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離別

 門前に鷹の姿で降り立ったイツキは人に変化し、黄色い花の束を握り締めて庫裡に飛び込んだ。


「爺。これか?」


 乱れた息もそのままに、摘んできた花を爺に見せる。


「おお。この花にございます。根を小さく刻むと白い汁が出てきます。煎じ、煮詰めたものをタキ様に飲んでいただきましょう」

「姉上は?」


 イツキは根を水で洗いながら爺に問いかけた。


「奥の部屋でサヨリ様に重湯を」

「やはり乳は出ぬか……」


 平馬との出会いに浮き立っていた気持ちが一気に萎む。


 花の根は刻むと爺の言葉どおり白い汁を出した。

 まるで母乳のようだ。

 囲炉裏の上の鍋に入れてゆっくりかき混ぜながら煮込む。


 爺の顔が囲炉裏の火で赤く照らされている。

 火を見つめる爺の顔には疲労の色が見えた。


 定めの人が見つかったなどとは今は言える雰囲気ではなかった。


「五助は?」

「一度戻ってまいりましたが、長浜では大豆が手に入らなかったと、今度は今津へ向かいました」


 今津は琵琶湖の西岸のまちだ。

 竹生島からの距離は東の長浜までと同程度。

 まちの規模は軍事的にも経済的にも要衝となる長浜には劣るが、昔から京と越前若狭とを結ぶ街道の中間地としてそれなりに栄えている。


「そうか、やはり手に入らなんだか」

「戦が起きますか?」

「余呉や賤ヶ岳のあたりで羽柴と柴田が衝突するともっぱらの噂だ。実際に私も七尾山で北に向かう羽柴の大軍を見た」


 爺は表情を曇らせた。

 その表情の意味をイツキも理解しているつもりだった。


 羽柴秀吉と柴田勝家。

 この二人の衝突は天下をほぼ掌中にしたと見られていた信長の後継者争いに他ならない。

 つまりは勝った者がかつての信長の地位を手にすることになるわけで、これは天下分け目の大戦と言っても過言ではない。

 となると、この北近江で激戦が繰り広げられ、しかもそれがいつまで続くか、どこまで広がるか分からない。

 北近江は荒廃し、ものの値段は高騰する。

 今津も長浜同様すでに兵糧になるものは買い占められているおそれがあり、五助が手ぶらで戻る可能性は高いように思われた。


 鍋から盛んに湯気が立ち上り、中の汁はどんどん白さが濃くなってきていた。

 かき混ぜてみると少し粘り気も出てきたようだ。


「そろそろよろしいでしょう」


 爺が汁を椀に注ぎ盆にのせる。


 イツキは立ち上がり、爺の後についてタキとサヨリ、天海がいる部屋に入った。


「タキ様。これを」


 爺が盆をタキに差し出すとタキはすがるように爺とイツキを見つめた。

 懐にサヨリを抱いている。

 ぐったりとしたサヨリはタキの腕の中で目を閉じたままだ。

 クンクンと鳴きもしない。


「これは?」


 タキの隣に座る天海が問いかけてくる。


「ある花の根を刻み煎じてできた薬湯にございます。古来、乳の出を良くすると言い伝えられております」

「ありがとう」


 タキは目に涙をため、爺とイツキに向かって身体を折って頭を垂れた。


 天海も一緒に頭を下げる。

 

 イツキはタキと天海を励ますように努めて明るい口調で言った。


「間もなく五助が豆を持ってまいります。大豆を煮詰めると豆乳と言う精のつく汁ができあがるそうです。それをサヨリに飲ませればきっと元気になるでしょう」


 タキはサヨリを抱いたまま、薬湯を飲んだ。


 庫裡の方で物音が聞こえた。

 爺が、「五助が戻ったのでしょう」と部屋を出て行く。


 しかし、五助も爺もなかなか部屋に現れなかった。

 しびれを切らしたイツキは二人の様子を見に部屋を出た。

 すると庫裡を出て行く五助の背中が見えた。

 外はもう夜の闇だ。

 今からどこへ行くと言うのか。


「五助はこれから堅田へ参るのです」


 五助の代わりに爺が説明した。

 今津でも豆は手に入らなかったようだ。


「こんな時分に出かけねばならぬか。五助も疲れておろう」

「イツキ様。事は急を要します」


 爺が険しい顔つきで声を潜めて発した言葉に、イツキは驚き、思わずタキの部屋を振り返り、また爺に顔を戻した。


「そんなにまずいか」

「もはや風前の灯かと。五助には最善を尽くさせますが、イツキ様もご覚悟を」


 そんな……。イツキは口に手を当て、言葉を失った。


「サヨリ。サヨリ!」


 イツキの背後で天海の叫び声が聞こえた。

 その声で何が起きたのかイツキは理解した。

 サヨリとの時間は短かった。

 あまりにもあっけなくて涙も出てこない。

 ただ、自分が何の役にも立てなかったことが悔しかった。

 そして、タキに対して申し訳なかった。


 爺は一瞬憂いを見せ天井を仰いだが、すぐに表情を引き締めタキと天海がいる部屋に向かった。


 イツキもとぼとぼとついていく。

 もっとできることがあったのではないか。

 その問いが頭から離れない。

 

