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婚儀

 浜まで来ると、アゲハは体を揺すってイツキの腕から逃れようとした。

 イツキが降ろしてやると、アゲハは二本の足でしっかりと砂の上に立ち、得意げに母の顔を見上げた。

 イツキがしゃがみこみ顔の高さをアゲハと同じにして微笑み返してやると、アゲハは満足そうに砂浜に腰を下ろした。


 西の空に傾いた陽が湖面を黄金色に染め上げる。

 アゲハは黙って波を見つめた。

 数か月前鷹に変化して掟の壁にぶつかり落水したあたりを目を凝らすようにして見ている。

 何が自分をこの島に留めたのか、その答えを探るような目だった。

 まだろくに言葉も喋ることができないのに思慮深そうな表情を見せるアゲハはきっと賢い子になるだろう。

 よくそう言うのは親のイツキではなく、天海や五助たちだった。


 初秋の風がアゲハの細く柔らかい髪を揺らす。

 アゲハはこの場所が好きなようだった。

 毎日のようにここに来て波を見つめている。

 放っておけば、いつまでもここから動こうとしない。

 寄せては返す波の不思議に目を奪われているのだろうか。

 それとも神畜の掟を身をもって知り、怖いもの見たさもあるのかもしれない。


 アゲハはあれ以来変化をしない。

 あの時は母恋しさが募りに募って、何かの拍子に変化する力が働いてしまったのだろう。

 まだ変化の力を自分のものにはできていないようだ。


 イツキは恐れていた。

 またアゲハを一人ぼっちにしたら、同じことになるかもしれない。

 そうなったときに、天海や五助たちにアゲハを止めることはできないだろう。

 そして島の外目がけて飛び立とうとするアゲハの前には必ず見えない島の掟が立ちはだかる。

 その先に何が起きるのか。


 前回はたまたま主が近くにいてくれたから助けてもらえた。

 しかし、主がいつもアゲハのことを見守っていてくれるとは限らない。

 イツキはあの日のことをよく思い出すのだが、主がいなかったらと思うと、いつも背筋が寒くなる。

 まだ幼いアゲハは湖の中では何もできないだろう。

 その先にあるものは何か。

 それを考えると、イツキはおいそれとはアゲハを残して平馬のもとへ飛び立つわけにはいかないのだった。


 南西の方角から湖面を何かが向かってくるのが見える。

 越前へ向かう廻船か。

 それとも大坂へ文を持たせた五助が帰ってきたのだろうか。

 五助の戻りとすれば少々早い。

 今回はイツキの文を届けるだけの大坂往きではなかった。

 少し逗留して平馬の傍で身の回りの雑務に携わりたいと五助は言っており、持たせた文にもその旨を書き添えた。

 平馬も五助のことを気に入っていて、仕官する気があるのならいつでも受け入れると言ってくれている。

 五助が島を出たのは五日ほど前。

 もしあの舟に五助が乗っているのなら、とんぼ返りということになるが。


 しかし、舟は島に向かってどんどん近づいてきて、果たして乗っているのは五助だった。

 そしてもう一人の人影が。


「殿!」


 どうしたことか。

 五助と同舟しているのは平馬だった。


 五助はイツキの姿を認め、会釈をする。

 平馬は舟に腰を下ろしたまま、ただイツキを見つめていた。

 どことなく重い空気を乗せて舟はやがて島に辿りついた。


 少し不安なのかアゲハがイツキの手にしがみついてくる。


「殿。いかがされましたか?」


 平馬と五助が島に上がるとイツキは声を掛けた。


 平馬の顔は前回会ったときよりも多少ふっくらとしていて、体調が戻ったことを示していた。

 しかし、表情は強張っていて素直に喜べない。

 五助は何故か目を合わそうとしない。


「イツキに話したいことがあってな」


 そう言って、平馬はイツキの足下にしゃがみこみ、「アゲハ、父じゃぞ」とアゲハの頬を指で突いた。


