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宿命

 年が明けて春になるとタキは無事出産した。

 タキの子は雌の狼だった。

 白い狼。

 タキとイツキはその姿を見て「母上の生まれ変わりじゃ」と涙を流した。

 爺も一緒になって泣いた。

 タキは娘をサヨリと名付けた。

 母と同じ名だ。


 天海は戸惑っているように見えた。

 それはそうだろう。

 自分の子供が狼なのだから。

 しかし、小さな狼の赤子がそこにいることに改めて神の力をまざまざと知らされ、竹生島に連綿と続いてきた神畜の一族であるタキやイツキに畏敬の念を抱いたようだ。


「拙僧も先代の住職から神畜の話を聞かされた時は半信半疑じゃった。しかし、弁財天の末裔であられる神畜の霊験や不可思議な力を目の当たりにし信じるほかなくなった。そして宝厳寺の住職としてこの御一族のために全てを捧げる覚悟ができた。天海殿も宝厳寺の僧として、そしてタキ様の定めのお方として神畜の御一族のために生きてくだされ」


 爺にこう言われ、天海は何度も頷いた。


「言葉で言われても信じられなかったでしょうが、目の当たりにすれば、信じざるをえません。何と不思議なことでしょうか。しかし、これがこの島の素晴らしさ、有難さ。神仏の御力にただただ恐れ入るばかりでございます」


 しかし、新たな問題が発生した。

 タキは青ざめた表情でイツキに告げた。


「だめじゃ。乳が出ぬ」


 タキは犬に変化し、サヨリの眼前に横たわり、乳首をサヨリに銜えさせるのだが、そこから乳が出ていないらしく、すぐにサヨリは口を離してしまう。

 人の姿に戻ったタキは自らの乳房を手で絞ってみるのだが、やはりそこからは命の糧となる白い滴が出てこない。


 サヨリはクンクン泣く。

 乳を飲んでいないからか、その声は弱々しい。

 生後すぐと比べると明らかに衰弱している。


 人の赤子ほど長期間ではないにせよ、狼も母乳が必要だ。

 生まれてすぐはやはり何も食べられない。


 タキは犬に変化し何度もサヨリの口に乳首をあてがうのだが、吸っても吸っても乳が出てこないらしく、サヨリは乳首から口を離しまたクンクンと悲しそうに泣く。


「姉上。これを」


 イツキは重湯を作って人肌に冷ましタキに渡した。サヨリが産まれてからイツキは毎日重湯を作っている。


 タキは受け取ると悲しそうに項垂れつつも小さな匙で掬ってサヨリの口元につけた。


 サヨリは少し舌で舐めるが、これではない、と言いたげに左右に首を振る。


 その様子にタキはさらに表情を曇らせた。

 そして強引にサヨリの口を割り、そこへ重湯を流し込んだ。


 イツキは爺にどうすれば良いか訊ねた。


 爺もタキとサヨリの様子に憂慮を覚えているようだ。


「重湯では精がつきません。このままではサヨリ様はどんどん弱ってしまわれます」

「もらい乳をするには長浜まで行くしかない。しかし、行っても誰も狼の子に乳はくれまい」


 天海も思案に暮れている。


「大豆をすり潰して煮込むと乳に似た白い汁ができると聞いたことがあります。五助に大豆を買いに行かせましょう。それから七尾山や小谷山に咲く黄色い小ぶりの花の根を煎じた薬湯が乳の出を良くするとも。イツキ様。お願いできますか?」


