アクマの主になりまして
ふわりと彼の足が大地に着いた。
ゆっくりと降りている最中、私は怖くてこれの首に手を回して必死にしがみついていた。
2対の黒い翼を持つ、自称『悪魔』の彼に。
「さぁ、着いたよ」
そう言いながら私をそっと降ろす彼。周りにいた数人の目には、私達の姿は写っていないようだった。誰一人、見向きもしない。
「かくれんぼは得意でね」
私の疑問を見透かすように彼が微笑んだ。
「本当に、悪魔なの?」
「疑り深いんだね。この翼が本物なのは今見せたろう?」
そう言いながらクスクスと笑う彼の穏やかな雰囲気は実際に翼が在っても、とても悪魔なんかには見えなかった。
「悪魔が見た目のまま悪魔だったら、誰も騙されはしないさ」
すうっと翼が消えていく。完全に見えなくなったところで、彼が私に跪く。
「これで貴女様の願いは全てですか? 我が君」
真摯な眼差しで射抜かれると、ドクンと心臓が跳ねた。
「良いかい、命。俺は悪魔で、結ばれた契約に従い君の魂を欲しているけど、君の命を刈り取る訳じゃない。それは死神の領分だからね。君の死に際に君の魂を貰い受ける。それまでの君の人生は自由だ。まだ、続くんだよ。君の命は。分かるかい?」
ドクンドクンと心臓の音が早くなっていく。
そうだ。これで終わりじゃない。
彼は……この男は知っているんだ。私の現状を。知っていて、言ってる。自称に違わぬ悪魔の言葉。
「俺は盟約に従い、君の傍で願いを叶え続ける。君の望むままに」
自分の鼓動を、けたたましく感じた。
「何でも……叶えてくれるの……?」
「俺に出来る全てを、君のために」
目が離せない。優しい深い紅から。
「我が名はアスモデウス。地獄を統べる公爵の一人。交わされた盟約に従い、盟主・命に生涯の忠誠を誓う者。さぁ、何なりと御命令を。我が主よ」
彼の唇から紡がれていく口上は、甘美な毒のように私の心を捕らえて……
「私を……私を助けてっ!」
気が付くと、私は思わず叫んでいた。
「御意のままに。我が君」
そう応えながら、彼は恭しく私の手の甲に唇を押し当てる。お姫様に忠誠を誓う騎士のように。
†††††
「で、何でアナタがここにいるの?」
寮にある自室。そこに戻った私を、部屋の
中で自称『悪魔』の男──アスモデウスが待ちかまえていた。
「なんでって、命を護るために決まってる」
さも当然のように真剣な表情で応えるとにっこりと満面の笑顔を浮かべた。
あの後、私を寮まで送り届けてくれた彼は私が振り返ると忽然と姿を消していた。
どこに行ったのだろうとは思っていたけど……。
「ここ、女子寮なんだけど」
「そう書いてあったね」
「男子禁制なんだけど」
「らしいね」
笑顔を崩さずに応じる彼。絶対分かってて遊んでる。
「クスクス……何のことかな?」
「もう! 私の心を覗かないで!」
「覗いてるわけじゃない。見えちゃうのさ。俺達は盟約で魂が繋がっているからね」
「それでも嫌なモノは嫌なの!」
「気をつけるよ」
肩をすくめる彼に悪びれた様子はない。
「もう……」
呟きながら鞄を机に置きブレザーをハンガーに掛けるとネクタイに手をかける私。
「出てって」
「なぜ?」
「分かるでしょ?! 着替えるの!」
「クスクス……あんまり大声出すと聞こえちゃうよ? 命は一人部屋なんだから変な子だと思われちゃうよ」
「っ?!」
彼の言葉に、耳まで熱くなるのを感じる。
「あんたのせいでしょ! 出てって!!」
解いたネクタイを投げつけてやる。
今日初めて逢ったはずの彼の言動は、ここに来るまで何度も私の心をざわつかせている(決して不快じゃないのは内緒だ。絶対からかわれるから)。
「おぉ、怖い」
愉しげにそう言った彼の姿が私の視界から消えた。
この自称『悪魔』は不可視の魔法が得意だとか言っていたのでそれで姿を眩ませたんだと思って私は慌てた。
「ちょっと! か、隠れて覗くのもダメだからね?!」
「失礼だな、そんな事しないよ」
その声が聞こえたのは足下からだ。
視線を下ろすと今までそこには居なかった黒猫が、私の横をすり抜けたところだった。
「ここなら構わないだろ?」
そうアスモデウスの声で言いながらベッドの下に潜り込んでいく。
「え? え?!」
「掃除はちゃんとしてあるみたいだし、覗きを疑われちゃ敵わないからね」
どうも猫へと姿を変えたらしい。尻尾の先だけがひょろっと顔を出しユラユラと揺れている。
尻尾を出してるのはわざと? 確かにこれならどこにいるか分かるし姿を消されるよりはマシだけど……。
「……出てこないでよ?」
「生憎、貧相な子供の身体に興味はないさ」
「バカ! セクハラ!」
ああやってちょこちょこ私をからかってくるのは絶対わざとだ。でも、部屋に戻るまでに気持ちは軽くなった──気はする。
本当に変なヤツ。
「そう言えば、どんな手で私を助けるつもり?」
ブラウスを脱ぎながら、ふと疑問をアスモデウスにぶつけてみた。実際に気になったし、会話を続けていないと(いつの間にか覗かれそうで)不安だ。
「魔法……みたいなのでパッと無くなるもの?」
私の言葉に、アスモデウスは意外と真摯な言葉で返事をしてくれた。
「悪いけど、それは無理だよ。魔術って言うのはそんなに万能じゃない。人の心を動かす力は魔術にはないんだ」
シャツを着ながら聞き返す。
「……どういうこと?」
「命が受けてるような陰湿な類のイジメも、国家間の戦争も、その規模に関わらず争いってヤツは人の心が引き起こすものだ。人の心を動かせない魔術には当然それを止める力はない。もしそんなことが出来るのなら、今頃この世界から戦争は無くなっているし、それを止める力を持つ俺たちが『神』と崇められてるさ」
ジャージを履きかけたところで私の手が止まってしまった。
確かに、そうかもしれない。妙な納得。でもそれじゃあ──
「どうやって私を助けてくれるの? 命だけ助けておいて嘘……なんて言わないよね……?」
一気に血の気が引いていく。悪魔に助けられた命だけど、このまま生き地獄に居るだけなんてそんなっ……。
心に去来する恐怖。それを打ち消すように、彼の優しげな言葉が私の心を包んでくれた。
「心配ない。悪魔は嘘をついても盟約を破ったりしないよ。俺が必ず命を護る。今度こそね」