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決別

 小谷城は窮地にあった。

 見晴るかす城の周囲は十重二十重と敵兵に囲まれている。

 人、人、人。

 その数は五万、いや十万にも及ぶかもしれない。


 それに対し、味方は五千。

 しかも、頼みの綱の友軍朝倉家は越前一条谷で織田方に敗北。

 浅井家は夥しい兵を敵に回して孤立無援となった。

 もはや誰の眼にも勝負の行方は明らかだった。

 そして、案の定、離反者が相次ぎ、支城は奪われ、かつては難攻と言われた小谷の城は今や裸同然となっている。


 地響きのような喊声が響き渡り腹を揺する。

 眼下に蟻の群れのような敵の軍団が小谷の山を縦横に駆け巡っている。

 山の尾根伝いに細長い城郭は南の金吾丸と北の山王丸が敵の猛攻に晒され、さらに西の側面も敵勢に取り付かれている。

 三方から攻められ、守備兵は浮足立ち逃げ惑う。


 敵の先陣は沢潟紋。あれが先日島にも兵を送ってきた木下の軍勢か。


“来る。敵が来る”

“はい”

“もうおしまいじゃの。これまでじゃ”


 小谷城の小丸にあって久右衛門をはじめとした側近と共に城外を見つめていた久政は青ざめた表情で悲壮感の漂う視線をサヨリだけに向けてきた。

 一軍の将として部下の前で弱音は吐けない。

 しかし、抗いようのない大軍が押し寄せてくる様に恐怖が募ってこないはずがない。

 そうでなければ狂っているのだ。

 それはもう人ではないし、生きてもいない。

 久政が恐怖を感じているのは、まだ人としての心が残っている証左だ。


“殿”


 何か言葉を掛けたいと思ったが、サヨリには久政の視線を受け止めることしかできなかった。


 久政はサヨリに一つ頷いて見せると軍議の床几に戻り、「久右衛門、近う」と今日まで陰日向なく浅井家のために尽くしてきた腹心を呼び寄せた。

 久政の唇は紫に変色し、その眼は何かを決心したように大きく見開かれている。


 久右衛門が近づき片膝をつくと久政は軍配で口元を隠し、一言二言久右衛門に告げた。


「な、何を、仰せか!」


 久右衛門が怒りにも見える表情で立ち上がり、臣下の身で非礼であることもわきまえず、目を剥いて主を見下ろした。

 幾多の戦陣で鍛えられた身体がわなわなと震えている。


 久政は久右衛門の視線を真っ直ぐに受け止め、唇を「頼む」と動かした。


 サヨリはその様子に涙が止まらなかった。


 大勢は決した。

 これ以上戦うは無益。

 わしは腹を切る。

 生き残っている家臣のため、わしの首を土産に降伏せよ。

 さすれば命だけは助かるやもしれぬ。


 久政が久右衛門に告げた言葉がサヨリの胸に重く響いた。

 

 異様な雰囲気を察して、狭間から城外を見ていた近習たちが久政と久右衛門に眼差しを寄せた。


「わしは将としての才がなかった。倅の長政とて同じ。不甲斐ないわしらの家臣だったがために、そなたたちには苦労ばかりかけてしまった。もうここらで良い。城を出よ」


 大殿!


 近習たちが久右衛門の背後に迫り久政に呼びかけた。

 久右衛門が皆の心中を代弁するように口を開いた。


「大殿。我らは死ぬまで浅井家の家臣。御家には今日までの恩義がございまする。主の首を持って命乞いをするような不忠の輩はここにはおりませぬ。そのような真似できかねまする」


 久右衛門は哭いた。

 惟安をはじめ他の家臣も涙に頬を濡らさぬ者はいなかった。

 それを目の当たりにした久政も堪え切れないように涙を溢れさせた。


「者ども!」


 久右衛門は手の甲で涙を拭い、背後の武将たちを振り返った。「守りを固めよ。今一度浅井の意地を見せてやろうぞ」


 久右衛門の号令に、おう、と応え、近習たちは頬を拭うことも忘れて階下へ去っていった。

 久右衛門も「御免」と一言発して出て行く。

 軍議の場には久政とサヨリだけが残された。


“これで良いのか。救える命があったのではないか”


 もはや矢玉はあらかた撃ち尽くした。

 あったとしてもそれを撃つ兵が足りない。

 去っていった武将たちは各々自分に相応しい死に場所を探しに行ったのだ。

 

 サヨリは久政の前に進み出た。

 先ほどの久右衛門と同じように久政の足下に片膝をつく。


“殿。凛々しゅうございます”

“サヨリ……。思えばそちにも悪いことをした”

“何を仰せられます”

“いや。わしが竹生島に居を構えなければ、そちに会うこともなかった。そちに会うことがなければ、そちがここに来ることもなかった。……許せ”


 サヨリは久政の言葉に瞳を潤ませ、ただ首を横に振った。


“殿にお会いしてから今まで、長いようで短く感じられました”


