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贖罪

 アゲハが産まれて一年が経った。


 アゲハは柔らかく煮たものなら食べられるようになっており、乳を欲しがることは減ってきていた。

 足腰も強くなり、つかまり立ちを始めた。

 歩けるようになるまで、もう間もないだろう。

 一日一日アゲハは成長している。


 それを思うとイツキの胸はキリキリと痛んだ。

 しかし、その痛みに夜が眠れないほどでも、イツキはやらなければならないことを心に秘めていた。

 アゲハを産む前から覚悟していたことだ。


 ろうそくの灯りにアゲハの寝顔が浮かぶ。

 無邪気であどけない表情を見下ろし、イツキは必死に嗚咽を堪える。

 ぼたぼたと大粒の涙が先ほどからイツキの手の甲を打ち、着物に染みを作っている。

 ギュッと握り締めた拳にはどんどん力が込められていく。

 爪が掌に食い込んでいる。

 血が出ているかもしれない。

 しかし、張り裂けそうな胸のこの痛みに比べれば何でもなかった。


 聞こえてくるのは湖の波の音だけになった。


 いつも一番遅くまで起きているのは五助だが、さすがにもう眠りについただろう。


 時は来た。


 それでもイツキはなかなか腰を上げることができなかった。

 震える指でアゲハの頬に触れる。

 柔らかい感触が指に伝わり、一層涙が込み上げてくる。


 全身で声を上げ生まれてきたことを伝えてくれたアゲハ。

 陽射しをたっぷり浴びた土のようなにおいのするアゲハ。

 意外な速さで這いずり回り囲炉裏に落ちたアゲハ。

 散る桜の花びらを追って笑顔で手を伸ばすアゲハ。

 生えてきたばかりの歯で血が滲むほど乳首を強く噛んだアゲハ。

 アゲハ。

 アゲハ。

 アゲハ。


「ごめんね」


 声にならない声で幼い我が子に謝る。


 イツキは目を閉じ立ち上がった。

 袖で瞼を押さえ涙を拭う。

 そして、そのまま障子を開き、廊下に出た。

 振り返ると、まだ小さい愛娘の寝姿がある。

 この一年、すくすくと大きくなったとは言え、まだ赤子。

 母が傍にいなければ、声が枯れるまで泣き叫ぶだろう。


「ごめん」


 イツキは再び溢れる涙をそのままに、後ろ手で障子を閉めた。


 戸外へ出たイツキの心はもう振り返ることはなかった。

 その目は南西の空を見据えていた。


 天海様、五助、重蔵、なみ。

 アゲハをよろしくお願いします。


 イツキは鷹に姿を変え、大坂目指して飛び上がった。

 闇夜を切り裂くように飛ぶイツキの目の涙はすぐに乾いた。


 大坂城の傍にある大谷家の屋敷に辿り着いたのは、夜明け前だった。


 暗がりの中、夜目を働かせ屋敷の屋根に立ちイツキはホッと羽を休めた。


“イツキ”


 心に響いた平馬の声にイツキは驚いた。


“殿”


 しかし、呼びかけても返事はなかった。

 イツキは蛇に姿を変え急き立てられる思いで、屋根裏に潜り込んだ。

 音を立てないよう梁の上を這い進む。


“殿!殿!”


 イツキは何度も心の中で呼びかけた。

 平馬の寝所は屋敷の奥にあることは想像がつくが、はっきりとは場所が分からない。


“イツキ”


 再び弱々しい声が胸に響いた。

 聞こえた方角ににじり寄り天井板の隙間から部屋の中を見下ろす。


 果たして、平馬がそこにいた。

 夜具に横たわっている。

 寝所には他に誰もいない。

 部屋の隅に置かれたろうそくの灯りだけでは顔色までは分からないが、薄く開いた口から漏れる息の音が荒い。


 イツキは柱を伝って床に降り、人の姿に戻って平馬の傍らに座った。

 そっと手を握ると驚くほど熱い。


“殿”


 平馬は高熱を発している。

 城普請の無理が祟ったのか。

 この体調では当分普請の指揮は執れないだろう。

 よく見ればやつれている。

 こんな高い熱が出ているうちは食も喉を通るまい。


“殿”


 何と労しい。

 そして、来てよかった、と思った。

 イツキはこのままこの屋敷で平馬のために身を尽くすつもりだった。


 平馬が小さく呻き、身を捩った。


“イツキか?”


