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小石

 大谷家の使いとして五助が竹生島を訪れたのは一月後だった。

 五助が何人も部下、人足を連れてきたので、その仰々しさにイツキは違う国、違う生活へ旅立つことの寂しさが急速に胸に迫った。


 いよいよ島を去る。

 天海、タキ、重蔵、なみにそれぞれ別れの挨拶をして船に向かう道すがら、イツキは泣けて、泣けて、仕方なかった。


「母上。このめでたき日に涙はいけません」


 アゲハに大人びた口調でたしなめられてもイツキの目が乾くことはなかった。


 アゲハがぐずって島から出たくないと駄々をこねたらどうしようかと不安だったのだが、そちらの方はまさに杞憂だったようだ。


 船の手前で振り返ると、天海、タキ、重蔵が大きく手を振っているのが見えた。

 それでまたイツキの目には新たな涙が込み上げてくる。


「イツキ様は泣き虫でいけませんねぇ」


 そう言って笑うなみも目尻に涙をためている。


 船に乗り込むと、ますます胸が押しつぶされるような苦しさが増した。

 崖の上の墓が見える。

 父母とも別れるときが来た。

 昨日、墓前で散々泣いて別れを告げたのに、波間にゆらゆら漂う船上から見ると寂しさが募ってさらに心細さが襲ってくる。


「お体に気を付けて」


 最後まで見送ってくれたなみの涙声の別れの言葉に「大丈夫よ。なみこそ歳なんだから体を労わるのよ」とアゲハは武士の娘らしく気丈に振る舞った。


 張られた帆に風を受けて北へ向かう船が動き出した。

 一日一日寒さが厳しくなるこの季節だが、今日は遠くまで晴れ渡っていて、波も穏やかだ。


「お達者で!」


 なみの叫ぶような声が響く。


 イツキとアゲハは懸命に手を振った。

 なみに、寺に、墓に、そして島に、ちぎれそうになるぐらいに大きく強く振った。


 やがてなみの姿も見えなくなると、アゲハがイツキの胸に飛び込んできた。


「母上。アゲハは頑張りました。頑張りましたぁ」


 腕の中で泣きじゃくるアゲハに、イツキはほっとしたような気持ちになる。

 アゲハも別れを寂しいと思い、辛いのを必死に我慢していたのだ。

 それなのに私は大人でありながら気持ちのままに人目も憚らず涙を流して。

 イツキは自分を情けなく思うと同時にアゲハを愛しく思った。


「頑張りましたね。偉かったですよ。お父上もきっとほめてくださいます」


 イツキはアゲハの体を強く抱いた。

 大谷家の領地とは言え、敦賀は見知らぬ土地。

 イツキにとって血を分けたアゲハほど心の支えとなる者は他にはいない。

 二人手を携えて暮らしていく。

 その気持ちがアゲハへの愛しさをさらに募らせる。


「なんだぁ?」


 人足の誰かが素っ頓狂な声を上げる。

 

 蛇か。いや、でかい鯰だ。


 鯰と聞こえてイツキはアゲハの手を引き船べりに近づいた。

 恐る恐る下を覗き見ると、大きな細長い影が湖面に映っている。


 主だ。


 琵琶湖の主が船に並ぶようにして泳いでいる。

 ゆらりゆらりと体をくねらせて泳ぐのは、イツキとアゲハに別れの挨拶をしているようにも、吉継の妻子として正式に居城に迎えられたことを祝ってくれているようにも見えた。


「ありがとう」


 イツキが主に向かって声を掛けると、主は一度大きく弧を描き、そのまま静かに湖底に消えていった。


「イツキ様。アゲハ様」


 振り返ると五助が膝をつき四角四面の表情でこちらを見ている。


「何?かしこまって」

「御二人を敦賀にお迎えすること、この湯浅五助、この上ない喜びにございます」


 五助の言葉は慇懃だが、抑揚のない声は他人行儀に感じた。

 イツキの胸にざわざわとした落ち着きのなさが湧いた。


「いったいどうしたの、五助?」


 イツキは笑って雰囲気を軽くしようとするが、五助の表情に変化はない。


「イツキ様。この度は晴れて殿の御側室として城に入られます」

「はい」

「敦賀に到着しましたら、まず殿へご挨拶なさいませ。そしてその後は、小石の方様にご挨拶していただきますようお願いいたします」

「小石の方?」

「殿の御正室にございます」


 正室。

 その言葉がイツキの胸を強く圧した。

 正室と側室。

 身分としては当然、正室が上だ。

 しかし、吉継からの寵愛をどちらがどれだけ受けるかは身分の差と関係はない。

 いきおい小石の方と張り合う気持ちがむくむくとイツキの胸に兆してくる。


「小石の方様とはどのようなお方じゃ?」

 イツキは挑むように五助に問いかけた。

「小石の方様は越後の上杉景勝様のご家臣、須田満親様の御息女です」

「上杉?」

「はい。元々、上杉家と言えば先代謙信公のころから越後の竜と天下に武名が轟いております。現在の御当主景勝様は争うことなく関白殿下にご臣従されました。その際、上杉家と豊臣家の結びつきを強くするために須田様の御息女を殿が娶られたのです」

「なるほど。そういうことか」

「小石の方様は本来は岩姫様というお名前です。しかしながら、小柄で華奢でもいらっしゃいますので、岩という名前はしっくりこない、小石ぐらいだろうと殿が仰ったことから小石の方様と呼ばれていらっしゃいます。しかし、岩でも石でも硬いことでは同じ。越後の凍てつく寒さに鍛えられた芯の強い奥方様にございます」


 大谷家を、吉継を大切に思う気持ちは正室でも側室でも同じはず。

 小石の方の人となりはまだよく分からないが、イツキとしては吉継を困らせることはしたくはない。

 城内に波風が立っては今後の領内の仕置きにも影響するかもしれない。

 まずは隠忍自重して様子を見よう。


「分かった。挨拶に参ろう」

「よろしくお願いいたします」


 頭を下げた五助は顔を上げても渋面のままだった。

 まだ胸の中に何か重いものを抱えているようだ。


「まだ何かあるのか?」


 イツキが質すと、五助は言いにくそうに口を開いた。


「アゲハ様のことにございます」

「私?」


 イツキの腕にしがみついていたアゲハが名前を呼ばれて驚いた顔で五助を見る。


「アゲハがどうしたというのか」

「その……。お名前を」

「名前?」

「敦賀ではお名前を変えていただきたく……」

「なぜ変える必要がある」


 イツキは訝しんだ。


「いえ、その、実は、御家紋との兼ね合いがございまして」

「御家紋?」

「はい。大谷家の御家紋は違い鷹の羽から対い蝶となりました。殿は夢で揚羽蝶が舞ったから対い蝶にしたと仰っておられますが、そこへアゲハ様がお越しになりますと……」


 大谷家の家紋の由来が吉継の娘の名前からきているという推測ができてしまうことが問題だということか。

 確かに、そう聞けば正室は面白くないだろう。

 他の家臣も、自分たちの主君が愛娘のために家紋を変えたと知ったら雄々しくないと落胆するかもしれない。


「では、どうせよと?」

「竹姫様というのはいかがでしょうか。竹生島でお生まれの姫君様ですので。殿のお考えです」


 吉継がそうせよと言うのならイツキは反対はできない。

 しかし……。


「どうじゃ?竹姫と呼ばれるのは?」

「嫌っ!」


 アゲハは頬を膨らませて、そっぽを向いた。



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