶碗を包んでしまう。
イツキはほっと胸をなでおろした。
そして三成に対して心の中で礼を言った。
吉継の真横にいた三成は膿が落ちたことに気がついていたのだろう。
そして自分を見失って動けない吉継のために碗を奪い取り残っていた茶を飲み干したのだ。
そうすれば、三成一人が作法を誤ったというだけで、秀吉の顔に泥を塗るわけでもなく、吉継にも何の非も生まれないどころか、三成よりも下座に座る面々が吉継の膿が入った茶を飲むこともなくなる。
さらにその場で茶碗を貰い受けてしまったことで、吉継が口をつけたのとは違う茶碗で残った客は秀吉の茶を受けることができるようになった。
癩の伝染を怖ろしく思う同輩の気持ちも三成は一気に救って見せた。
この瞬間、三成は吉継の、そしてイツキにとっての命の恩人となった。
イツキは心の中で三成に礼を言った。
今後石田三成の身に何か問題が起きたときは全力で助けようとイツキは心に誓った。