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1.別れ

すべてはいつも通りだった。



休みが合った日に二人が観たいと声を揃えた映画を観に行き、お決まりの公園を散歩して行きつけの和食屋で映画の感想を語り合う。


誰もがするような普通なデートがお互いに好きだった。



5つ年上の彼とはもう4年の付き合いで、だんだんと落ち着いた仲になってきたと感じるようになってきたところだ。


私は彼───、利晃(としあき)を深く愛していた。

28になった今、こんなにも落ち着いた心地のいい関係をもてる相手は彼しかいないと思うほどに。



そんな私たちは、すこしへんな出逢いかたをした。



5年前、私がデザイナーになるための専門学校に通っていた頃だった。


任された大きな企画で失敗をし、深く落ち込んだ私は一生懸命描いたデザイン画を捨ててしまおうと川原でひとり座り込んでいた。

思い描く夢をかなえるなんてほど遠いことなんだと初めて実感した私には耐えきれない孤独と絶望がいっきにのしかかっていて、はじめて挫折というものを経験した瞬間だった。

天真爛漫、自由奔放と昔から言われ、それなりに勉強もスポーツもできるほうで自分には自信があった。

なんだってできる、やりたいことはかなえてみせる、そんな過信は大人になるにつれ通用しなくなることなんて、若い私には想像のできないことだった。


捨ててしまいたいけれどいとおしい紙切れを抱きしめ泣いていると、スーツを着た黒髪で長身の男性がスッと私のとなりに歩み寄ってくるのが見えて私は涙をぬぐい顔を上げた。



「どうされたんです?」



心配そうに訪ねてくる彼もまた、なにかに悩んでいるような覇気のない顔をしてる。



「いえ...、あなたこそどうしてこんなところで?」


「僕はね、これを捨てにきたんです」


彼が持っていたのは分厚いフォトブックだった。


「どうして?綺麗な写真がたくさん...」


ぱらぱらとめくりその美しさに見入っていると、すぐ隣から弱々しく笑う声がする。

彼は写真家志望だった。

私の目線の高さに合わせてしゃがんでくれていた彼は静かに立ち上がり、川の向こう側を見据えて視線をずらすことなく言う。


「どうしても駄目で。これを持ってるとまた気づいたら夢をみてそうで、踏ん切りをつけるために燃やしてしまおうと思ったんです」


ちゃんとした職も見つかりそうだし、と付け足して下をむいた彼の表情はとても綺麗で儚かった。

私もつられて下を向くと、自分が描いた大切なデザイン画集と彼が撮ったフォトブック(きっと彼も大切にしているだろう)が並んで転がっている。

その2つには共通して色があった。赤と、黒と、緑と、言葉じゃ表せないような不思議な色と。

それらは無条件に綺麗だった。ブラウスがこうであればきっと素敵だと思って付けたさくら色も、彼がふと散歩中に魅せられた夕焼けのオレンジ色も。


しばらく二人でうつむいていたら、さっきまで青々と光っていた空が影を落とし始めた。

何分こうしているだろう。鳥たちが山に帰るために群れをつくって飛んでいる。


「……違うんです」


自然に気を取られていると、隣で小さな声がした。

驚いて声の方向をみると、彼が自分のフォトブックを抱きしめながら空をみあげて静かに笑みをうかべている。


「毎日違うんです、空。本当に」


空を見上げたまま、はじめて嬉しそうな声で話す彼の目線を追うように空を見上げると、小さな雲が三つ浮かんでいた。形を変えながら。


「晴れてても泣いていたり、雨が降っても喜んでたり、写真を撮ってみるとまた違った色になってたり。毎日、いや、1分でも1秒でも変わり続けるんですよね」


当り前のようなことを言い、だから写真を撮るんですと付け足してくしゃっと笑った。

それをみてからまたフォトブックに目を移すと、さっきまで見ていた夕焼けの写真が何倍もきれいにみえた。