 爺の言葉に従って、イツキは五助と共に舟で長浜に向かった。


 春の日差しが温かく降り注いでいるが、長浜は不穏な空気に満ちていた。

 米屋や乾物屋に入ると品物がほとんどない。

 聞くと、羽柴家の手の者が買い占めて行ったということだった。

 北近江は柴田家の所領となったはず、と訝しむイツキと五助に店主が長浜城主が羽柴家へ寝返ったことを教えてくれた。


「余呉や木之本のあたりで間もなく大戦になるだろうともっぱらの噂にございます」


 木之本と小谷山は近い。

 イツキは表情を曇らせた。

 戦場と化してからではタキのために花の根を探すことはできない。

 イツキは豆の手配は五助に任せ、店を出ると人気のない細道に入り込み、鷹に変化した。

 七尾山を目指して懸命に羽を動かす。


 七尾山の傍まで来ると、眼下に羽柴の大軍が見えた。


 馬上の者も、足軽も皆北へ向かって怒涛の勢いで駆けている。

 これはどれぐらいの人数なのだろうか。

 一万を超えているかもしれない。

 長くなった隊列は川の流れのようにどこまでも続いており、先頭がどこなのか定かではない。


 店主が言っていた通り、ここから北にある余呉や賤ヶ岳で戦が起きるのだろう。

 七尾山に花の根が見つかれば良いが、なければ小谷山まで行くしかない。

 小谷山が戦場と化せば花の根は持ち帰れない。

 イツキは七尾山の麓で旋回し黄色い花を探して目を凝らした。


 その時、イツキの心にまたあの呻き声が響いた。

 しかも今までにないぐらいに鮮明に。


 近い。


 イツキの鼓動が一気に速まった。

 声がこんなに強く心に響いたことはなかった。

 間違いなくこの声の持ち主が近くにいる。

 確たる手応えがイツキにはあった。


 呼んでいる。


 イツキは声がする方角に誘われるままに、眼下の人の流れに沿うように羽を動かした。


 声は七尾山と小谷山の間で羽柴軍の兵の流れから少し離れたところにある荒寺から聞こえてくるようだった。

 イツキは屋根の上に降り立ち、周囲の様子に目を配った。

 

 羽柴の兵士が数人寺の周りに腰を下ろしている。

 みな肩が落ち、まるで敗残兵のように項垂れている。


「ここまで必死に走ってきたっちゅうのに、骨折り損じゃ」

「言うても仕方ないじゃろ。我らは殿の下知でしか動けぬのじゃから」

「やけど、せっかくの手柄を立てる好機なのによ」

「少し待とう。殿も少しの間と言うておられた」


 どうやらここにたむろしている兵士を統べる武将が体調を崩し、この荒寺で暫時の休息を取っているようだ。


 苦しそうな呻き声はイツキの心を内側から突き破るほどに強く聞こえてくる。

 この下に定めの人がいるのは間違いない。

 イツキは胸を高鳴らせた。


 イツキは鷹から鼠に姿を変えた。

 そして崩れた瓦の隙間から屋根裏に入り込んだ。

 柱を伝い、梁の上に乗る。


 眼下には一人の若い武将が床の上の筵に横たわっていた。

 苦しそうに顔を顰めている。

 熱があるのだろうか。

 頬が赤く、額に汗が光っている。


 その武将に見覚えがあった。

 秀吉の近習として竹生島に来ていた男だ。

 確か、五助に仕官の話を持ち掛けていた。


“苦しいのですか?”


 イツキは梁の上で心の中に問いかけた。


 武将はハッと顔を起こし、左右に顔を振った。


「誰じゃ?」


 間違いない。

 この方が私の定めの人。

 漸く見つけた。

 イツキは胸の裡に熱く滾るものを感じた。


“私はイツキと申します。あなた様とは心の中で言葉を交わすことができる者です”


「心の中で?」


“はい。あなた様も心の中で私に言葉を送ってみてください”


 武将は筵の上に座り上下左右に視線を飛ばしたが、不審なものは見当たらないようで、観念したように目を閉じた。


“聞こえるか?”


 イツキは人の姿に変化し、座っている武将の傍らに静かに飛び降りた。


“聞こえます。私とあなた様は深い縁により結ばれております”


 気がつけば涙が零れ落ちていた。

 次から次へと滴が頬を伝っていく。


“そなたとわしが?”

“俄かにお信じいただけないのも無理はございません。私もこうやって心で通じ合っているのが不思議でなりませぬ。しかし、お信じいただくしかありません。私はあなた様に命を捧げ、終生あなた様にお仕えいたします”


 イツキは自分でも分からぬうちに手を伸ばし、その武将の疲労の滲み出た頬に触れていた。


 すると武将の頬から見る見る赤みが消え、肌に張りが漲ってきた。


 武将はサッと立ち上がり、自分の身体を見下ろした。


「体が動く。体が動くぞ。だるさも消えた」


“それはようございました”


 イツキは武将が明るい表情を見せたのを心から嬉しく思った。


“イツキ殿。わしは大谷平馬と申す。羽柴秀吉様配下の者。今は柴田勢との戦のため、木之本の先の賤ヶ岳へ向かっている途中、体調を崩し休息を取っていた次第。すぐさま兵を統べて先頭を追いかけねばならぬ。何やら分からぬが、そなたのおかげで体は治癒した。先を急いでおるゆえ、これにて御免”


 平馬はイツキに一礼すると、すぐさま柱に立てかけてあった槍を手に荒れ寺から飛び出て行った。


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