 サヨリの脳裏に久政と過ごした日々が蘇る。


 永禄三年。

 久政は家臣に半ば追い立てられるように小谷城を去り竹生島に逃れたのだった。

 当時、戦国乱世にあって久政は南近江を治め活発に勢力を拡大する六角氏に臣従し、浅井家の存続を図った。

 しかし、それを軟弱、弱腰と見る主戦派の家臣たちが久政の嫡男長政を担ぎ上げ、久政の命に逆らって六角氏と一戦を交え、しかもその戦いに勝利した。

 その結果、家中に主戦・拡張論が台頭し、当主の久政でも抑えられなくなってしまったのだ。


 久政の身の安全と内紛を未然に防ぐための方策として長政の勧めにより久政は隠居し、竹生島に籠ることとなった。

 そして島に暮らしていたサヨリと結ばれることになったのだ。

 二人はタキとイツキの二女をもうけた。


“わしもだ。サヨリと居ると不思議と心が安らぐ。今も、手足が震えるほど恐ろしいが、そちと心の中で通じておると不思議と静かな気持ちになれる”


 その時、一際敵の喊声が大きくなった。

 階段を久右衛門の重量感のある足音が近づいてくる。


「申し上げます」

「どうした?」

「京極丸が落ちた模様」


 久右衛門は冷静な声でそれだけを残し、再び去っていった。


 京極丸が敵の手に落ちた。

 残すは当主長政のいる本丸とこの小丸。

 いよいよ落城の時が迫っている。


“殿。私は神畜の一族。その昔、畜は神にお仕えしておりましたが、務めを与えられ、島に住まうこととなったと聞いております。その務めとは神がお選びになった御仁をお守りすること。神畜は代々現世において定められた縁に従い、その御仁と会い、結ばれ、生涯お仕えしてまいりました”

“サヨリ。それはわしが神に選ばれし者ということか?”

“はい。殿と私はもともと結ばれる縁だったのです。殿が島にいらっしゃったのは宿命にござりまする。その証拠に殿と私は今のように声を発しなくても心で通じ合うことができます。殿以外の方とはこのようなことはできませぬ。神畜が心を通じ合えるのは生涯でたった一人だけ。私にとってそれが殿なのです”

“わしとそなたとの間にそのような深い縁があったのか”

“殿は神に選ばれしお方。私は殿を神の御前にお連れいたしまする”

“神の御前?わしはそこで何をするのじゃ?”

“分かりませぬ。これは私ども一族の代々の言い伝えにござりますれば、事の真偽もはっきりとはいたしませぬ。が、私は信じております。殿も信じてくださいませ”

“サヨリ……”

“殿。死ぬことは怖くありませぬ。私も後ほど参ります。あの世も大勢の人と獣がおると聞きまする。この姿を必ず、必ずお見つけくださいませ”


 サヨリは自らの姿を本来の姿である狼に変化させ、その鼻を久政の手甲に押し付けた。


“サヨリ。そちまで死ぬことはない。島に戻り二人の娘を育てて生きよ”

“殿。殿と私は一心同体。殿がお亡くなりになれば、私も生きてはおられません”


 小丸のある曲輪の虎口に丸太が打ち付けられている音がする。

 虎口が破られれば、ここにもあっという間に敵兵が押し寄せてくる。

 既に周囲の土塀を乗り越えて、敵方の兵士がこの小丸にも取り付いているかもしれない。


 銃声。

 刃と刃がぶつかり合う音。

 断末魔。

 戦いの音が近くから聞こえてくる。


「御免」


 甲冑を返り血に染めた惟安が久右衛門の右腕を肩に回し支えるようにしながら入ってきた。

 久右衛門の額から血が流れている。

 右足を引きずり、槍を杖にしている。

 惟安の肩から離れ、床に崩れ落ちた久右衛門が頭を垂れ悔しそうに口を開く。


「大殿。敵が迫っております。ここにもおっつけ織田方の兵がなだれ込んできましょう。最早、最早……」


 久右衛門はその先がどうしても言えないようだった。

 主君に敗北を伝え、自害を促す。

 家臣として、これほどの無念はあるまい。


「久右衛門、惟安。二人ともよくぞこれまで戦ってくれた。礼を言う。わしの最後の下知じゃ。惟安は今しばらく時を稼いでくれ。久右衛門は介錯をせよ」


 惟安は「承知」と言って一礼をし、名残惜しそうに主君と視線を絡めると、サッと踵を返した。


「惟安殿!」


 久右衛門が惟安を叫ぶように呼び止める。「これを使ってくれ」


 久右衛門は愛用の槍を惟安に向けて突き出した。


 惟安は目を潤ませ無言で受け取ると、槍を小脇に挟んで階下へ降りていった。


 そして束の間の静寂が訪れた。


「サヨリ。みっともない姿はお前には見せとうない。許せ!」


 久政は一度深く頭を垂れると、サヨリの目を見ることなく立ち上がり決別の背を向けた。


“殿!”


 サヨリは久政の背に向かって大きく吠えた。

 狼の姿で力の限り悲しみの声をあげた。

 最愛の人を死地から救えない自らの力の足りなさに怒りが湧き起ってくる。


 私はここへ何をしに来たのか。

 久政を死なせたくはないという思いだけで娘たちを島に置いて小谷までついてきたというのに、今久政のためにしてやれることは静かに死なせてやることだけだった。

 神の使いとは言え神ではない私には所詮この小谷の決定的な状況に抗うことなど何もできはしないのだ。


 サヨリは涙を流しながら久右衛門の脇を通り階下へ駆け降りた。


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