夜襲
ふすまが閉まる微かな音にサヨリは目を覚ました。
隣で寝ていたはずの浅井久政の姿が見えない。
そっと寝床を脱け出し、ふすまを少しだけ開いてみる。
久政は庭に降り立ち凝然と夜空を見上げていた。
“眠れませぬか?”
サヨリが寝所を出ると、久政がこちらに顔を向け“すまん。起こしてしもうたか”と詫びた。
乱世を生きる武者としては優しいのは声色だけではない。
無益な殺生を好まず、風雅を楽しみ、連歌を嗜む彼は極力争いを避け、一日も早くこの国に平穏が訪れることを待ち望んでいる。
そういう彼の姿勢を弱腰と見る向きもあることをサヨリも知っているが、血が流れることを喜ばないことがどうしていけないことなのか、と何も言わない久政に代わってサヨリは声を大にして言いたい。
“今日は月がない。その分、星が美しい”
“まことに”
浅からぬ縁で結ばれた二人は心の中で会話ができる。
サヨリは久政に並んで立ち、心の中で言葉を交わしながら、ともに空を見上げた。
今日の夜空は無数の星が輝き、手を伸ばせば掴めるぐらいに近くで瞬いているように見えた。
“この世には星の数ほど人が生きておる。星はそれぞれがそれぞれの持ち場で満足して輝いておるというのに、人はそうはいかん。隣の人を虐げてでも己の欲望を満たそうとする。嘆かわしいことじゃ”
人を星に見立てるのは久政らしくはあるが、サヨリにはいつになく物悲しく聞こえた。
“昨日の文に何か……”
思わず心の中で問いかけてしまい、サヨリは「出過ぎたことを申し上げました」と後悔した。
そもそも訊かなくても、おおよその見当はついていた。
送り主は久政の嫡男で浅井家当主の長政だ。
隠居した父に今の御家の状況を知らせ、助言を求めてきたに違いない。
“構わぬ。サヨリは何でもお見通しじゃからの。そちには何も隠したりはせぬ”
久政が語った長政からの手紙の内容は同盟者朝倉家の衰退ぶりと織田方の北近江での砦造りに対する危惧であり、サヨリの予想通りだった。
“では……”
“うむ。小谷へ戻らねばならなくなった”
星を見上げなら久政は心の中でサヨリに告げた。
サヨリを見ながらは言えないと、その横顔に書いてあるようだった。
もともと織田との決戦を前にして主従一丸となって籠城の準備を進めている中で、久政は無理やり時間を作って島に渡ってくれたのだ。
その気持ちだけでもサヨリとしては十分に嬉しかったが、久政の心苦しげな横顔にさらに胸をうたれる想いだった。
“こたびこそは私をお連れくださいませ”
サヨリは久政の足元に跪いて懇願した。
こたびこそは、と言うのは、織田との雌雄を決する先の姉川での合戦時にはサヨリは久政に同行を許されず、この島で久政の帰還をただ指をくわえて待っているだけだったことを指している。
織田軍は浅井家の本拠である小谷城の急所を押さえるように、そのすぐ南東にある横山城を前線基地として兵力を集め、さらに虎御前山をはじめとして小谷城周辺に砦を多数築いているという話も聞く。
織田信長は今回、浅井家の息の根を止めるつもりで攻めてくるのだろう。
この小谷行きについていけなくなれば、久政とは今生の別れとなってしまうかもしれないのだ。
サヨリとしては心を交わした久政の窮地に同道できないのは何よりも耐え難い苦痛だった。
“一族の掟はどうするのだ?”
一族の血を引く者が誰か一人は常に島にいなければならない。
久政が言うサヨリの一族の掟とはこれだ。
“私が島から離れても、血を引く者が島に残っていれば神畜の掟は守られます”
“タキとイツキを残せば良いということか”
“はい”
二人は久政とサヨリとの間に生まれた女子だ。
タキは十歳。
イツキは七歳になった。
“確かにそれで掟は守られるのだろうが、二人の母としてそれで良いのか?”
久政にこう訊ねられることは分かっていた。
サヨリはかねてより考えていた存念を口にした。
“神畜に課せられた使命は島を護ることと主に仕えることの二つにござりまする。この二つの掟を護ることが全て。それ以外のことは畜には必要のないもの。あの子たちも神畜。私がいなくなって一時はつらいでしょうが、神畜なら強く生きて……”
そのとき突如として雷鳴が轟くように無数の銃声があたりにこだましてサヨリの言葉を遮った。
同時に見張りと思われる男たちの断末魔があがる。
敵襲!敵襲!
島のあちこちから非常事態を告げる浅井兵の金切り声が聞こえる。
サヨリは立ち上がると久政を背に庇うようにして周囲を見渡した。
鼻を狼に変化させる。火薬のにおいが東から漂ってくる。
まずい。
今夜は月が出ていない。
星々は数多きらめいているが、いかんせん月明かりには程遠い。
夜襲にはもってこいの日だ。
敵は夜陰にまぎれ息を潜め、慌てふためく浅井兵を遠くから狙い撃ちにするばかり。
大殿!大殿!
