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徳川

「つれないお言葉でした」


 吉継の裸の肩に額をつけ、イツキは愚痴を言った。

 心の底には、昼間の吉継の「長旅大義」とだけ残して、さっさと立ち去ってしまったすげない態度に対する寂しさが澱となって癒されず残っている。


「ああ。すまなかった。城を持ち家臣をたくさん抱えると色々と厄介でな」


 吉継のため息まじりの弁解にイツキの心の冷えはたちまち霧散した。

 自分の寂しさなど何でもない。

 吉継はその両肩に敦賀領内の何千もの民の命を背負っているのだ。

 その重さたるやいかばかりか。


“申し訳ございません。自分勝手なことを申しました”

“いや、良いのだ。イツキは島のままのイツキであってほしい。城の中に息をつく場所が初めてできたのだ。ここにいるときだけは余のことを考えず、イツキとアゲハのことだけを考えて過ごしたい”


 そう言う吉継の顔からは闇の帳の中でもまだ苦渋の色は消えていないのが分かる。


“何か胸に抱えておられるのですね”

“イツキには隠せんな”


 吉継は苦笑した。


“それが定めでございますれば”


 イツキは少しでも吉継の心の負担が軽くなれば、という思いで努めて明るく軽く言った。


“実は、ある人のことを考えておったのじゃ”

“どなたにございます?”


 ある人と聞いて、イツキの声は途端に棘を帯びた。

 まさか、女ではあるまいか。


“徳川様だ”

“徳川様?”

“三河、遠江の徳川様は今は豊臣家に臣従されたが、かつては小牧長久手において関白殿下を向こうに回して五分の戦いをされた強大な力の持ち主じゃ”

“その徳川様が何か”

“それだけの力をお持ちでも苦労をなされておる”


 吉継は徳川家康がかつて同盟者である織田信長に命じられて正室と嫡男を死に追いやったことを語った。


 イツキは織田信長と聞いて肌が粟立つのを感じた。

 忘れたくても忘れられない仇。

 亡き父の御首級に漆を塗り、宴席でそれを盃代わりに酒を飲んだ男。

 心が怒りで沸き立つのと同時に信長に苦しめられた人が浅井家以外にもたくさんいることに思い至った。


“此度、また戦になる”


 またか。

 ついこないだ九州に遠征に行ったばかりではないか。

 今度はどこへ行くというのか。


“どちらで?”

“小田原だ”

“小田原……”


 また耳慣れない地名だ。

 確か、東の方であったか。


“関東の小田原には北条家の天下無双の強固な城がある。厳しい戦になるだろう。そして北条家に徳川様は娘を嫁がせている”

“徳川様はどうなされるのです?”

“殿下にも一目置かれた力をお持ちの徳川様が同盟者の北条家と力を合わせれば天下の軍を敵に回して戦うこともできぬことはないだろう。しかし、先日お会いした時は、殿下に従い、小田原攻めに参陣することをお約束された。その徳川様に殿下は先鋒を命じなされる。徳川様を試しておられるのだ。つまり徳川様は今度は殿下に愛娘を捨てよと迫られておられる”


 正室、嫡男ときて今度は娘までも他人の手によって奪われようとしている。

 戦乱の世に生きる武将にとっては仕方のないことなのかもしれないが、自分のことに置き換えると身が切られるような辛さを覚える。

 吉継はそう言ってイツキの髪を撫でた。


“殿。私は殿のためなら命も惜しくはありませぬ”

“そなたたちを死なせるようなことはせぬ。そのためにも早くこの戦乱の世を終わらせねばならぬ”


 イツキは寄り添う吉継の胸の温もりに吉継自身の優しさを感じた気がした。

 吉継はイツキとアゲハを大事してくれる。

 そのことに不安はなかった。

 ただ、別のところに不安がある。

 イツキにとっては顔も名も知らない徳川家の禍よりも吉継の体が心配だった。


“小田原は九州よりも遠いのでしょうか?”

“九州ほどではない。心配せずとも良い”

“心配にございます。敦賀に来て体調はいかがですか?”

“案ずることはない”

“熱は出ませぬか?”

“大丈夫だ”


 吉継の言葉はどうも口先だけで、イツキに心配をさせないための嘘に聞こえる。


“小田原へは私も参ります”


「何を言う!」


 吉継はガバッと身を起こしてイツキを見下ろした。


 イツキも吉継の傍らに体を起こして座り直した。


「私は神畜。殿のお傍を離れませぬ。どことなりともついてまいります」

「おなごを戦場に連れていくことなどできるはずがないではないか」

「連れていっていただかなくても結構です。私は鷹となって自分で飛んでまいりますれば」

「そんな勝手は許さん」


 握り締めた拳を震わせる吉継の怒りは本物のようだった。

 今、吉継はイツキとアゲハのために早く戦乱を終わらせると口にしたばかりであるのに、そのイツキが危険な戦場に出ると言う。

 怒るのも無理はない。


 しかし、イツキもひく気はなかった。

 吉継の前に手をつき口を開いた。


「何卒お許しくださいませ。私はただのおなごではございません。私が傍におれば殿のお体にも障りが出ませぬし、獣に変化して敵の様子を探ることも戦うこともできまする。かつて私の母や姉も戦働きをいたしました。これも神畜の役目にございます」


 閨に沈黙が訪れた。

 吉継はイツキが本気だということを悟ったようだ。

 しかし、吉継は「ならぬものはならぬ」と答え、不意に夜具に体を横たえるとイツキに背を向けた。


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