 平馬は薄らと目を開き、焦点の合わない視線をイツキに向ける。

 首筋に玉のような汗が浮かんでいる。


“殿。イツキにございます”


 イツキは枕元に置いてあった手桶の水に手拭いを浸し、しっかりと絞ると平馬の首筋を拭った。


“そうか。来てくれたか”


 心なしか平馬の表情が緩んだように見えた。


“はい”

“夢を見ておった。イツキが鷹の姿で夜の闇を飛んでいる夢だった”

“夢ではございません。現にございます”

“ここのところの暑さにやられて伏せておったのだが、先ほどから少し体が楽になった。イツキのおかげじゃのぅ”

“私が参りましたゆえ、すぐに本復していただけます”


 平馬は安心したように目を閉じ、小さく頷いた。


 イツキは再び平馬の手を取り撫でた。

 愛しさが募って、その甲に頬ずりしたくなる。

 しかし、その腕を見てイツキは胸を衝かれた。


 平馬の腕には青白い斑紋が二つ浮かんでいた。

 指の爪程度の小さなその斑紋を見た瞬間、平馬の身体全体に浮腫、瘡、糜爛が現れ平馬の体を蝕む様子がイツキの脳裏に浮かんだのだ。

 悪寒がイツキの背中を駆け巡る。


“イツキ?”

“はい”


 イツキは平馬と心で言葉を交わすことができることに感謝した。

 今は動揺で声が上ずってしまいそうだった。


“アゲハはいかがした?”

“アゲハは健やかに育っております。近頃はつかまり立ちが……”

“そうではない。アゲハはいずこにおるのじゃ?”


 平馬は静かに目を閉じたままだった。

 しかし、心の声には微かに怒りが感じられる。


“島におります”


 正直に言うしかなかった。

 責められるのは覚悟の上だった。


“アゲハはまだ幼い。母親のそなたがおらねば生きられぬであろう”

“アゲハは島の者が育ててくれます。ですが、殿の傍で殿を支えられるのは私以外におりませぬ”

“アゲハは我が娘。愛娘を犠牲にせねば生きられぬ我が身とはいかに”


 平馬の声には己を責める響きがあった。


“殿。これは殿のせいではありませぬ。これが神畜の掟なのです。竹生島には神畜の血をひく者が必ず一人はおらねばなりませぬ。アゲハが産まれるまではその掟に縛られ、私は殿の御傍に参ることが叶いませんでした。しかし、定めの方に尽くすのも我らの務め。その務めを果たすため、私はアゲハを身ごもったのです”

“何と。全てはここに来るための算段だったのか”

“左様にございます”

“そなた。神畜である前に母であろう。母としてそれで良いのか。


 平馬は目を見開き、きつくイツキを見つめた。


 イツキは身を引き、額を畳にこすりつけた。


“殿のお言葉ではございますが、お叱りは覚悟の上にございます”

“イツキ。わしは大丈夫じゃ。赤子には母親が必要。そなたは島に戻れ”


 大丈夫なはずがない。

 イツキが寝所に現れるまでは平馬は熱に浮かされ譫言のようにイツキの名を呼んでいた。

 イツキが島に戻れば、すぐにまた高熱で意識が朦朧としてしまうだろう。


“殿。この姿に見覚えはございませぬか”


 イツキは平身低頭の姿勢のまま体を変化させ、平馬の眼前で白蛇になった。


“これは……”

“その昔、殿の指を噛んだのは私にございます。殿の御体を毒したのは私なのでございます。どうか私をお傍に置き、罪を償わせてくださいませ”


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