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東下

 明くる天正十八年三月。

 吉継は手勢を率いて秀吉の北条攻めに従軍した。

 近江、美濃、尾張、三河と豊臣軍本隊は順調に東海道を下っていた。


 イツキはかねての言葉どおり鷹に変化し、吉継の反対を無視して豊臣軍の進軍にあわせて移動していた。


 常に総大将豊臣秀吉に近侍し馬上にあって進軍の差配をする吉継は精悍に見えた。

 何事もなければ良し。

 イツキは遠すぎず近すぎずの距離を保って吉継の様子を見守り、吉継の体調に異変が起こらなければ、最後まで吉継の前に姿を見せるつもりはなかった。


 しかし、三河の岡崎あたりから吉継の動きに軽快さがなくなったように見えた。

 遠江に入ると体が重そうになり、駿河との国境に差し掛かったころには手綱を握る力も頼りなく、ふらふらとしていて今にも馬から転げ落ちそうになっているように見える。

 大して暑くもないのに、しきりに顔の汗を拭い、竹筒の水を飲んでいる。

 きっと熱が出ているのだ。


 イツキは鷹の姿で豊臣軍の上空を旋回しながらやきもきしていた。


 駿河の駿府城は徳川家康の居城である。

 そこでは家康の饗応が待っているはずだ。

 となるとまだ陽は高いがそのまま素通りということはありえず、今日の行程はおしまいで駿府城で一泊ということになるだろう。

 少しは吉継の体も休まるはずだ。

 寝所に忍び込んで看病することもできる。


 何とか駿府城までは自力でたどり着いてほしい。

 しかし、万が一主君秀吉の乗る輿の真ん前で倒れてしまっては吉継の面目は潰れてしまう。

 幸先が悪い、と秀吉から叱責を受けることもあり得る。

 戦う前に帰国を命じられては、戦場で武名を上げるどころの話ではない。

 いざとなれば、鷹から小さな虫に変化し吉継の懐に飛び込もう。

 イツキはいつでも吉継を助けられるように身構えながら遠くから吉継を見つめた。


 そのイツキも三河を過ぎたあたりから喉の渇きを強く感じて仕方なかった。

 体も重い。

 まるで吉継の苦しさが伝染したかのようだった。

 しかし、泣き言は言ってはいられない。

 吉継に反対されつつも、それに抗ってここにいるのだ。

 アゲハも母と離れることを泣いて寂しがったが、何とか説得した。

 自分が体調を崩していては吉継にもアゲハにも叱られる。

 イツキは気力を振り絞って翼を動かし、吉継の様子を観察し続けた。


 駿府城の威容が視界に入ってきた頃、いよいよ吉継の様子が心許なくなった。

 体が前後左右に大きく揺れる。

 意識が遠くなりかけているのではないかと思われた。

 イツキは上空で鷹から蝶に変化して高度を落とした。

 まずは心の声で呼びかけてみようか。

 そう思ったとき、吉継の前を進んでいた一人の武将が馬の足運びを緩めさせ吉継に並んだのが見えた。

 その男にイツキは見覚えがあった。

 吉継の幼馴染で同輩の石田三成だ。


 三成は吉継に自分の竹水筒を手渡し、何やら声を掛けている。


 吉継は浴びるように水を飲んだ後、三成の言葉に大きく頷いた。


 それを受けて三成が吉継の肩を軽く叩いて、再び自分の持ち場に戻っていった。


 吉継は少し気力を回復したようだった。

 背筋が伸び、手綱さばきにも力が見られる。


 イツキはほっと息をつき、三成に心の中で感謝しつつ再び鷹に変化して高度を上げた。


 やがて秀吉の輿は滞りなく駿府城に入城した。

 

 これで吉継も休むことができる。

 イツキは城内の大きな楠の枝にとまり羽を休め、時が過ぎるのを待った。

 やがて日没となり辺りに夕闇が訪れたのを見計らって吉継の寝所に入り込んだ。


 果たして吉継は夜具に横になっていた。

 遠くから笛と太鼓の音が聞こえてくる。

 秀吉が城主徳川家康の接待を受けているのだろう。

 当然近習の吉継にも声がかかっているはずだが、辞退したようだ。


“殿”


 鼠の姿で部屋の隅から吉継に呼びかける。


“うう……。イツキ。おるのか”

“はい。こちらに”


 イツキはそのまま駆け寄り、人の姿となって吉継の枕元に座った。

 そして夜具の中に手を差し込み、吉継の腕に触れる。

 熱い。


 吉継が小さく嘆息を漏らした。

 少し呼吸が楽になったように見える。


“来てはならぬと言うたはずじゃぞ”


 イツキを咎める口調に迫力がない。

 本気で怒っているわけではなさそうだ。

 怒る気力もないのかもしれないが。


“必ず参ります、と申し上げたはずにございます”


 イツキが憎まれ口を叩くと、吉継は口の端を少し歪めた。

 イツキの頑固さに呆れたというところだろう。


“イツキとは声を出さなくても言葉を交わせるから楽じゃ”

“お体、辛うございますか?”

