血脈
合掌を解いてもタキは墓前に佇んでいた。
静かに穏やかな眼差しを墓石に注いでいる。
まるで戯れる赤子を温かく見守っているようだ。
イツキはタキに伝えたいことがあった。
どうしても伝えたいことが。
しかし、今はタキの邪魔をするまい。
時間はたっぷりある。
今日は風が強く眼下に見える湖は波が高い。
タキの髪が吹き付ける風に乱れる。
しかし、それでもタキは墓の前から動かなかった。
墓の下には母のサヨリ、そしてタキの娘のサヨリが眠っている。
タキはどちらのサヨリに話しかけているのだろうか。
あるいは両方か。
「イツキ。私に何か用か?」
タキは墓に顔を向けたまま、イツキに声を掛けてきた。
「邪魔をしてしまいました」
申し訳ありません、とイツキは姉に謝った。
「構いません。特に何かしているわけではないのですから」
「毎日何をお話されているのですか?」
「……何も」
タキは寂しげに墓に背を向け湖を見下ろした。
「何も?」
「そう。何も。イツキは知らないの?死んだ者はもう何も語ってはくれないのですよ」
タキは少し微笑んでおどけたように軽口を叩いたが、すぐに視線を翳らせた。「ただ祈っているだけです。母上と娘の黄泉の国での幸せを」
「姉上」
「何?」
「あの時は申し訳ありませんでした。サヨリのためにもっと何かしてあげることができたはずなのに。私が煎じ薬の花をもっと早く持ち帰れば、もしかしたらサヨリは……」
「イツキ。サヨリが死んだのはサヨリに生きる力が備わっていなかったから。そして母の私にサヨリを生きさせてあげる力が備わっていなかったから。ただ、それだけ。サヨリのことを思ってくれる気持ちは嬉しいけれど、自分を責める必要はないのよ」
「姉上……」
「イツキには辛い思いばかりさせてしまったわね。母上、サヨリ、そして爺も。全てイツキに看取らせてしまった。ごめんね」
母の最期。
サヨリの死。
そして爺の往生際。
いつも自分は無力だった。
死の前にはいくら神畜であってもなす術がない。
神畜としての力を持っているのに、と思うとなおさら何もできない自分が口惜しかった。
そして、正直を言えば、母の時も、爺の時も何故私が一人で辛い思いを背負わなくてはいけないのかとタキを恨む気持ちがあったことを思い出す。
「姉上はどうして島に戻ってこようと思われたのですか?やはり我々はどこかへ行っても、結局はここに戻ってくることになるのですか?」
このことが訊きたかった。
気がふれたように周囲の言葉に全く耳を貸すことなく、タキはサヨリを抱えて島を飛び出て行った。
それが何故、今戻ってきたのか。
嫌味で言っているのではない。
イツキはいつかは島を出て吉継とともに暮らしたいと思っている。
しかし島がそれを許さないということがあるのではないか、という懸念がどうしてもあった。
畜と島はそれだけ切っても切れない関係にあるのではないか。
だからこそタキは戻ってきたのではないか。
「それは単純なことよ」
「単純?」
「そう。すごく簡単なこと」
タキはその場にしゃがみ込み、小石を拾って湖に投げ込んだ。「イツキは今でも秀吉を恨んでる?父上と母上の仇を討って二人の無念を晴らしたいと思ってる?大人になった今のイツキなら秀吉を弑することはできなくはないわ」
「二人の無念……」
正直言って今のイツキにその気持ちはなかった。
秀吉は吉継の主君。
定めの人である吉継のことを一番に考えるイツキとしては吉継が悲しむことはしたくない。
父も母ももちろん大事ではあるが、吉継のことを思うと霞んでしまうのも事実だ。
「どう?」
「今は、殺したいとまでは」
「それはどうして?」
「私の定めの人は吉継様です。秀吉の家臣である吉継様のことを考えると、そんなことはできかねます」
「そうよ。神畜の務めは定めの人を支えること。極端なことを言えば、それ以外のことはどうでも良いことなのよ。たとえ親が殺されたとしても。だから」
「だから?」
「だから、私は島に帰ってきた。天海様のお傍に仕えることが私の使命。子を失おうが、それが私の使命」
タキの横顔にはもう二度と天海の傍を離れないという悲愴な決意が滲んでいた。「だからこそ、私は毎日ここでサヨリの幸せを祈るの。天海様の傍にいながら私にサヨリのためにできることはそれだけだと思うから」
タキは再び墓石に向き直り、子を慈しむようにその石の肌を撫でた。
「姉上」
イツキは全身を緊張に強張らせつつも、勇気を振り絞って口を開いた。「私がアゲハとこの島を出たいと言えばどうなさいますか」
「イツキ」
タキはイツキの言葉に驚いた様子はなかった。
かつても見せた母サヨリに似た慈愛の表情を浮かべていた。「行きなさい。定めの人の傍にいるのが神畜の使命」
「姉上……」
タキの優しい声の響きに口を開けば涙が溢れそうになる。
イツキは下唇を噛んで感情の揺れをやり過ごした。「ありがとうございます。我が殿、吉継様は病の身。そして実はその病の原因は私なのです」
イツキはタキにかつて母のサヨリのために薬草を取りに出かけ、吉継の指に毒牙で傷をつけてしまった経緯を話した。
話しているうちに定めの人の体に毒を与えてしまった自分の身を呪いたくなる気持ちが兆して、どうしても泣けてきてしまう。
一度零れると涙はとめどなく流れた。
命を賭しても吉継の健康を取り戻したい。
体を震わせながら語るイツキをタキは優しく抱きしめた。
「その件も二人の縁が為したこと。イツキが悪いのではありません。もちろん大谷様が悪いわけでもない。二人は神がお決めになった定めとはまた別の深いつながりを持っているということなのでしょう」
「そうなのでしょうか。そうであれば、少しは救われる思いもします」
イツキはまだ幼かった頃のように姉の胸の中で嗚咽を漏らして泣いた。
タキはまるで愛児を宥めるように柔らかく頭を撫でた。
「ところでイツキ。大谷様は我らの父上が誰なのかを御存知なの?」
「いえ。父上のことは話しておりません。物心ついた時には死んでしまっていたとだけお伝えしております」
「そうね。秀吉によって浅井家は滅んだ。我らが浅井の血筋と知れば、秀吉を主君と仰ぐ大谷様に無為に気を遣わせてしまうかもしれない」
「はい」
「でもね、イツキ。我らは神畜であるとともに北近江を治め天下に名を轟かせた浅井家の血を引く者。立派な最期を遂げられた父上や母上のために、その誇りはいつも胸に刻んでいてほしいの。それはアゲハも同じ」
「はい」
「そして、浅井の血は他にも引き継がれているわ」
「え?」
「父上の跡を継いだ長政様、つまり我らの兄上には三人の娘がいて、小谷城が落ちた時も生きながらえたそうよ」
「我らの姪ということですか」
「そうね。いつか、その三人にも会ってみたいわね」
「ええ」
今の今まで肉親はタキとアゲハだけと思っていたが、浅井の血を分けた親族がいることが驚きだった。
会ったこともない姪だが、この戦国の世を強かに生き抜いているのかと思うと、イツキは心強く感じた。