 襖を開けた爺の後ろについて中に入る。


 タキの腕の中でぐったりと動かないサヨリ。

 その姿に全身を震わせて涙を流している天海。


「タキ様」


 爺がタキの傍に腰を下ろし、頭を下げた。「爺がしっかりと弔わせていただきます」


「爺?何を言っておる?」


 タキがサヨリを抱いたまま訝しげに爺を見る。


「タキ。悲しいことだが、受け入れねばならぬ」


 天海がタキの肩に手を置いた。


「殿。殿も何を仰っているのです。サヨリは眠っているだけではありませんか」

「しっかり見なさい。サヨリはもう、もう息をしておらぬ」


 天海は声を震わせ、顔を俯けた。

 床に涙がぼたぼたと落ちる。


「殿。爺。二人ともどうしたのです」


 タキは困惑顔で左右を見遣り、そして助けを求めるようにイツキを見た。「イツキ。イツキは分かるであろう?サヨリは眠っておるだけ。またすぐに目を覚ます」


 イツキはタキの向かいに膝をつき、手をサヨリの口元に当てた。

 微かな空気の流れもない。

 次に耳を近づけた。

 やはりサヨリは息をしていなかった。

 イツキは首を左右に振った。


「姉上。お気を確かにお持ちください。サヨリは……、サヨリはもう息をしておりません」


 しかし、タキは受け入れなかった。

 目を怒らせ、立ち上がる。


「何を言っておる。サヨリは死なぬ。死なせはせぬ」

「姉上!申し訳ありません。私が、私がもっと早くに……」


 イツキはタキの足元に泣き崩れた。

 自分にはもっとできることがあったのではないか。

 平馬と語らうことなく戻ってきていればサヨリを死なせずに済んだのではないか。

 その思いがイツキの胸に強く迫った。


「イツキ。泣くな!泣く必要はない。サヨリは死んではおらん」


 興奮するタキを宥めるように天海がタキの肩に手を載せる。


「タキ。サヨリを葬ってやろう。わしとしっかり弔ってやろう」

「殿!聡明な殿の言葉とは思えませぬ。ご覧ください。サヨリはこんなに愛らしいのです。死ぬはずがございません」


 爺が立ち上がり、「爺にお任せください」とイツキに手を差し出した。


 イツキは爺を見て反射的に身を引いた。

 その顔は明らかに周囲への不信感に満ちていた。


「そなたら、寄ってたかって私をたぶらかすのか。ならば、私にも考えがある」


 そう言うやいなやタキはサヨリを抱きしめたまま駆け出した。

 爺を突き飛ばす勢いで部屋から出て行く。


 イツキは慌ててタキを追った。

 外へ出るとタキは鷹へ変化し、足でサヨリを掴んで飛び立つところだった。


「姉上。どこへ行かれるのです」


 イツキも鷹へ変化しタキを追った。

 しかし、タキの羽の動きは速く、全く追いつけない。

 そして島を出てすぐにイツキは何かにぶつかった。

 タキが何事もなく飛んで行った中空に見えない壁のようなものがあった。

 そうか。

 掟だ。

 掟の壁が神畜の一族の血を島から消えさせないようにしているのだろう。


 タキが遠ざかっていく。


 イツキは体の平衡を失い、落下しながら、消えていくタキの後ろ姿を見た。

 姉上。

 やっと再会できたばかりだというのに。


 イツキは水中に没した。

 息ができない。

 もがいても、もがいても湖面に上がれない。

 口にどんどん湖水が入り込んでくる。

 苦しい。

 意識が遠ざかる。


 その時、急に体が浮き上がった。

 何かに体を押し上げられている。

 

 イツキの身体はあっという間に湖に浮かぶ岩場の上に押し上げられた。

 

 イツキは口中の水を吐き出し、咳込みながらも自分がいた水中に目を凝らした。

 そこには黒く長いものがいた。

 

 主か。

 琵琶湖の主が助けてくれたのか。

 

 主はイツキに挨拶をするかのようにゆらゆらとゆっくり岩の周りを泳ぎ、そしてスッと湖の底へ向かって消えていった。


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