家紋
九州征伐に一段落がつき、半年ぶりに五助が島に帰ってきた。
囲炉裏の前にどっかりと胡坐をかき、両の拳を床に着いて無事帰参の報告を行う五助。
その疲れの中にも充実感を漂わせる顔はすでに一角の武将としての貫録が身に付いているようであった。
「五助殿。たくましくなられた。見違える武者振りじゃ」
感嘆の声でそう称えたのは天海だった。
かつては明智光秀の右腕として各地を転戦し、幾多の修羅場を潜り抜け、死の間際にまで落ちた経験を持つ天海にも五助の変貌ぶりは眩しく見えるようだった。
「首尾はどうであった?」
イツキの問いかけに浮かべた五助の控えめな笑みもどこか心内に秘めた自信をうかがわせる。
「万事滞りなく。九州は豊臣の名のもとに平定され、我らが殿の懸命の働きぶりに関白殿下だけではなく幕下の皆々様からも口々に賞賛のお言葉がございました」
「それはよかった。して、殿の御加減はいかがか?」
イツキの気がかりはそれだった。
それだけと言ってもよい。
極端な物言いをすれば任務に失敗しても、秀吉の軍勢が敗走しても、吉継が元気でいてさえくれればイツキはそれで良いと思っていた。
それは表だって口にすることは憚られるが。
「殿は九州遠征もこなされ、体調を崩されることもなく無事大坂へお戻りになられました」
「何?殿は九州にまで行かれたのか?」
イツキは兵站奉行の仕事は大坂周辺での差配だけと思っていた。九州遠征と聞いて心の臓が痛いほど縮む思いがする。
「はい。戦場には出られませんでしたが、奉行としてのお仕事がございますので」
「五助。もう一度訊くが、殿は、殿はお健やかであられるのだな?一度も病に伏せられることはなかったか?」
「はい」
五助はイツキの不安を取り除こうとするように笑顔を見せる。「殿の御顔には終始覇気が漂っておられました」
「そうか。ならばよい。ならばよい。祝着至極。それで、……殿はこちらにはお越しになられぬのか?」
訊いてはいけないとは思っても訊かずにはいられなかった。
吉継は秀吉の側近として政務に忙殺されている。
おいそれと大坂から離れた近江の琵琶湖に浮かぶ小さなこの島にやってくることはできないのは分かっているのだが。
「関白殿下は京に聚楽第という大層大きなお屋敷を御築きになられました。間もなく天子様を聚楽第にお招きになるという一大事業が控えており、殿は今度は奉行としてそちらの政務に奔走されておられます」
「何?天子様を?」
驚いて声を上げたのは天海だった。
イツキはそれがどれぐらいすごいことなのかは想像もつかなかったが、天海の驚きぶりに再び体に緊張が走る。
「天海様。天子様の行幸というのは大層なことなのですか?」
「イツキ様。これは、関白殿下が天下を掌中に収められたことを意味します。天子様の行幸は過去をさかのぼればおそらく百年も昔のこと。関白殿下はそれだけの力を手にされたということです」
「百年……」
過去百年なかった事業を執り行う。
それでは確かに吉継も島には来られまい。
ただでさえ正室を迎えて間もないのだ。
正室の手前、よその女に会いに行くわけには行かないだろう。
初夏だというのにイツキの心を寂しさの冷風が吹き抜けていく。
殿が遠くへ行ってしまわれる。
手の届かないどこか遠くへ。
私のことなど覚えていらっしゃらないかもしれない。
「イツキ様。イツキ様」
物思いに囚われていたイツキの耳に五助の声が届く。
何度か呼びかけられていたらしい。
「何じゃ?」
「殿からこれを預かってまいりました」
五助が差し出したのは白地の陣羽織だった。
「殿が九州遠征の折にお召しになっておられたものです」
イツキは少し震える手でその陣羽織を受け取った。
陣羽織の胸に、そして背中に浮かび上がっている紋が目に飛び込んできて,
みるみる涙が溢れてくる。
「母上。いかがされましたか?」
隣に行儀よく座っていたアゲハが心配そうに見上げてくる。
イツキは零れる涙をそのままにアゲハにその陣羽織を見せた。
「アゲハ。これを見よ。そなたのお父上様の陣羽織じゃ」
言ってもアゲハはきょとんとするだけだった。
アゲハには陣羽織が何なのかは分からないだろう。
「ここを見よ」
イツキは陣羽織に縫い付けられた紋を指差した。「ここにアゲハがおる。お父上様はアゲハを胸に、そして背にして戦っておられたのじゃ」
その陣羽織には揚羽蝶が向かい合って飛んでいる形の紋があった。
これは吉継が自分の娘であるアゲハを常に想っていることを示しているに違いない。
そしてこれをイツキに贈ってきたのは吉継がイツキのことを忘れてはいないことも表しているのだ。
「殿は家紋を違い鷹の羽から対い蝶に変えられました。大谷家は陣幕も旗指物も全てこの対い蝶。殿は夢に無数の蝶が飛んだのを見たからと御家中に仰っておられましたが、私にはこの御家紋の意味が分かります。この御家紋はイツキ様とアゲハ様のためのもの。殿は片時も御二方のことをお忘れになることはございません」
イツキは五助の言葉に陣羽織に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
そのイツキの背にアゲハの小さくて柔らかい手の感触が伝わってきた。
その時、庫裡の外で物音がした。