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慕情

“イツキ”


 心に平馬の声が響いてイツキはハッと目を開いた。

 座ったまま眠ってしまっていたようだった。

 目の前に平馬が半身を起こしてこちらを見ている。


 イツキは反射的に手をつき頭を下げた。


“申し訳ございません。眠ってしまいました”

“良いのだ。毎日毎日わしの看病でイツキも疲れておろう”


 平馬の看病は今日でまだ三日目だ。

 これぐらいで疲れたなどとは言えない。


“そのようなことは”

“ある。顔に疲れが出ておる。イツキまで倒れては元も子もない”


 イツキは顔を上げて首を横に振った。


“私は平気にございます。お気遣いなく”

“イツキ。……もう良い”


 平馬は優しい微笑みを浮かべてイツキの手を握った。


“何がでございますか?”

“イツキには聞こえないか?アゲハが泣いておる”


 そう言われて、イツキは訝しみながらも耳を澄ませた。

 しかし、赤子の泣き声などどこからも聞こえてこない。


“私には聞こえません”

“それではいかん。赤子は母に聞こえるように泣くのじゃ。母は赤子の泣き声が聞こえるところにおらねばならん”

“しかし、私には殿のお傍に……”

“わしは元気になった。もう大丈夫じゃ。イツキはアゲハの傍におってやってくれ”

“殿。それでは私の罪が……”

“イツキに罪などない。罪と言えば神の使いである白蛇に手を出したわしの罪”

“殿……”


 イツキは目に涙を浮かべ言葉を詰まらせた。

 平馬の言葉は優しくも冷たくも聞こえる。

 イツキはこのまま死ぬまで平馬の傍から離れないつもりでいるというのに、平馬はその覚悟を理解してくれてはいない。


“イツキ。そなたは明日島へ戻れ”

“嫌でございます。私は畜にございますれば……”

“イツキ。聞き分けてくれ。わしはアゲハが不憫でならん。小牧から大坂へ戻る途中、島に寄ったときに聞いたアゲハの泣き声が耳について離れんのじゃ。わしのためにも今はアゲハの世話をみてやってほしい”


 そこまで言われるとイツキは返す言葉が見つからなかった。

 アゲハのことを思うとイツキも胸が張り裂けそうになる。

 毎日何度も乳房が張ってきて、痛くて仕方がない。

 そんなときは自分の手で乳を絞り出すのだが、その度にアゲハのための乳なのにと切なくて涙がこぼれるのだった。


“アゲハが言葉を理解し、そなたに許しを与えた時にわしのところへ来てほしい。それまでは時折五助に文を持たせてくれれば良い”

“殿……”


 イツキは下唇を噛みしめて、平馬の寝所を走り出た。

 涙ながらに台所へ向かい、そこにあった白い茶碗を掴んで甕から水を注いだ。

 懐剣を取り出し小指に傷をつける。

 一滴、二滴と茶碗の水に赤い血が滲んだ。


 イツキは寝所に戻り平馬に茶碗を差し出した。


 平馬は黙って茶碗を受け取り、微かに赤く色づいた水を繁々と見つめ、何も言わず一気に飲み干した。

 すると、平馬の顔が内側から輝くような明るさを湛えた。


 その晩、イツキはわがままを言って平馬に同衾の許しを得た。

 時間を掛けてゆっくりと平馬と交わり、平静に戻った平馬の温もりを肌に感じ、平馬に寄り添って眠った。

 そして、翌朝、平馬が目を覚ます前に、白んできた東の空に向かって飛び立ち、大坂を後にした。


 島が見えてくるころにはすっかり夜が明けていた。

 島が近くになってくると、寺の方角から森を越えて小さな鷹が向かってくるのが見えた。

 その鷹はまだ飛びなれていないのか、右へ左へよたよた動き、急に高く上がったかと思うとすぐに失速した。

 そして、島から湖へ出るあたりで見えない壁にぶつかったように突然動きを止め、そのまま頭から落下した。


 まさか。


 あれはアゲハではないか。

 イツキは胸騒ぎに突き動かされ、その小さな鷹を目がけて懸命に羽を動かした。

 しかし、イツキの目の前で幼い鷹はあっという間に水面近くまで落ちていく。

 間に合わない、と思ったとき、湖の底から黒く長い大鯰の影が浮かび上がってきて、鷹をその背に受け止めた。


 主か。


 主はその巨体をゆらりゆらりと動かして、鷹を浜に押し上げると、イツキに挨拶するように水面で一度円を描いてから静かに水底へ消えていった。


 浜に寝そべっていた鷹はいつの間にか人の赤子になっていた。


「アゲハ!」


 島へ降り立ったイツキは人の姿に変化してアゲハを抱き上げた。


 アゲハは一瞬きょとんとした顔になったが、次の瞬間大きな声で泣き叫んだ。

 少し離れている間に声量が大きくなったようだった。


「アゲハ。ごめんね。母を許しておくれ」


 ぼろぼろ涙を流して泣きわめくアゲハの頬にイツキは頬をすり寄せて詫びた。

 全身に力を込めて泣くアゲハの姿にイツキは平馬の言葉が正しいことを悟った。

 アゲハは母を呼んでずっと泣き叫んでいたのだろう。

 余人では駄目なのだ。

 赤子には母が必要なのだ。


「イツキ様!」


 森の方から五助が走ってやってくる。

 その後ろに重蔵となみも続いている。


「五助!重蔵。なみ」

「ああ。アゲハ様も」


 三人はイツキを囲み、アゲハがその腕で泣いているのを見て安堵の表情を浮かべた。


「世話を掛けました。申し訳ありません」


 イツキが頭を下げると、三人は顔を見合わせ、どう答えたらよいものかというような困惑の表情を浮かべた。


 アゲハはすぐに泣き止み、イツキの腕の中で心地良さそうに寝息をたてはじめた。


「さすがは母上様。アゲハ様はよくお分かりなのですね」


 なみが感心したように言った。「イツキ様がお戻りになられて、ただただほっとしております。私どもが抱いてもあやしても、ずっと泣き続けておいでで」


 なみの言葉に五助と重蔵が苦笑いを浮かべた。

 三人の表情に少し疲れが滲んでいた。


「イツキ様。お戻りですか」


 離れたところから声を掛けてきたのは黒の僧衣をまとった天海だった。


「天海様」

「イツキ様。アゲハ様も間違いなく御神畜の血を引いておられますぞ。先ほど庭で空飛ぶ鷹を見上げたと思ったら、すぐに変化を。そしてまるでイツキ様を探し求めるように飛び立たれました」


 天海の言葉に五助たちも頷く。


 やはり、そういうことか。

 イツキが鷹に変化して飛べるようになったのは七歳のとき。

 それも母と姉に教えられてやっとだった。

 アゲハはまだ二歳。

 しかも誰かに言葉で教えてもらわなくても姿を変えたようだ。

 母恋しさに必死だったこともあるのだろうが、アゲハは畜としてイツキの力を超えているのかもしれない。

 生まれてきたときに人の姿をしていたことから、その体に流れる畜の血の弱さを心配したが、どうやら杞憂だったようだ。


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