本当に写真が好きなんだと実感して、私も胸が熱くなる。


「わたしも…、空、好きです。そらいろって色があるけれど、ほんとはどんな色なんだろうって。きっと青じゃないんじゃないかな」


ひかえめに照れ笑いをしながら私が言うと、彼は目をすこし見開いて笑う。


「面白いね。でも僕は青だと思う。ただ表情を変えるだけ。人間と同じで、空にも感情はあると思うから。あなたのブラウスの水色だって、澄んでいて空みたいだ」


そういって私のデザイン画のひとつを指さし笑う。

つられて私も声をあげて笑った。


「不思議なひと。空の色なんか、私は気にしたことなかった。まだ私が夢にがむしゃらだった頃にあなたと出会いたかったな」


「僕もそう思った」


そういってまた笑い合う。



なにかを諦めた2人が、静かな川原でほんのひと時だけ子供のように夢を語り合った不思議な時間。


その瞬間だけ私はデザイナーに、彼は写真家になった。


「僕の家の近くにね、すてきな川があるんです。ここよりもずっと水がきれいで草が活きていて。今度またそこでお話しましょう」


手帳の後ろのページをやぶり、電話番号を書いて渡されたのを受け取り、私は笑顔で「是非」と答えた。

こんなことまじめに言ったら笑われてしまうんだろうけれど、わたしには魔法の番号にみえた。


しばらく心になかった感情をすこし思い出したような気がしたのは、ただの気のせいだったのかな。



彼とは何度も会い、絵や写真を互いにプレゼントし合い、いつしか彼といる時間はだんだんと宝物になっていった。

彼もそうだと、頬を赤らめて言った。



そんな出逢いをしたわたしたちが惹かれあってこうして一緒にいるのはきっと運命なのだと信じて私は彼に寄り添う。


5年経った今でも彼が撮った夕焼けの写真は携帯の待ち受けになっているし、いまでも二人でいるときは私はデザイナーでいられるのだ。



「コーヒーでも飲もうか」


化粧室に行っていたわたしが戻ると、食事を終えた利晃が勘定を済ませて席を立っていた。


「そうね。お店を変える?」


「そうだね。話したいこともあってさ。静かな店にいこう」


店を出て利晃の行きつけのカフェへ向かう。

暗がりを手をつないで歩くのが心地よかった。

少し狭い路地にはいり小さなポストをまがると、すぐそこにカフェが二軒並んで建っている。

利晃が愛用しているのは、奥の緑色の小ぢんまりとした個人経営のカフェだ。


「コーヒーをふたつお願いします」


木でできた洒落たテーブル席に通され、利晃はいつものようにコーヒーを頼む。

いつもいる店員さんが「ミルクをつけますよね」と利晃に微笑み、つぎに私に目を移した。


「あ…、私はブラックで結構です」


「かしこまりました」



コーヒーを待つ間、わたしたちは他愛のない話をした。

仕事の愚痴や、生活のこと、このあいだ二人で行った温泉のこと。


そういえば、利晃は最近ほとんど写真の話をしなくなった。

特にどうだということはないけれど、自然とわたしもデザインの話をしなくなった気がする。たまに思い出してする話も、あのころはどうかしてたよと笑って話すくらいだ。


とぎれとぎれに会話をしていると、香りのいいコーヒーが運ばれてきた。

彼にはミルクがついて、わたしはブラックのままで。


「ここのコーヒーはほんとにおいしいよな」


「そうね、ブラックで飲めないのがかわいそうなくらい」


私が意地悪く笑うと、利晃は子供のように頬を膨らませてから笑う。


「大人になりきれなくってさ」


「そんなところがまたいいんじゃないの」


そういって半分だけ残してあったミルクを全部入れてあげようとすると、利晃は焦って私の手を止める。

どうやら苦すぎず、甘すぎずがちょうどいいらしかった。


そんないつものような会話やじゃれあいで、私は幸せに浸りながら目の前の愛しい存在を心に焼き付けるように見つめた。

向けてくれる控えめな笑顔が愛しい。


