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毒牙

 イツキの出産を見届けることが最後の奉公と口にしていた通り、爺はアゲハの誕生後すぐに息を引き取った。


 そして木枯らしが吹く初冬。

 島を秀吉とその近習が訪れた。

 春から続いていた小牧・長久手方面での徳川軍との合戦を終え、大坂に帰陣する途中に立ち寄ったらしい。


 秀吉は北風に首をすぼめ、疲れた表情でいつになく口数少なく本堂に上がった。

 迎えたのが天海一人であることに訝しげだった。


「何!亡くなられた?」


 秀吉は天海から前住職が半年前に身罷ったことを聞き、疲労の浮かんだ顔を伏せ、がっくりと肩を落とした。


 天海は秀吉に一通の文を差し出した。

 爺が文箱に入れて遺したものだ。

 己の死期を悟り爺は四通の文を書き残していた。

 イツキ、天海、五助そして秀吉に宛てたものだった。


 イツキへの文には過ぎたことに固執せず、現在只今の神畜としての務めを果たすことだけに傾注せよということが書かれていた。

 秀吉やタキのことは気にせず平馬のために働けという意味だろうか。


 五助には、島に囚われることなく大願を果たせと書かれてあったらしい。


 秀吉は爺が自分に手紙を遺していることに驚き、神妙な面持ちで開いた。

 読み終えると丁寧に折りたたみ、懐に仕舞って天海に向き直った。


「新住職殿。これからも、秀吉、この竹生島とこの弁財天に深く帰依し、信奉してまいる所存。これからも御厚誼賜りたい」


 それから、秀吉は石田佐吉だけを残し人払いした。


 本堂から出てきた近習の中に平馬の姿もあった。

 イツキは早速、平馬に心の中で呼びかけ、例の森の中の小屋へいざなった。


「おお。これが……」


 平馬は小屋に入り、イツキが赤子を抱いているのを見て声を上ずらせた。


「アゲハにございます」


 イツキは娘を平馬に抱かせようとした。


 平馬はおっかなびっくりの様子でアゲハを腕に受け取った。


 アゲハは丸い目を大きく見開き、珍しそうに平馬の顔を見上げ、手を伸ばして顎のあたりを触ろうとする。


「手が小さいなぁ。愛らしい姫じゃ」


 平馬がアゲハの手に頬をすり寄せると、髭の感触が面白かったのか、アゲハは目を細め嬉しそうに笑った。


「あ。笑った」


 驚いたのはイツキだった。

 アゲハはあまり笑顔を見せない赤子だった。

 笑いもしないが、泣くこともあまりなく、よく眠った。

 寝る子は育つ、と天海は褒めてくれるし、夜泣きがひどいより余程良い、となみが慰めてくれるが、イツキとしては少し張り合いがない気がしていた。

 平馬が来た途端、笑顔を見せるアゲハが少し小憎らしく思えた。


「いつもはあまり笑わないのですよ。それが、殿が抱いた途端にこれです」


 しかし、アゲハが笑ったのはほんの少しの間だった。

 原因は分からないが、すぐに機嫌を損ね平馬の腕の中で暴れ、声を上げて泣き出した。


「これは参った。イツキ。頼む」


 平馬が慌ててイツキにアゲハを託す。


 イツキが抱き上げ、あやしても泣き止まない。

 それどころか泣き声は大きくなるばかりだ。

 今日は珍しく喜怒哀楽が激しい。

 秀吉の他の近習が森の中まで来ることはないだろうが、あまりうるさくさせたくはない。


「嫌われてしまったかな」

「そんなことはありません。でも今日は笑ったり泣いたり忙しい子です」


 アゲハが乳を催促するかのようにイツキの胸に顔をこすりつける。


「腹が減っているのだろうか」

「そうかもしれません。よろしいですか?」


 平馬の前で授乳するのは少々気恥ずかしいが、このまま泣かれては、せっかく久しぶりに会えたというのに落ち着いて話もできない。

 イツキは床に腰を下ろし着物の前をくつろげ、アゲハに乳首を銜えさせた。


「おお。飲んでおる。飲んでおる」


 平馬はイツキに顔を寄せ、アゲハの様子を覗き込んだ。

 乱世を生きる武士とは思えない優しい表情だ。


 イツキはアゲハを片手で抱き、空いた左手で平馬の頬に触れた。


「少し、おやつれになられましたか?」


 秀吉もそうだったが、平馬も表情に疲労が見える。


「そうかもしれぬが、これのおかげで寝込むことなく働けておる」


 平馬はイツキの隣に腰を下ろし、懐から油紙を取り出した。

 広げると中からイツキが平馬宛てに出した文が髪の束と一緒に出てくる。


 自分が出した文が平馬の懐から出てきてイツキは顔を赤らめた。


「少しでもお役に立てているなら何よりです」

「イツキ。わしはもっと働きたい。他の者と同じぐらいに働きたいのだ。何とかならぬだろうか」


 平馬の顔には功名を欲しての焦りが見え隠れするようだった。

 それが少し危なっかしくイツキの目に映った。


「殿。御無理はいけません」

「此度の小牧での合戦では徳川殿に勝てなかった。この体がもう少し動けば、手柄を立てられたのだが」

「戦のことはよく分かりませんが、殿が御無事でいらっしゃれば、イツキは幸せにございます」


 アゲハを胸に抱き、平馬の肩にもたれかかる。

 静かで穏やかな時が流れている。

 イツキは幸せを感じていた。

 束の間であることは分かっている。

 あと暫くすれば、秀吉の号令のもと、平馬は舟に乗って島を離れる。

 次はいつ会えるのか分からない。

 しかし、今は平馬が隣にいる。

 今だけは後先のことを考えず、呆けたように平馬の温もりだけを感じていたい。


「イツキには分からぬであろうが、武門の者にとっては戦場での働きが全て。我が殿は知略に富んだ者も重用されるが、やはり戦での手柄が何よりも我が殿を喜ばせる。わしも体さえ動けば他の者にひけをとらぬ働きをする自信があるのだが、戦が長引くとなおさら体力がついてこぬ」

「殿は御幼少の頃から、お体が弱かったのですか?」

「いや、幼いころは疲れを知らずに山を走り回っておったのだがなぁ。ある時、白い蛇に指を噛まれたことがあってな。毒が回って何日も寝込んだことがあった。その時以来、体が言うことをきかなくなってしまったのだ」


 白い蛇?

 指を噛まれた?


 イツキの脳裏に一つの記憶が蘇る。

 あれは、爺に言われ母サヨリのために薬草を取りに島を初めて出たときのことだ。

 鷹の姿で薬草を探していた折、鉄砲の音に驚き、草むらに落ちた。

 その時、誰かに木の枝で体を押さえつけられた。

 白い蛇は珍しいから持って帰ろうと言っていた。

 懸命に逃れた時、誰かの指に歯が当たったことがあった。


「そ、それはいつの頃の話でございますか?」

「そうだなぁ。あれはまだ秀吉様に召し抱えられて間もないころだから十年程昔だな。七尾山で石田佐吉と雉を撃っておったら、佐吉が白い蛇を見つけたのだ」


 間違いない。

 平馬の指に毒牙で傷をつけた白蛇はイツキだった。


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