“少し油断したようだ。ここのところ熱が出ることはなかったのでな。此度は殿下配下の血気盛んな武将が大勢集まっておる。様々な調整に少々骨が折れた”


 珍しく、吉継が愚痴を吐いた。

 それだけ難しい仕事だったのだろう。

 北陸から回ってくる軍勢を含め、今回の小田原征伐には十五万を超える兵力が動員されている。

 その兵力を束ねる戦国を生き抜いてきた一騎当千の猛者たちはみな己の武名を誇り、さらに名を上げようと欲しているのだ。

 その猛者たちの言い分を聞きつつ総大将秀吉の下知に従わせ秩序だった進軍を行うのはいかばかりの苦労があったろう。

 思わぬ吉継の弱音に触れ、イツキは目頭が熱くなるのを止められない。


“大坂から駿河まで、この大軍の一糸乱れぬ動き、私、感動いたしました。さすがは殿の御差配にございます”

“イツキだけじゃ。誉めてくれるのは”


 吉継は頬を緩めた。“しかし、本当の戦いはこれから。此度の小田原攻めでは槍働きで名を上げたい”


“殿なら必ずや、成し遂げられます”

“イツキがそう言ってくれると、そうなるような気がしてくるから不思議じゃ”


 吉継の言葉に今度はイツキが嬉しくなる。


“今日は石田様がご助力くださいましたね”

“佐吉とは幼いころからともに切磋琢磨してきた。わしもあいつを何度も助けてきたが、あいつもいつもわしのことを気遣ってくれておる。無二の友じゃ”


 その言い方に深い信頼の度合いが見えて、イツキは少々妬けた。

 しかし、男にやきもちを焼いても仕方がない。


“ゆっくりお休みくださいませ。イツキはいつも傍におります”


 吉継は一つ頷くと、すぐに寝息を立てはじめた。




“イツキ!イツキ!”


 吉継の声にイツキは目を開いた。

 見上げる天井がぐるぐると回る。

 起き上がろうとしても体が言うことを聞かない。

 抱き起こしてくれている吉継の顔が二つにも三つにも見える。

 悪心が胸に迫る。


“イツキ。蛇に戻れ”


 吉継の言葉にイツキは理由を訊ねることなく神経を集中し変化した。


 すると体が持ち上げられ、温かいもので包まれた。

 吉継の懐の中にいるようだ。


「五助!五助はおるか!」

「はっ。こちらに」


 襖が開き、甲冑がきしむ音が聞こえる。


「五助。その方に折り入って頼みがある。近う寄れ」


 イツキの体が吉継の手で鷲掴みにされる。


「これは……」


 五助が声を潜め「イツキ様にございますか」と吉継に訊ねる。


「すまぬが、おぬしはこれから急ぎ敦賀へ向かえ。そして、また戻ってこい」


 敦賀へ帰される。

 イツキは全身を動かし拒否の姿勢を示した。

 しかし、蛇のままではうまく伝えられない。

 再度神経を集中させて人の姿に戻った。


「私は、平気に……」


 目が回る。

 座っていられない。

 イツキは床に伏せた。


「イツキ。お前の気持ちは受け取った。これ以上、無理はならぬ。敦賀へ戻れ。これは主命である」


 吉継が抗うことを許さない口調で命じる。「五助。頼む」


「承知」


 イツキは畳に伏せながら懸命に首を横に振ったが、最後は諦めた。

 主命と言われれば、もうそこにイツキの意志の入り込む余地はない。

 しかもこれまで感じたことのない体の変調に、これ以上吉継に付き従うのは迷惑を掛けることになるということが痛いほど理解できた。


「五助……。竹水筒は……あるか?」


 イツキは必死に問いかけた。


「ここに」

「私の腕に……刀で傷をつけ、……その血を……水に垂らせ。そして……殿に……献上せよ」


 イツキは目を開くことができず、息も絶え絶えにそれだけを命じた。

 意識が遠ざかる。

 やがて、腕に微かに痛みが走った。


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