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敦賀

 湖を渡って吹きつける北風が冷気を孕んでいる。

 風にあおられ木々がざわざわと音を立てる。

 森の中は陽が当たらず、地面に漂う冷えが足元に絡みついてくるようだ。

 間もなく雪の季節。

 そんな初冬の寒さの中でもアゲハは頬を朱く染め元気に走り回っている。


「もう十分ですね。そろそろ帰りましょうか」

「はい。母上」


 アゲハは枯れ枝をたくさん抱えてイツキの傍に駆け寄ってきた。

 六歳になったアゲハが拾う枝の数はイツキの半分ほどだが、それでも大いに役に立つ。

 ここのところ急にしっかりしてきて、母の手伝いが上手にできるようになってきた。


「おーい。イツキ様、アゲハ様」


 名を呼ばれて視線を向けると、森の入り口で重蔵が手を振っている。


「なーにー?」


 アゲハがあどけないが、はっきりとした声で返事する。


「大谷様がお越しになりましたよ。五助殿と御一緒です」

「父上が?」


 アゲハは目元に喜色を浮かべてイツキを見上げ、我慢できないという様子で駆け出した。


「慌てると、転びますよ」


 枝を抱えたまま走るアゲハの様子が危なっかしいが、イツキも心が急いていた。

 思わず小走りになって、拍子に枝が一本、二本と零れ落ちるが気にしていられない。

 前を行くアゲハは森の入り口で重蔵に半ば強引に枝を渡し、着物の裾を乱して寺へ向かって駆けて行く。

 イツキも重蔵の足下に「頼みます」と勝手に枝を置き、娘を追って寺へ向かった。


 本堂に向かうと天海とタキが吉継と挨拶を交わしていた。

 下座に五助が控えている。

 お転婆のアゲハは本堂に駆け込み、吉継の懐に飛び込んでいった。


「おう。アゲハ。大きゅうなったな。幾つになった?」


 アゲハは吉継の膝の上を占拠したまま大きな声で「六つにございます」と答えた。


「これ、アゲハ。なんと、はしたない」


 漸く本堂に上がったイツキは吉継に挨拶する前にアゲハを叱った。


「久しぶりの御対面。アゲハも嬉しくて仕方ないのでしょう。許してやりなさい」


 タキが口元に手を当て、笑いながらイツキを諭す。


 天海もうんうんと大きく頷いてタキに同調する。


「姉上。甘やかしてはアゲハのためになりません」

「イツキ。今日ぐらいは良いではないか。わしもアゲハを抱いていたい」


 吉継は相好を崩して愛おしそうにアゲハを抱きしめる。

 吉継は顔色が良く、痩せた様子もなくて体調に問題はなさそうだった。


 吉継が言うのなら仕方ない、とイツキは呆れ顔で腰を下ろし、少しかしこまって久しぶりの対面と吉継の健勝をよろこぶ言葉を述べた。


「今日は吉報を持って参ったのじゃ」


 吉継は嬉しそうに目を細めイツキを見た。


「吉報ですか。はて、どのようなことでございましょう」

「五助」


 吉継は発表を脇に控えていた五助に委ねた。


 五助は段取り通りといった落ち着いた表情で背筋を伸ばした。


「此度、殿は関白殿下から所領を受けられました。城持ち大名になられたのです」

「それは、それは。おめでとうございます」


 イツキの後に、天海とタキもお祝いの言葉を口にした。


 吉継は終始嬉しそうだった。


 しかし、イツキには気がかりがあって、どうしてもまだ心から喜ぶ気にはなれなかった。

 所領をもらったということは、その地で暮らすということだ。

 それはどこか。

 大坂より遠いのか。

 先ほど平定したという九州のどこかではないのか。

 不安が胸を圧し、「いずこに?」の言葉が喉から先へ出てこない。


「どうした、イツキ。浮かぬ顔じゃな」


 珍しく吉継がからかうようなことを口にする。


 イツキは恨めしく想い人を見つめた。


“殿。私をいじめて面白いのですか?”

“どこがいじめておるのじゃ?”

“いじめているではありませんか。私を不安がらせて”

“不安?どうして不安になるのだ?”

“殿が大事なことを教えてくださらないからです”

“大事なこと?”

“もう。大事なことは一つだけにございます。拝領された御城はいずこなのですか?”

“おう。そうじゃな。そうであった”


 吉継は一つ咳払いし、五助に目配せをした。


「殿は越前敦賀五万七千石の御城主となられました」

「敦賀……」


 イツキの心にサッと灯りが差し込んだようだった。

 重く胸にのしかかっていたものが霧散し、体が軽く感じる。

 漸く晴れ晴れと表情を輝かせてイツキは笑顔を見せた。


「敦賀なら、ここ北近江の隣国。しかも北国街道の要衝で、豊かな国。言うことはございませんな。要地を任された関白殿下の大谷殿への信頼の強さが分かるというもの」


 天海も手放しの喜びようだ。


「良かったわね、イツキ」


 天海の傍でタキが優しく微笑む。


 イツキは嬉しさが表情に出るのを抑えきれず、にんまりと笑って頷いた。


「敦賀五万七千石を治めるにあたっては、有能な家臣が必要じゃ。そこで、御住職」


 吉継は座ったまま体を天海に向けた。「こちらの五助を正式に召し抱えたいと思っております。お許しくだされますでしょうか」


 天海は顔を引き締めた。


「願ってもない仕官先。ご随意に」

「かたじけない」


 吉継はイツキにも「良いか?」と訊ねた。


「五助が殿のお傍にいるのなら私も心強く感じます」


 吉継は満足そうに頷くと胸を張って五助を見た。


「五助。近う」


 本堂に吉継の声が強く凛々しく響き渡った。


 辺りに厳粛な雰囲気が漂い、イツキは畏敬の念に駆られ思わず背筋を伸ばした。。


「ハッ」


 五助がきびきびと立ち上がり、吉継の眼前に腰を下ろす。


「受け取れ」


 吉継は自らの太刀を五助に与えた。


 五助は「ありがたき幸せ」と両手で受け取った。


「その方、今日から敦賀の名士、湯浅の姓を名乗れ。湯浅五助じゃ。忠勤に励め」

「ハッ」

「イツキ」

「はい」

「わしと五助は一足先に敦賀へ参る。おって知らせるゆえ、イツキはアゲハと敦賀へ参る準備をしておくように」

「はい」


 イツキは床に手をつき深々と頭を下げた。

 漸くこの日が。

 殿と暮らしを共にする日が来る。

 イツキは万感胸に迫る思いだった。


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