私は愛していた。

考えると自然と涙が出てしまうほどに。



私たちはとくに特別な話をすることもなくカフェを出て、いつものように帰り道で触れる程度のキスをした。

家まで送るよと利晃が言い繁華街をふたりで歩いていると、利晃はふいに私の手をにぎり、小さくわたしの名前をつぶやく。


「梨絵子」



あなたにだけ呼んで欲しい名前。

あなたに呼ばれるだけで自分は世界一素敵な名前を持ったヒロインになる。

私の名前を呼ぶ利晃の声が大好きだった。


呼ばれて顔をあげると、利晃は私の顔をちらちらと見ながら「あのさ」と言う。


いつもより少しだけ落ち着きのない彼の目をまっすぐ見ると、彼は目をそらし、少し震えたような頼りない声で「カフェではやっぱり言えなかったんだけど」と言った。


「どうしたの?」


「わかってほしくて言うわけじゃないんだ。今更だし、梨絵子がどうこうじゃない、俺自身の問題で、俺の勝手なんだけれど」


「ええ、なに?」


眉間に皺を寄せて、利晃は額に手をあてて言った。



「もう、会わないようにしよう」




そう言ってすぐに小さな声でごめん、と呟いた。



────もう、会わないようにしよう



突然の言葉に咄嗟に彼の顔を見上げると、その目はもうこちらを見てはいなかった。



「…なんで…?」



冗談でしょ?と笑うと、利晃は力なくただ「ごめん」と繰り返した。



理由があるでしょ?

他に好きな人でもできた?

私、しつこくしてしまった?


聞きたいことがたくさんあったけど、思うとおり声が出てくれない。


突然すぎる。

さっきまで恋人として笑い合っていたはずなのに。



「どうして…」



利晃はもう一度私の手を握った。

あの綺麗な写真はこの手で撮っているんだと思うと愛しくて愛しくてしょうがなかった大きな手。


「梨絵子…、俺は夢を諦めたいんだ」


下を向きつぶやく彼の言葉が理解できずに堪えられない涙が流れた。


「なに…?意味わからないよ利晃…」


「家まで送るって言ったのにごめん」



そう言って利晃は人混みの中で私に背をむけて歩き出した。



「やだっ、待っ…」



呼び止めようと小走りで追いかけて、足が止まった。

私は街の真ん中で男の腕を掴み泣きじゃくるようなバカな女じゃない。


くだらないプライドが確かな理由もなく引き止める。



「なん…なんで…わからない…」



大きな声で呼び止めることもできずしゃがみこんで泣くこともできないまま、彼は賑わう繁華街へと消えてしまった。



「あっ…」




呼び止めたくて声を出そうとしたけれど、うまく声にならない。



そういえば、久々に涙を流した気がする。


泣き方も忘れてしまうほど常に幸せだったことを思い出し、さらに心が苦しくなった。



せめて、理由くらいは教えてほしかった。


さっきまでどんな気持ちで笑っていたのか、私はあなたにとってどんな存在だったのか、私がどうあればあなたの傍においてもらえたのか。


なにもわからない。



私は繁華街で立ち尽くし、見栄をはって履いてきた高いピンヒール靴に目を落とす。

涙が同時に地面におちた。






わたしは世界一哀れな女だった。








どうして気付けなかったんだろう。

大好きなら、私が気づくべきだったんだろうか。


彼の声色がいつもと違うとか、笑顔に躊躇いがあったとか、もう私をみていないことくらい。

大好き大好きと思っていながら、私はもしかしたら利晃のなにも見ていなかったのかもしれない。




すべてが崩れる音がした。




その場を引き返すのがやっとで、元来た道を無心で歩いた。



家に帰ったらゆっくり整理しよう。





私は夜の街を泣きながらやっと歩いた。















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