使者
秋風が頬を撫でて通り抜ける。
北陸敦賀の秋は通り過ぎるのが早い。
今吹き抜けていった風にも微かにだが冷気が含まれていた。
あと一月も経てば海から吹き込む風は身震いさせるような冷たさを帯びることだろう。
殿。
無事の御帰還を。
一刻も早く。
敦賀で古くから北陸の鎮守として崇められている気比神宮の本殿に向かって手を合わせながら、イツキは吉継の健勝と武運を祈った。
弁財天の末裔が他の神に祈りを捧げるなどタキに知れたら何と言われるか分からないが、遠く離れた地で吉継のためにできることが他には思いつかなかった。
いや、これは吉継のためだけではない。
自分のためでもあるのだ。
静かな境内で無心に祈る。
その間だけがイツキの心に平穏をもたらしていた。
敦賀城でアゲハの相手をして遊んでいても、一人寝をしていても心は千々に乱れ休まらない。
「父上は今頃どこにおいでなのでしょうか?」
毎日来る気比神宮の境内の石畳を慣れた足取りで歩くアゲハはイツキを見上げて訊ねてきた。
「本当に。どこにおいでなのでしょう」
詳しいことはイツキにも分からない。
そのことがイツキの不安な想像を掻き立てる。
イツキの耳に入るのはごくたまに来る早馬からの情報以外は、どこそこの修行僧や商人の噂話のさらに伝聞だ。
誰か殿の御様子を正確に伝えて。
叫びたいほどのもどかしさがイツキの心に毎日堆積していく。
駿府から敦賀に戻ってきてしばらくすると、吉継から遣わされた使者が城に辿り着いた。
使者によれば吉継が小石の方に小田原へ来るように言っているということだった。
殿がおなごを、小石の方を戦場に呼んだ。
俄かには信じられなかったが、内実は小田原攻めが長丁場になることから、国許から妻妾を呼び寄せるようにとの秀吉からの命を受けてのことだったらしい。
イツキは琵琶湖から遠く離れた小田原まで行くことはできない。
そのことは五助から吉継に伝わっているだろう。
従って、吉継が呼ぶとすれば小石の方でしかない。
寂しさはあったが、納得できた。
しかし、呼ばれた小石の方もさっさと敦賀へ帰ってきた。
吉継としては秀吉の言葉に従って形の上で呼んだだけで、しかも小田原から離れた館林城や忍城を攻めることになり、おなごの相手をしている暇はないということになったようだ。
「とんぼ返りでは、骨折り損のくたびれもうけじゃ。もう二度と御免こうむりたい」
小石の方は出迎えたイツキに嘆息して愚痴をこぼした。「我々はしっかり留守を守りましょ」
「はい」
イツキは笑顔で頷きながら小石の方の気遣いに感謝した。
小石の方は吉継に呼ばれて嬉しかっただろうし、優越感もあるだろう。
しかし、敦賀に残ったイツキに対して、それを鼻にかけることはなく、イツキを同じ敦賀城を守る同士として認める発言をした。
そのことがイツキには嬉しかった。
やがて、小田原征伐の成功を伝える早馬が到着した。
しかし、待てど暮らせど吉継は帰ってこない。
小田原での後始末に奔走しているのかと思いきや、その後に届いた文によれば吉継は検地奉行として上杉景勝とともに小田原からさらに北東の奥羽へ向かっているとのことだった。
「殿は遠いところへ行ってしまわれた」
小石の方は文を手に、ぼんやり中空を見つめぽつりと零した。
イツキも同じ思いだった。
九州もそうだったが、奥羽と聞いても何も思い浮かばない。
分かるのはこの敦賀からは果てしなく遠いということだけだ。
「奥州の冬はこの敦賀よりも雪深く寒いらしい」
小石の方は寒さに震えるように自分の両肩を抱いた。
小石の方の父、須田満親は上杉景勝の重臣。
小石の方としては夫と父親の二人ともが見たことのない極寒の地へ旅立ってしまったことになる。
この敦賀よりも寒い……。
イツキは吉継の身を案じた。
丈夫とは言えない吉継に耐えられるのだろうか。