 アゲハは少し声を上げ笑顔でイツキの背後に隠れた。


「わざわざお越しいただかなくても五助に文を持たせていただければ十分でしたのに」

「いや、久しぶりに島の空気も味わいとうてな。五助に無理を言って連れてきてもらったのじゃ」

「左様にございますか。では、とにかく、寺へ」


 イツキは平馬を寺へ案内した。


 突然の平馬の来訪に天海が驚いた顔で出迎えた。


「これは大谷様。此度は遠路はるばる」

「御住職。突然、まかり越しました御無礼、平に御容赦を」

「いえいえ。イツキ様、アゲハ様のお顔を見に、いつでもお越しください。何もおもてなしはできませぬが、ごゆるりとなされませ」


 やがて夕餉の支度が整うと、平馬は「実は」と切り出した。


「此度、我が主君、羽柴秀吉様は関白に御就任遊ばされた。さらに、臣のうち十二名が大夫に叙任され、ありがたくも拙者もそのうちの一人にお選びいただき、従五位下刑部少輔に任じていただく栄誉に浴した。これに際し、名も平馬から吉継と改めた。今後ともこの吉継に深い御厚誼を賜りたい」


 平馬改め吉継が軽く頭を下げると、イツキ以下寺の人間は口々に祝辞を述べた。

 吉継は頬を緩めて答えた。

 しかし、イツキには吉継がどこか嬉しそうでないことが心に引っかかっていた。


 夕餉が終わり、アゲハを寝かしつけながら吉継の様子を覗き見る。

 家族だけになってもやはり、吉継の表情は硬いままだ。

 イツキの胃が緊張でシクシクと痛んだ。

 何かある。

 イツキは吉継から何を言われても良いようにと心の中で身構えた。


「イツキ」

「はい」


 イツキは座ったまま体を吉継に向けた。


「わしが、島に来たのはイツキに伝えねばならぬことがあったからじゃ」

「御出世と御改名以外にも、でございますね?」

「そうじゃ。それよりも大事なことじゃ」

「何でございましょう」


 任官と改名よりも大事なこと。

 そんなことがあるのだろうか。

 イツキは更なる緊張で胸が強く締め付けられ、気が遠くなりそうだった。


「わしは嫁を取る」


 吉継は「すまん」とイツキに詫びた。


 吉継が謝る必要はない、とイツキは思った。

 

 吉継は今や従五位下に任じられ天下に名を轟かす武将となった。

 その正室となる女子にはそれなりの身分家柄が必要となるし、跡取りとなる男児を産むことが強く求められる。

 そして、吉継の婚儀を差配するのは主君である秀吉だ。

 吉継の相手は秀吉にとって政略的に意味を成す人物でなければならない。

 つまり、正室が誰になるかは吉継本人でさえも決めることができないということだ。


 イツキは神畜。

 掟に縛られ、今も島から出ることすらできず、何の家格も後ろ盾もなく、そして男児を産むことはできない。

 吉継の正室になれないことは明白だった。


「殿。頭をお上げください。この度は祝着至極に存じます。ご婚儀のお話など、それこそ五助に文を持たせていただければ、それで……私は……私は……」


 平気だと思っていたのに、いつの間にか胸が苦しくなり、言葉に詰まり、気付けば出てくるのは涙だけとなっていた。

 吉継は嫁を取らなくてはならない。

 頭ではそれを理解しているのに、その相手が自分ではないことに寂しさ、口惜しさが募って仕方がない。

 畜でなければ男児が産めたのにと思う一方で、畜でなければ吉継と縁ができることもなかったとも思う。

 神畜である以上、この涙は避けては通れない。

 時が過ぎ、痛みが癒えるのを待つしかないとイツキは悟った。


「イツキ。わしが一番大事にしているのはお前だ。そのことは覚えていてほしい」


 このことを伝えに吉継はわざわざ大坂から来てくれたのだ。

 そのことにイツキは感謝し、涙にぬれた頬を光らせながらも何とか吉継に笑顔で応えた。


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