揚羽
明くる天正十二年の初夏。
イツキは第一子を産んだ。
人の姿をした女児だった。
イツキは我が子にアゲハという名を付けた。
出産の前日に無数の揚羽蝶が舞う夢を見たからだった。
「アゲハは神畜の一族なのだろうか?」
イツキは出産後間もなく爺を枕元に呼び、問いかけた。
隣で眠る我が子の姿に不安を覚えていたからだ。
畜の一族は雌性の獣を産む。
代々皆そうだったと聞いている。
初めから人の姿をして生まれたアゲハには畜の血が流れ込んではいないのではないかという気がしてならない。
しかし、爺は相変わらずの柔和な微笑を浮かべ、アゲハの誕生を寿いだ。
「イツキ様の御子でありますればアゲハ様も御神畜であられます」
「間違いないか。アゲハは人の姿をしておるぞ」
「人も獣も同じにございます。この世に生を享け息をしている。見た目が違うだけで根本は皆一つにございます」
爺の言葉には説得力があった。
不安は霧消しイツキはアゲハの温もりを肌に感じて束の間の眠りについた。
アゲハが泣くとイツキはすぐに目が覚めた。
泣き声に反応してか、乳房に痛いほどの張りがある。
イツキは体を起こしアゲハを慎重に抱き、胸元をくつろげて恐る恐るアゲハの口元に乳首を近づける。
タキの表情が自然と脳裏に蘇る。
タキは母乳が出なかった。
子のサヨリにも乳房に吸い付く力がなかった。
タキは何度も何度も乳首を吸わせようとしたが、一度も自分の乳を飲ませることができず、そしてサヨリは息を引き取った。
あれと同じことがアゲハの身に起きたらどうしよう。
この両の掌に載ってしまうぐらいに小さなアゲハが乳を吸い出す力を備えているのだろうか。
イツキの全身はかつてない緊張に包まれた。
アゲハはまだよく目が見えないようで、首を振り口で乳首を探した。
そして意外なほど強い力で吸い付いてきた。
イツキはその強さにアゲハの生きる力の逞しさを感じた。
そして、自分の胸の奥から何か温かいものがアゲハに吸い出される痛いぐらいに心地良い感触があった。
アゲハは満足そうに、そして一心に母の乳房に吸い付いている。
その小さな手で母の乳房にすがりついている。
間違いない。
母乳が出ている。
やがて、アゲハは満ち足りた顔つきで乳房を口から離した。
必死にすがりついてきていたアゲハの全身は今はくたくたに柔らかく、イツキがしっかり支えないとそのまま床に転がりそうになる。
眠そうに母の身体にしなだれかかってくるアゲハを抱きしめ背中をさすると、満足そうに「ぅげぇっ」と小さく息を漏らした。
そして、何の不安もないような無邪気で穏やかな表情で寝息を立てる。
イツキはそのアゲハの表情やしぐさにかつて感じたことのない、言い表しようのない深い愛しさを覚えた。
愛しさが募り思わず強く抱きしめてしまいそうになる。
壊してしまわないかと心配になるぐらいにアゲハの全てが小さく可愛らしく見えた。
イツキは早速、無事女児を出産したこと、娘の名前をアゲハとしたことを伝えるため平馬宛ての文をしたため、自分とアゲハの髪を切って同封し、五助を呼んだ。
手紙を託した五助が出て行くとすぐに天海が廊下から声を掛けてきた。
襖を開いた天海は布団で眠るアゲハを見つけ、傍らに腰を下ろすと「何と愛らしい」と相好を崩した。
「イツキ様。その、あちらは、どうでございましたか?」
天海は少し言葉を詰まらせながらも訊ねてきた。
天海が訊きたいのはイツキの体から母乳が出たかということだ。
天海はイツキが身ごもって以後そのことばかりを気にしているようだ。
天海から母乳の出についてあれこれ訊ねられ、閉口しているとなみはよくイツキに愚痴をこぼした。
私は身ごもったこともなければ、赤子に乳をやったこともないのに、となみは笑っていた。
「大丈夫でした。御心配をおかけしました」
「そうでしたか。それは何より。あとは、イツキ様がたくさん召し上がられて健やかにお過ごしくだされ」
「天海様。お許しください」
イツキは天海に向かって頭を下げた。
「どうなされた?」
「天海様はサヨリを亡くされました。そして姉まで……。私だけが……」
イツキはアゲハを見るたびにサヨリを思い出す。
自分を幸せに思う分だけ、天海やタキ、そしてサヨリが不憫に思えてならない。
「イツキ様。それは全く関係のないこと。そのようなお考えは御無用に願います。拙僧もなみや重蔵と同様にアゲハ様のご誕生を今か今かと待ちわびておりました。これからアゲハ様の泣き声で島が賑やかになるかと思うと、嬉しくてならんのです」
「天海様……」
優しい天海の言葉がイツキの心に深くしみわたり、イツキは涙を浮かべて礼を言った。
「ところでイツキ様」
「何でしょう」
「込み入ったことで大変恐縮ですが、大谷殿は何と仰せなので?」
「何のことでしょう?」
「イツキ様は大谷殿の御子を宿し、そして産まれました。普通に考えれば、イツキ様は大谷殿の御妻女となられ、アゲハ様は大谷殿の御息女として大事に育てられるべきかと。しかし、一向に婚儀のお話が聞こえてまいりませぬので、拙僧は少々気になっておりまして」
イツキは居住まいを正し、口を開いた。
「私は平馬様のために尽くす。それだけで十分。立場などどうでも良いのです」
「私の考え違いならばお許しいただきたいが、もし、身分の違いなどを気になされているのなら、そのような心配は御無用。まずしかるべき家筋に御養女となられ、そこから嫁すことで、イツキ様は造作なく大谷殿の奥方様になれます」
「その話は、以前、平馬様から承ったことがございます」
「では、早速にでもその手配を」
「いえ。その必要はございません。平馬様にもお断りいたしました」
イツキは強く言い放った。
「何故に?」
「天海様にご心配いただいて心苦しいのですが、私はこの島の神畜。掟に従って生きていくしかないのです。今は島を出ることができません」
「やはりそういうことにございますか」
「それは仕方のないこと。思い返せば私の母も同じでした。母も父、浅井久政の子を二人産みましたが、側室にもならず、終生この島で暮らしました。畜とはそのように生きるようでございます」
「申し訳ございません」
今度は天海がイツキに頭を下げる。「タキがおれば、イツキ様が島に縛り付けられることもなかったのですが」
「姉上のことも、もちろん天海様のことも恨んではおりません。私は平馬様と心を通じ合え、そして子を為すことができたことだけで満足しています」
そう言って笑ったイツキに、天海はもう一度頭を下げた。
「拙僧にできることがあれば、何なりとお申し付けくだされ」
「頼りにしています」
イツキは天海を頼りに思っていた。
正式に妻にはならなくても、イツキは一生平馬のために尽くして生きる。
しかし、イツキはこの島での、そして寺での生活しか知らない。
島の外の生活、そして武家の習わしなど天海から色々教わりたかった。
頭を下げ合い、微笑みあうイツキと天海の間になみの叫び声が聞こえてきた。
「御住職様!」