廊下を重量感のある足音が駆けてくる。
「久右衛門か?」
脇坂久右衛門。
浅井家の家老であり、久政が最も信頼している側近だ。
六尺は優にある堂々たる体躯だが、俊敏さも持ち合わせ、戦場では無類の強さを誇る。
姉川の戦いでの奮戦ぶりも、久政の寝物語にサヨリは何度も聞かされた。
サヨリは鼻を人の姿に戻し、久政の背後に控え久右衛門を待った。
久右衛門は寝所の前の廊下で久政を見つけると片膝をついた。
「大殿。戦支度を」
久右衛門はチラッとサヨリの方を見たが、すぐに視線を久政に戻した。
冷淡な視線だった。
久右衛門がサヨリの存在を好ましく思っていないのは分かっている。
久政の手前、何も言わないが、心の中では得体の知れない女に主が絡めとられてしまった、と嘆いているのだろう。
久右衛門だけではない。
久政の家臣はみな、サヨリに対して久右衛門と似たり寄ったりの態度だ。
それも分からないことではない。
何せ、その女は姿を様々な獣に変化させるのだから。
浅井家の面々と出会ってから既に十三年になるが、サヨリのことを未だに信じ切れず、怪しげな術を使って久政の心を奪った魔物と忌んでもいるだろう。
それが姉川の合戦のときに久右衛門をはじめとした家臣団がサヨリの従軍に異を唱えた大きな理由の一つだったに違いない。
「相手は誰か?」
「分かりませぬが、信長の手の者で間違いありますまい」
「数は?」
「分かりませぬ。今宵は月が出ておりませぬゆえ、見通しがききにくうございます。また、下手に灯りをたくと、すぐさま蜂の巣にされてしまいまする」
さすが、歴戦の武者。
久右衛門の声はこの事態に至っても落ち着いている。
しかし、その口が伝える状況はなかなかに厳しい。
姿の見えない敵とは戦いようがない。
「では、いかがいたす?」
久政の声はのんびりしていた。
悪く言えば他人事に聞こえる。
こういうところから久政は乱世に生きる武将としては物足りぬと蔑まれることがあるようだ。
「さて。どうしたものか」
久右衛門は顎を撫でながらこちらも悠長に言った。
「久右衛門。そちの言いたいことは分かっておる。すまなんだ。この通りじゃ。とにかく今はこの場をどうするかじゃ」
久政は軽く頭を垂れて久右衛門に言葉を促した。
もともと久右衛門は今回の島への逗留に反発していた。
姉川での敗北以後、浅井家は存亡の危機を迎えている。
その折に、隠居したとは言え、当主長政の実父が城を留守にして良いはずがない、というのが久右衛門の言い分だ。
久政としては、浅井家の状況を理解しているからこそ決戦の前に愛着あるこの島に来たかったのだろうが、御家の大事を思う久右衛門の気持ちも痛いほど分かる。
「しからば申し上げまする。今しばらくは敵の出方を見るほか、ありますまい。敵襲は島の東側から鉄砲を打ちかけてまいりました。遠方からの打ちかけであれば、無闇に応戦する必要もござりません。楯を並べて守りに徹するのみ。島に乗り込んでくるようでしたら、そのときは灯りをたいて応戦いたしまする。ただ……」
「ただ?」
「島の手勢は少のうございます。衆寡敵せずとなれば、大殿には早々に島を出て小谷に向かっていただかねばなりません」
隠居の身の久政はサヨリとの静かなときを求め、ここに来ている。
そのため従者も限られていた。
そもそも琵琶湖に浮かぶこの狭い島に多くの兵士は常駐できない。
「あいわかった。全てそちに任せる。わしは支度をして本堂で待っておる」
久政は相変わらず平然としたもので、ゆっくりと草履を脱いで廊下に上がった。
久右衛門は「はっ」と返事を残して即座に立ち去った。
入れ替わりに愛娘たちが現れた。
姉に手を引かれていたイツキは母親の姿を暗闇に認めると「母上」と泣きべそをかきながら駆け寄ってきた。
「イツキ。泣かずともよい。母がおる」
サヨリは縋り付いてくるイツキを抱きしめ震える背中をさすってやった。
末娘のイツキは七歳になっても母恋しい甘えん坊の泣き虫だ。
「母上。敵は何者ですか?」
タキが思い詰めた声で訊ねてきた。
まだ十歳だが、取り乱す様子がないのはさすがしっかり者の姉だとサヨリは嬉しく思った。
「島の東から攻めたててきたようだが、数も、相手が誰かさえも未だ分からぬ」
「私が見てまいりまする」
そう言うだろうと、サヨリは分かっていたが、それを聞いた久政は「これこれ。何を言う」と驚いた声をあげる。
「そちは女子。しかもまだ子供ではないか。母とここで待っておれ」
「父上。タキはもう子供ではございません。しかも私は夜目が利きます。鷹となってひとっ飛びして敵が誰で、数がいかほどか見てくることぐらい造作もないこと。せめてこれぐらいはさせてくださいませ」
もちろんタキも一族の血を引いており、サヨリと比べればまだ数は少ないが獣に変化できる。
タキの言う通り鷹となって物見をするぐらいはこなせるだろう、とサヨリは思った。
敵が分からないでは浅井側も次の手を選択できない。
最悪の場合に備えて自分が久政のそばを離れられないとなれば、今はタキを使うしかない。
しかもタキは「せめてこれぐらい」と言った。
つい先日まではいざという時にはサヨリと一緒に小谷へ行くと強情だったが、漸く掟に従い島に残りイツキの面倒を見ることを承知してくれたのだろう。
母にもしもの時があれば、お前が島を護りイツキを守るのですよ。
賢いタキならこの母の言葉に忠実に従ってくれるはずだ。
「殿。此度はタキにお任せください。鷹となって高く飛べば、よもや敵に捕まることはござりますまい」
「ふむ。そちが言うのならな……。しかし、無理はするなよ」
久政が許可を与えるや否や、タキは背中から大きく羽を伸ばし見る間に鷹に姿を変え、キーと一鳴きすると飛び立った。