ただただ早い帰還を願うばかりだ。
できれば冬が来る前に奥羽から戻ってほしい。
しかし、吉継は帰ってこなかった。
噂では検地に反対する奥州の百姓が至る所で一揆を起こしているということだった。
年が明けて春が来ても吉継の帰還を伝える文は届かない。
そして、その代わりに届いたのは九戸政実という奥州の武将が反乱を起こし、吉継が上杉景勝とともにその平定に当たっているという報せだった。
「また、戦……」
イツキは小石の方と暗い顔を突き合わせて絶句した。
その頃からイツキは毎日アゲハとともに気比神宮に参拝するようになったのだった。
その気比神宮の帰り道、敦賀城に早馬が駆けこんでいくのが見えた。
イツキはアゲハと顔を見合わせ、城へ急いだ。
殿からの報せだ。
そう思うと、期待と不安が胸を圧した。
いよいよ帰ってこられるのか。
それともまた遠い地で新たな戦に巻き込まれてしまったのか。
これ以上は吉継の体に悪影響だ。
その確信があるイツキは気が気ではなかった。
「おお。イツキ殿。こちらへ」
城に戻ったイツキを小石の方が慌てて手招きをする。
小石の方の部屋には汗と埃に塗れた使者が頭を低くして控えている。
使者が起こした顔を見てイツキは一瞬息を飲んだ。
使者は五助だった。
何か鋭いものに背後から貫かれたような悪い予感を覚えた。
小石の方の脇でイツキはアゲハにすがるようにして座した。
五助は吉継の身の周りの世話をするのが務め。
吉継の言葉の伝達であれば他の者でもできるはず。
吉継の近況を知らせる使者はこれまで何回も敦賀に派遣されたが、五助だったことは一度もない。
何故、今回五助が使者の役目を仰せつかったのか。
五助はイツキの方を見ることなく、小石の方を真っ直ぐに見て居住まいを正した。
小石の方の表情に緊張が走る。
「殿におかれましては九戸政実の反乱を見事に平定され、御帰還の途に就かれ、東海道を上っておられます。美濃あるいは近江に入られた頃と推察いたします」
おお、と場に居合わせた一同から自然に安堵の息が零れた。
小石の方がイツキの方を向いて目を輝かせる。
アゲハが嬉しそうにイツキの腕にすがりついてくる。
しかし、イツキは全く安心できなかった。
何かある。
きっと吉継の身に何か悪いことが起きている。
「イツキ殿?どうなされた、怖い顔をして」
「い、いえ。滅相もございません。ただただ、安堵で気持ちが緩んでしまいまして」
イツキは小石の方に作った笑いを見せて場をしのいだ。
「ただ、殿のお帰りはもうしばらくお時間がかかることとなります」
五助の言葉に場が静まり返る。
「何故じゃ?また、どこかで戦か?それともどこかお悪いのか?」
小石の方が声を震わせる。
もうこれ以上は失望をしたくない。
そういう気持ちが表情に出ている。
「いえ。そうではございません。ただ、軍監としての御役目がございますれば、関白殿下に戦の次第をご報告なされなければなりません。一度大坂に入られ、その後、敦賀にお戻りになられます。私はそのことをご報告に参上いたしました」
「そうか。それはそうじゃな。御役目であれば致し方ない。戦でなければ良いのじゃ。まずは御無事でいらっしゃるということだけで満足せねばなるまい」
小石の方は何度も頷き自分に言い聞かせるように言った。
五助の報告には肝心なことが含まれていない。
その気持ちを押し殺しながらイツキはアゲハとともに自室に戻った。
すると案の定、間もなく五助が訪いを入れる。
イツキはアゲハを外に遊びに行かせ、五助を部屋に入れた。
「殿はいずこに?」
イツキは声を低く抑えて訊ねた。
五助は表情に陰を漂わせ、吉継が石田三成の居城佐和山城で静養していると告げた。
佐和山は長浜のすぐ南に位置する。
「熱が高く、床に伏せておられます。内密にイツキ様をお呼びでございます」