行方
琵琶湖は今日も湖面をきらきらと輝かせていた。
波が静かに浜に打ち寄せては返す。
その繰り返しはいつまで見ていても飽きない。
イツキは呆けたように波を見つめていた。
何も考えたくなかった。
定めの人は見つかった。
そのことはイツキに深い喜びを与えてくれた。
しかし、一方で苦悩ももたらした。
大谷平馬。
イツキの定めの人は羽柴秀吉の近習だった。
何という運命か。
一生支え尽くすべき相手が、親の仇の指揮下にいるとは。
平馬を支えることは秀吉を助けることになる。
このことをイツキは心の中でどう整理したら良いのか分からない。
姉上がいなくて良かったかもしれない。
イツキは爺や、天海に対してもなかなか口にしづらいが、自分の定めの人が秀吉の配下にいるとはタキにはとても伝えられない思いだった。
しかし、やはりタキには島に戻ってきてほしかった。
イツキにとってはたった一人の肉親なのだ。
しかも何年も離れていて漸く再会できたと思っていたところに唐突なこの別れだ。
タキが戻ってきてくれて、島での生活が楽しく張りのあるものになったというのに。
タキはどこへ行ってしまったのだろう。
あれから一月が経つ。
今もタキは娘の亡骸を胸に抱き、乳房をあてがっているのだろうか。
何と悲しく寂しいことか。
イツキは姉のことを考えて目に涙を浮かべた。
叶うなら、今すぐタキのもとへ飛んで行きたい。
しかし、今タキがどこにいるか分からない。
分かったとしても、島の掟がある以上、イツキはここから離れることはできない。
「イツキ様」
背後から聞こえるのは五助の声だ。
イツキは慌てて袖で涙を拭った。
「イツキ様」
「何?」
イツキは琵琶湖に顔を向けたまま返事をした。
「天海様がイツキ様をお呼びです」
「天海様が?」
イツキは五助に向き直って首を傾げた。
爺に呼ばれることはあっても天海に呼ばれたことはこれまでなかった。
「何だろうか」
五助も「さぁ」とイツキ同じように小首を捻った。
「先ほど天海様にお客様がいらっしゃったのですが、それと関係があるのでしょうか」
「天海様に客?」
それも初めてのことだ。
天海の素性を知っている人間はこの島にしかいない。
それなのに天海に客とはどういうことだろうか。
イツキは五助と一緒に寺に戻った。
庫裡に入ると囲炉裏の傍で爺と天海、そして見慣れぬ百姓夫婦が難しい顔をして話し込んでいた。
爺よりは若いにしろ天海よりは年嵩の老夫婦だ。
「おお。イツキ様。こちらへ。五助も」
爺に手招きされてイツキは囲炉裏端に腰を下ろした。
五助も並ぶ。
「こちらは?」
百姓夫婦が何者かイツキが爺に問いかけると、天海が口を開いた。
「実は、この者は以前私の下で働いていた者で重蔵。そしてその妻のなみにございます」
百姓夫婦はイツキに向かって頭を下げた。
「以前、ということは、その」
「はい。私がまだ明智として生きていた頃のことにございます」
「では、武家の方なのですか」
イツキが問うと夫婦は首を横に振った。
「我ら、忍びの者にございます」
「忍者?」
「はい。我ら代々陰ながら明智様を支えてまいりました。しかし、山崎の合戦にて羽柴軍に敗れ、坂本城も落ち、光秀様も秀満様もお討ち死にとの噂を耳にし、我らに残された役目は明智様の菩提を弔うことと考え、美濃の山中でひっそり人知れず西方を向いて手を合わせる毎日でした」
「美濃?」
「美濃には明智という郷がございます。明智様は美濃の清和源氏土岐一族の流れをくむ由緒正しきお方。我々は明智の郷で先祖代々明智家にお仕えしてまいりました」
「重蔵。なみ。先ほども言ったようにわしはもう明智とは何の関わりもない。こちらの御住職天水様の弟子にて天海と申す一人の仏僧だ。そこのところ了見してくれ」
「秀満様」
重蔵となみは何かを堪えるような目で天海を見た。
天海はそれでも厳めしく首を横に振る。
「重蔵。そのことよりも、おぬしらがどうしてここへ来たのかもう一度教えてくれ」
天海の言葉に重蔵は一つ頷き、イツキに向き直った。
「イツキ様。イツキ様はタキ様の妹君にあられるお方とか」
イツキは重蔵の口からタキの名前が出てきたことに驚いた。
「そうです。タキは私の姉」
「実は、我ら先日タキ様にお会いしました」
「何と」
イツキは瞠目して重蔵となみを見た。「では、姉上は今、美濃におられるのですか」
「それは分かりません。ただ、我らに秀満様が近江の琵琶湖にある竹生島で生きておいでだとお伝えくださったのです。それで我らはもう一度秀満様にお仕えすることができればと、ここまでタキ様の言葉だけを頼りにまかり越した次第」
「姉上……」
タキは美濃にいる。
イツキはそう確信していた。
明智の郷できっと未だサヨリのために乳を探し求めているのだろう。
何とか明智の郷に行く術はないか。
そう考えるが、どうしても畜の掟が壁となってイツキの前に立ちふさがる。
「タキはどのような様子であった?」
天海は少し顔を強張らせて訊ねた。
「少し御窶れでした。そして不思議なことをお訊ねでした」
「何だ、その不思議なこととは」
「犬はおらぬか、と。子を産んだばかりの犬を探しておいででした」
それを聞いてイツキはサヨリを抱き美濃の山中を彷徨うタキの姿を思い描いて涙をこぼした。
思わず嗚咽が出そうになる口を手で覆う。
タキはまだ娘が生きていると思い込んでいるのだろう。
「タキ様は」
夫の影に隠れるように座っていたなみが思い詰めた顔でにじり出た。「竹生島に向かう我らに、くれぐれも殿のことを頼む、と仰っておいででした」
天海はなみの言葉に目を朱に染め、その顔を見られまいとするように脇を向いて、僧衣の太もものあたりを強く握り締めた。
「どなたか、おらぬか」
門のあたりから男の声がして、庫裡にいた者全員が顔を見合わせる。
五助が素早く立ち上がって、静かに出て行く。
重蔵となみも片膝立ちになっていつでも動ける体勢を取っていた。
「どちら様で?」
五助が声を張り上げて問いかける。
「どちら様で、ではないぞ。羽柴様の御なりじゃ。しかも今日は御母堂様、奥方様もご一緒じゃ。御住職はおられるか」
羽柴と聞いて庫裡の中に緊張が走った。
「羽柴とは、あの羽柴秀吉のことにござりまするか?」
重蔵が潜めた声で天海に問いかける。
天海は重々しく頷いた。
「天海殿、羽柴様をお迎えに参りますぞ」
爺が立ち上がり、それに天海も従った。
「殿」
すがるような目で重蔵が天海を呼ぶ。
その手は懐に忍ばせている。
物騒なものでも握っているのだろうか。
「今のわしは天海じゃ。その方ら、くれぐれも早まった真似はするなよ」
そう言い置いて天海は爺の後について表へ出て行った。