夢枕
爺が倒れた。
数日前から体が重そうだったが、どうやら暑さにやられたようだった。
一昨日の朝、勤行の時に悪心を訴えてから、ずっと床に臥せたままだ。
意識はあるが、食欲がなく、耳鳴りがし、眩暈がすると言う。
熱も出ている。
イツキは爺が寝ている部屋の襖の前に膝をつき、廊下に水の入った桶と手拭いを置いた。
静かに襖を開く。
立ち上がれない爺の身体を拭いてやろうと思ったのだ。
できれば着ているものも替えさせたい。
そう思って部屋の中を見たイツキは驚きの声をあげた。
爺が布団の上に半身を起こしてこちらを見ていた。
まるでイツキが顔を出すのを待っていたかのようだった。
「爺!起きて大丈夫なのか!」
イツキは桶と手拭いは廊下に置いたまま、爺の傍に駆け寄った。
「はい。もうすっかり」
そう言う爺の笑った表情はいつもの爺だった。
顔の血色も戻っている。
イツキは全身から力が抜けていくのを感じた。
胸を手で押さえ安堵の深い息を漏らす。
爺まで居なくなってしまったら。
爺が倒れてから、その思いが頭から片時も離れなかった。
爺までいなくなってしまったら、一体誰を頼ればよいのか。
「良かったぁ。心配したぞ」
「申し訳ありません」
爺は布団の上で頭を下げた。
「しかし、良かった。これも島の霊験かな」
島の力。
そんなものがあるのか、と疑いたくなる時もあった。
島に力があれば、幼いサヨリも命を失うことはなかったのではないか。
そうであれば、タキもどこかへ行ってしまうこともなかったのに。
そう考えることもしばしばだったが、今日は神の、島の力に礼を言うしかない。
「まことに霊験でございます」
爺は真剣な眼差しを光らせてイツキを見た。
「爺?」
「先ほど夢枕に久政様とサヨリ様が立たれました」
「父上と母上が?」
「はい」
「して、何と?」
イツキが訊ねると、爺は胸の前で合掌をし、目を閉じた。
「お前はまだ、為すべきことがある。イツキを助けよ、と」
「私を?」
爺は合掌をほどき、イツキに正対するように上体を捻った。
「イツキ様。久政様とサヨリ様は私にイツキ様のために力を貸すようにと仰せでした。お心当たりはございますか?」
爺の温かい眼差し。
その眼差しにイツキは幼いころから見守られてきた。
そして、今もそうだ。
イツキは自然と涙がこぼれるのを止められない。
「爺。私の定めの人は、羽柴秀吉の近習、大谷平馬様であった」
定めの人が、両親を弑した羽柴秀吉の部下。
そのことにイツキはずっと悩み苦しんでいた。
畜の定めとして、平馬に命を捧げて尽くさなくてはならないし、尽くしたい。
しかし、平馬を支えることは、親の仇である羽柴秀吉のために働くことになる。
そのことを自分の心の中でどう整理してよいのかイツキには分からないのだ。
平馬のことを思えば思うほど、親を裏切っているようで心が痛い。
そして、このことをタキが知れば、きっと激怒するに違いない。
「イツキ様。御両親はイツキ様の苦しみを取り除きたいのです。そのために私のところへお出でになりました。イツキ様。苦しむことはありません。全力で御神畜として大谷様にお尽くしください。御神畜の務めは神の御意志。それは肉親の情を上回るものでございます」
「爺。私は平馬様を支えて良いのか?それを父上、母上はお許しくだされるのか?」
イツキははらはらと涙を流して爺に問いかけた。
「良いのです。それが定めなのです。それを御二方も望んでおられます」
「姉上はどう思われるだろうか?」
「タキ様も御神畜として必ず今もどこかで定めの方を支える務めを果たしておられます。タキ様も御理解なされるはずです」
イツキはその言葉を聞いて肩に重くのしかかっていた何かが霧散したのを感じた。
「爺」
「はい」
イツキは両手の甲で頬を拭った。
「私には、私の腹には平馬様の子がおる」
「おめでとうございます」
爺は泰然とイツキに祝意を述べた。
「驚かぬのか?」
「驚きは致しません。定めの人のために子を為すのが御神畜の務めの一つ」
イツキは強く頷いた。
「そうじゃ。これも畜の務め」
イツキには一つの覚悟があった。
それを思うと身を切るような痛みに苛まれるが、これも畜として平馬を支えるためには仕方のないこと割り切っていた。
「爺にお任せください。年が明け、春が過ぎるころには健やかな御子を授かりましょう」
「ありがとう、爺」
「それから、もう一つ」
「何じゃ?」
爺は再び合掌し、「オン、ソラソバテイエイ、ソワカ」と真言を唱え、イツキの髪に手を伸ばした。
「イツキ様。髪を一束、お切りください」
「髪を?それを、どうするのじゃ?」
「大谷様は、お体が優れぬ御様子。イツキ様の髪をお持ちになれば、少しは精が出るとサヨリ様が仰せです。五助に持たせましょう」
イツキは爺の言葉に従い、すぐさま髪を一束、剃刀で切り落とし、文をしたためて五助に託した。