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脱出

 タキは久政が武具を身につけ終わるまでに戻ってきた。


「島の東、三十間ほどに沢潟紋の旗が見えます。兵の数およそ三百」


 娘の姿に戻ったタキは久政に簡潔に報告した。


「確か、木下とかいう百姓上りが沢潟だったか」


 そう独りごちて、久政は再び久右衛門を呼んだ。

 

 すぐに例の重い足音が近づいてくる。

 久右衛門は本堂に入ると片膝をついた。


「お呼びで」

「敵が分かったぞ。織田方の木下秀吉じゃ。島の東におよそ三百」


 久右衛門は「ほう」と声を漏らし、訝しげに目を細め母子の方を見遣り、すぐさま久政に向き直った。


「こちらの手勢は百に届きませぬが、何とか追い払ってみせましょう」

「よし。頼むぞ」

「はっ」


 久右衛門は大きな体に似合わず、軽快に立ち上がった。


「お待ちくださいませ。木下だけではござりませぬ!」


 タキが久右衛門の背中に斬りつけるように鋭く声を発した。


 久右衛門がゆっくりと振り返る。


「他にも何か?」

「どちらの手の者かは分かりませんでしたが、島の西にも夜陰にまぎれて軍勢が潜んでおります。そちらもおよそ三百」


 タキの言葉に久右衛門は一瞬憎々しげに奥歯を噛みしめた。


 敵はこちらが東に守りを固めたところを狙って西側から攻め入ってくるつもりだ。

 腹背に敵。

 大きな兵力差。

 籠るは何の防備もないただの寺。

 これでは勝ち目はない。


「大殿」

「こんな隠居の首を取ったところで、何の手柄にもなるまいに」


 久政は虚空を見据えため息を漏らした。「逃げるか、久右衛門」


「致し方ありませぬ。大殿をここで死なせるわけにはまいりませぬ」


 その言葉を聞いてサヨリは二人の娘の手を引き本堂から出た。

 速足で歩き、奥の屋敷にいる宝厳寺の住職を訪ねる。


 老齢の住職は寝間着ながらも端座し全てを理解した顔でサヨリを待っていた。


「タキ。イツキのことを頼みますよ」


 サヨリがタキの肩に手をのせると、タキはイツキの手を握り俯いたまま小さく頷いた。


 サヨリは手短に住職に二人の世話を頼み屋敷を出た。

 以前から住職にはいざとなったら二人の娘を頼むと伝えてある。

 織田方も寺の小娘には手を出すまい。


 本堂に戻ろうとする母を追ってイツキが泣き叫ぶ。


「母上!イツキも連れていってくださりませ!」


 サヨリは心を切り裂かれる想いに瞼を閉じ下唇を噛みしめるも、キッと振り向き「おぬしも畜に生まれたからには聞き分けよ!」と言い捨て、すぐさま本堂に走り出した。

 背中にイツキの泣き声が降りかかってくるが足を止めるわけにはいかなかった。

 連れていけるはずがない。

 これは死出の旅かもしれないのだから。


 本堂に戻ると脇坂久右衛門と両輪として久政のために働く浅井惟安が待っていた。

 惟安も武辺の者だが、性格は穏やかで露骨にサヨリのことを嫌う素振りは見せない。

 だからこそ久政に頼まれてここにいるのだろう。

 「大殿は既に舟に向かわれました。こちらへ」と島の南を目指してサヨリを森の中の間道へ案内する。


 その時、島の東から喚声が上がった。

 木下軍が島に取り付いたのだろう。

 間もなく西側にいる三百の軍勢も動き出すに違いない。


 早く早く、と心が急く。

 惟安も同じに違いない。

 脇目も振らず岸に向かって駆けていく。


 やがて波の音が近くなり、間道を抜け岸壁に出る。

 そこに久政とその周りを囲むように久右衛門をはじめとした十数名の武者が侍っていた。

 みな、姿勢を低くして真っ暗な湖面に目を向けている。

 一行が乗るはずの舟は右手に五間ほど行ったところに漂っていた。


「様子は?」


 惟安が訊ねると、久右衛門が横に首を振った。


「既に囲まれておる」


 久右衛門の言う通りだった。

 目を鷹に変えなくても分かる。

 目を凝らせば湖面にゆらゆらと舟が何艘も漂っているのが見えた。

 鼻を狼に変えれば火薬のにおいを悟りそうだ。

 闇の向こうで敵は銃口をこちらに向けて久政たちが姿を現すのを今や遅しと待っているのだ。


「ここは捨てて、他をあたろう」


 久政の下知で全員が静かに森の中へ戻る。


「物見の報告では西もここと同じとのこと。残るは北」


 久右衛門は集団を先導するように駆けた。

 その背後を誰もが押し黙ってついていく。

 足音と甲冑が軋む音が静かな森の中に霧消する。

 三、四町ほど走ったところで、一行は島の北端に辿りついた。

 そして久右衛門の嘆息を聞く。


「どうにも逃してくれぬらしい」


 ここから十間ほどの水上に、やはり舟が漂っている。

 微かに桔梗紋の旗指物が見える。

 明智か、と家臣の誰かが呟く。


「これは三百ではききませぬ。いかがいたしましょう。もはや島全体を囲まれております」


