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大鯰

 竹籠の中で揺られながら、イツキは悪心に必死に耐えた。

 元々の体調不良もあるが、走る馬の揺れも吐き気を催させる。

 竹籠を背負って馬を操る五助としては、イツキに配慮して努めてゆっくり走ってくれているのだろうが、それでも揺れはひどい。


「ここらで休憩いたしましょう」


 五助は馬をおり、道脇の石に腰かけ、隣に竹籠を置いた。


 馬からおりても体が揺れている感じが残っていて、悪心が消えない。

 しかし、イツキをひどく苦しめていた体の渇きは少し軽くなっていた。

 竹籠の中でとぐろを巻いてじっとしていると、悪心もやわらいでくる。

 体が楽になってきたので、イツキは竹籠から顔を出した。

 辺りに人影がないことを確認して神経を集中する。

 人の姿になってイツキは五助の隣に腰を下ろした。


「イツキ様!変化なさっても体調はよろしいのですか?」

「少し楽になった。ここはどのあたりか?」

「三河から尾張に入ったところでしょう。敦賀まではまだ遠くございます」


 尾張の地に何の思い入れもないが、確か、行きの行程でも尾張から三河へ入ったあたりから体が苦しくなってきたのを思い出す。

 この地に何かあるのだろうか。


「すまぬな、五助」

「何を仰せですか。イツキ様が謝られることなど何もございません」

「いや。五助にとっては初陣。それが、このように殿から離れて国許に帰ることになってしまった。全て私のせいじゃ」

「何の。戦はそう簡単には終わりますまい。敦賀に戻って、とんぼ返りすれば、まだまだ働き場はございますでしょう」


 五助は乾いた笑い声を発した。

 顔は笑っているが、心では空しさを覚えているのだろう。

 五助とは島で長い間共に過ごした。

 五助の心の裡はイツキには手に取るように分かる。

 イツキはさっさと休憩を打ち切り再び五助の背に揺られた。


 そして、近くの小さな集落で馬を求め、イツキも馬上の人となった。

 人の姿となって馬を操っている方が体は楽だった。

 二人は黙々と馬を走らせた。

 尾張で一泊。

 美濃で一泊して、近江に入ると、イツキは全身に力が漲り、体に潤いが蘇ってくるのを感じた。


「湖のにおいじゃ」


 思わず声が上ずる。

 琵琶湖が近くにある。


「まだ、琵琶湖は遠いですぞ」


 確かに五助の言う通り、馬は伊吹山の麓を走っており、どこにもまだ湖面は見えない。

 しかし、イツキは肌で琵琶湖の存在を感じ取っていた。

 そして、これが体調不良の原因だということに気が付いた。

 自分は琵琶湖に浮かぶ竹生島に降りた弁財天の末裔。

 先祖代々琵琶湖とともに暮らしてきた。

 琵琶湖が体の一部であり、体が琵琶湖の一部となっていると言えるほどに密な関係なのだ。

 だから、琵琶湖からあまりに遠ざかると体が異変を起こすのだろう。


「急ぐぞ」


 イツキは馬の手綱をしごき脚の回転を速めた。


 琵琶湖が待っている。

 琵琶湖が呼んでいる。

 一呼吸ずつ体が楽になっていく。

 イツキは笑顔を浮かべて馬を走らせた。


 馬を合わせて走らせる五助もイツキの様子に一安心という表情だ。

 やがて西の彼方に金色に光る湖面が見えてくると五助の表情にも懐かしさを噛みしめる嬉しさが現れてきた。


 湖の波打ち際に辿り着くと、イツキは馬から下りて、そのまま波に向かって駆けこんだ。

 琵琶湖の波が足を洗う。

 まだ冷たいが、慣れ親しんだ水の柔らかさが心地良かった。

 琵琶湖に迎えられているという実感があった。


 するすると湖中を何か黒いものが近寄ってきた。

 それはあっという間にイツキの足下にやってきて、まるで犬が飼い主にじゃれ付くようにイツキの前後左右を泳ぎ回る。


「主か。私が分かるのじゃな」


 イツキは嬉しかった。

 琵琶湖の主は敦賀に嫁したイツキを忘れずにいてくれたようだ。


 主がイツキの左右の足にまとわりついてきて湖面に漂う。

 乗れということなのだと理解できた。

 かつて主は姉のタキと、まだ明智秀満を名乗っていた天海を背に乗せて琵琶湖を渡ったことがある。

 今回も同じことをしてくれようとしているのだろう。


「五助。お前も主の背に乗れ」


 イツキに手招きされ、五助は得心顔で湖に足を踏み入れた。

 五助も主がタキと天海を連れてきたのを目の当たりにしている。


 五助が跨ると、主は二人の大人を乗せているとは思えない軽快さでするすると泳ぎ始めた。

 あっという間に波打ち際が背後に遠ざかる。


「イツキ様」

「何じゃ?」

「この大鯰はどちらに向かおうとしているのでしょうか」

「さあ。竹生島かな。それとも敦賀との国境か」

「畏れながら、拙者としましては一刻も早くイツキ様を敦賀へお送りし、再び戦場へ戻りたいのですが」

「確かに。そうじゃな。では、五助はここらで陸へ上がるか?私はここからなら一人で敦賀へ戻れる」


 このまま主の背中に乗って余呉のあたりまで連れていってもらえば、敦賀はもう間近。

 そこからなら敦賀城まで鷹となって飛べば大した時間はかからない。


「何を仰せです。敦賀までお供するのが私の務め。これは主命でございます」

「真面目じゃのう。五助は」


 イツキは笑って、主に「島へは寄らず、敦賀へ頼む」と声を掛けた。


 すると、琵琶湖の主は、言われなくても分かっているとばかりに大きく背を揺らし、さらに速度を上げた。


 春の丸みを帯びた柔らかい風に髪が乱れるが、思わず声が出そうなほどに気分がすこぶる良い。


 左手に竹生島が見えてきた。

 里帰りはもう少し先に取っておくことにしよう。

 五助と帰ってきた理由を答えたら、寺の皆から叱られそうだ。


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