帰郷
戸を叩く音だ。
イツキはハッと顔を上げた。
涙に視界が滲んでいて、慌てて着物の袖で拭う。
参詣客だろうか。城からの使いだろうか。
イツキは胸に抱いていた陣羽織を素早く折りたたみ、立ち上がってアゲハの手を引いた。
イツキとアゲハの存在は島の外部の者に対しては基本的に隠している。
小谷城合戦以後、秀吉を敵視し、あわよくば命を狙おうとしていたため、特に城の者に対してはイツキは徹底的に姿を消していた。
仮に姿を見られたとしても寺の下働きをする下女を演じていた。
しかし、今は天海よりも上座に位置している。
すすっと天海の下座に回り、いつでも奥に消えられるように身構える。
なみが土間に下りて、戸の傍に立ち「どなた様で?」と外へ声を掛ける。
その背後に重蔵もついている。
足を肩幅に開き軽く腰を落として身構える重蔵の顔には、いつもの好々爺然とした柔らかさはない。
「私じゃ。タキじゃ」
タキ?
今、確かにそう聞こえた。
声もタキの声だったように思う。
イツキは反射的に天海を見た。
天海は目を見開いて腰を浮かしている。
「タキ様?」
なみが上ずった声をあげ、戸を開いた。
サッと西日が庫裡の中に入り込んできた。
その茜色に染まった土間に細長く人影が浮かび上がっている。
囲炉裏から戸は見えない。
しかし、人がそこに立っているのは間違いない。
イツキは愛娘の手を握ったまま動けなかった。
天海も中腰のまま硬直している。
「なみか?」
微かにかすれているが低く落ち着いた声が聞こえた。
「タキ様……」
なみの声が潤んでいる。
イツキはアゲハの隣に膝をついた。
そして右手でアゲハの腰のあたりを抱き、その人の姿を待った。
胸が激しく高鳴った。
何だろう。
この心の揺れは。
喜びなのだろうか。
恐怖なのだろうか。
三年前。
タキが出て行った時のことが鮮明に脳裏に蘇る。
あのとき、タキは動かなくなったサヨリを胸に抱いて正気を失い、不信感に満ち満ちた澱んだ目でイツキを睨んだ。
そして制止を振りほどいて島を飛び去った。
そのタキが今、久しぶりにこの島に戻ってきた。
タキはどういう心持ちなのだろうか。
鼓動が体全身を揺する。
アゲハを抱く手に汗が滲む。
息が苦しくて口を開き喘ぐ。
イツキは明確に緊張していた。
引きずっているような足音が聞こえ、やがて女が土間に現れた。
「タキ!」
天海が土間に駆けおりる。「タキ!生きておったか」
「殿……」
タキは崩れ落ちるように土間にしゃがみ込み、天海の足下に手をついた。「今日までの身勝手な振る舞い、お許しくださいませ!」
「タキ……」
額を土間に押し付けるタキの横に膝をつき、天海はタキの背中に柔らかく手を置いた。
「よう帰ってきてくれたな」
「殿……お許しください。お許しください。お許しくだ、あぁ……」
タキはそのまま顔を起こすことなく大声をあげて泣き出した。
「許すも何もない。そち以外に妻はおらん」
天海の言葉にタキは顔を起こした。
涙で濡れた頬には土間の汚れがついている。
天海は優しくその汚れを払った。
二人は見つめあったまま、口を閉ざした。
心の中で通じ合っているのだ。
天海が首を横に振り、タキがさらに涙を溢れさせ、そして一つ頷いた。
やがて、タキは視線をずらしイツキとアゲハを見つめた。
「イツキ……」
痩せた。
タキはやつれていた。
すがるような、怯えるような目だ。
あの勝気なタキがこのような目を見せるとは。
イツキの目にも熱いものが込み上げてくる。
「姉上。お帰りなさいませ」
「イツキ。良いのか?」
「姉上。ここは我ら神畜の島です。姉上の島です」
「その子は?」
「我が定めの人、大谷吉継様との間にもうけた娘、アゲハにございます」
それまで黙ってやり取りを見ていたアゲハは急に母の手をほどき、土間に駆けおりるとタキの目の前に立った。
「もう泣かないで」
アゲハは胸元から手拭いを取り出し、少し驚いた表情のタキの頬を拭った。
タキはアゲハの言葉に頬を緩めたが、すぐに嗚咽を漏らし、「ありがとう。ありがとう」とアゲハを抱きしめた。