 惟安が恐る恐るという様子で久政を振り返る。


 久政は相変わらず平然とした様子で顎をさすりながら口を開いた。


「朝を待つか。明るくなれば、敵の姿もはっきりしよう」

「明るくなれば、こちらの姿も丸見えですぞ。この狭い島では隠れるところもございません」


 久右衛門が言葉は丁寧だが、久政の楽観的な考えを諌めるような口調で言った。「逃げるなら夜が明けるまでにござりまする」


 久右衛門の言葉は間違っていない。

 しかし、暗闇の中であってもこれだけ厳重に囲まれていては敵に見つからずに逃げることは不可能だろう。

 そして多勢に無勢。

 一度見つかってしまったら、ここにいる全員が湖の藻屑となってしまう。

 ここで久政を死なせるわけにはいかない。

 サヨリは決心した。


 そのサヨリの意思に反応したように湖面がゆらりと動いた。

 星明かりに照らされて、ぬらぬらと巨大な何かの肌が輝いているようだ。


 主だ。湖の主が加勢に来てくれたのだ。


 サヨリは久政の傍に近寄り、声を掛けた。


「私が敵方の舟にわたり、攪乱します。その隙にお逃げください」


 鷹となって夜陰にまぎれ湖面を渡り、一番大きな舟に取り付いて狼に変化して暴れまわる。

 湖の主の力も借りれば、しばらくは時間を稼げるだろう。

 これしか久政を小谷へ落とす術はない。

 

 だが、サヨリとて不死身ではない。

 幾らか皮膚を硬くすることはできるが、それで鉄砲の弾を防げるわけではない。

 この波間に漂う何百もの軍勢を全て敵に回して生き延びることは不可能だろう。

 言わば、必死の策だ。


「何を言う。わしはそなたを犠牲にしてまで生きながらえたいとは思っておらぬぞ」


 久政もサヨリが死ぬ覚悟であることを看破したようだった。


「殿。殿の命は城から離れたこんな辺鄙な地で落としてよいものではござりませぬ。死ぬならどうぞ、小谷の城を枕になさいませ」


 決死の形相でサヨリが訴えると久政は反駁することはなく苦悶に表情を歪めて唸った。


「お方様」


 低い声で呼びかけるのは久右衛門だった。「お方様のご覚悟、我が胸に轟きましてござる。しかしながら、お方様一人で敵に向かわせたとあっては我ら浅井家家臣一同末代までの恥。ここは家来衆の名誉にかけて拙者もお供いたしまする」


 そう言って深々と頭を下げる久右衛門の姿にサヨリは思わず涙ぐんだ。

 久右衛門は今までサヨリの存在を無視することはあっても、「お方様」と呼んでくれたことはなかった。

 今、初めて浅井家の一員になれた。

 その実感が死出の道への何よりのはなむけにサヨリは思えた。


「二人とも……」


 久政の眼にも微かに光るものが見えた。


 久右衛門は久政に背を見せ槍を構えた。


「惟安殿。皆の者。いざ、殿を舟へ」


 その時、久政やサヨリたちの真上を何かが「キー」と鳴いて通り過ぎていった。

 鳴き声に聞き覚えがある。

 間違いようがない。タキだ。


 すぐに闇の向こうから男どもの慌てふためく声と、何かが水に落ちる音が次々に聞こえてきた。


「何事か」

「敵だ!」

「撃て!撃て!」


 敵が混乱している様子が、見えはしないが如実に伝わってくる。

 湖面の至る所で小さな火が点る。

 種子島の火縄に火が点されたのだろう。

 そして銃声があちらこちらで起きる。

 しかし、弾は一つも岸には飛んでこない。

 次々に水面に人が落ちていく音がする。

 同士討ちになっているようだ。


 サヨリの足下の水面に漂っていた湖の主もぬらぬらとした肌を一瞬湖面に浮かばせて混乱の敵陣へ音もなく泳いで行った。


「殿。舟へ」


 サヨリが小さな声で呼びかけると、久政は久右衛門に向かって頷き、岸に寄せてあった舟に乗り込んだ。

 次々に手勢が乗り込み、櫓や櫂を握り締める。


 サヨリは鷹となって舟の先端に立ち、周囲を見渡して敵の陣の穴を探した。

 再び人の姿に戻ると闇に向かって指を差した。


 舟はサヨリが示した方角へ静かに進み始めた。


 サヨリはまだ混乱している敵の舟の上空を見つめた。

 「キー、キー」と別れを惜しむような鷹の鳴き声がそこから聞こえてきた。


 サヨリは次第に離れていく島を振り返った。

 

 竹生島。

 琵琶湖に浮かぶ小さなこの島は畜生島とも書く。

 文字通り畜が生きる島。

 畜とは神が人の世に遣わされた弁財天の生まれ変わりである獣のこと。

 畜はあらゆる獣に変化する。

 もちろん人にも。

 そのため人と交わることもできるが、神の命により畜の血を引くものが代々この島を護り神の意志を人に伝える役目を負っている。

 

 サヨリも長年その役目を果たしてきた。

 しかし、来るべき時が来た。

 今日から島を護るのはタキとイツキになったのだ。


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