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素晴らしき医世界

作者: 中ノ 晁

 今にも事切れそうな白熱灯が灯ったり消えたりするのもだから、眼球は視覚を満足に伝達できない。そうするとこの水晶質の球体は世界を内包する感覚器官という神秘を失い、動的に継続せず細切れで蓄積されていく世界の絵が記憶のキャパシティを無意識に圧迫し、急かしい居心地の悪さばかり脳に訴える不快器官と成りはてる。

さりとて私は目を瞑るにも行かぬ訳で、その瞼をしょぼしょぼさせながら古い地下通路ゆく。そんな我が姿は傍から見ればあたかも元祖怪人伝奇あたりのコマ切れで進むビンテージモノクロ映画の場面めいていることであろう絵が予想される。

牛頭あたりヌッと現れそうな暗い路地の突き当たり、薄暗い中でコンクリートとは異なる黒ずんだ鋼の光沢が近づいてようやく見てとれる、それは丸い扉だ。見るからに重厚そうで、実際その通りなのである。円盤というよりは円柱に近いその扉は弾頭も物ともしない心強さがある。そこに取り付けてあるハンドルを回しその防水壁じみた鋼鉄の扉を押し開ければ、古い発電機の排熱で膨張した部屋の空気がたちまちうす寒い地下道へと溢れだし、劣悪な隠れ住まいの故の埃と古い精油の臭いが、むうっと顔に吹きつけて私はちょっと顔を背けた。

熱烈な歓迎に辟易しながらも扉を閉じ封鎖するためにまた錆びついたハンドルを荒波に立ち向かう操舵手のように私は回すのだ。それをようやく終える頃にはこの不快な臭いも鼻に慣れてしまうものだから、私はろくに隠れ家の風紀清潔の向上に努めようと瞬間的に思ったとしても実行に移されることなく、草臥れた体でそのままスプリングの壊れたソファーにどっぷり浸り込む。そんな生活がもう1年になる。

2XXXX年、世界は核の炎に包まれた。――というのはもはや何度目のことか知れない。多い頃は一日に3発くらいは地球のどこかで科学の光が瞬いたものだ。数百年前にあった、さっきの文句……確かニホンという名の国で流行ったある漫画の冒頭にこんな預言めいた吹き出しがあったのだ。

私はこういった過去の遺物に興味を抱き蒐集しているのだが、それを屑山から見つけ出すのは大変骨の折れる作業である。

それらの作品よりも数世紀遡るルネッサンス期のもののほうが流通量が少なかったにも関わらずよく見つかり保存状態も良好であるというのは間々あることだ。娯楽商業文化が淘汰されて高尚な芸術が後世に残るという事実に目を向けずに、古き良き時代に最高の芸術は生まれつくしてしまったと嘆くことは見当違いも甚だしい。だがしかし、私一人くらいはその淘汰されるべき粗悪品を愛しても構いやしないだろうと思うのだ。木を見て森を見ず、いや骨を見て地層を見ずとでも言うべきか。移ろう時を止めて、人はものを見ることが出来るのだと示さねばならない。


 話がずれてしまった、いや必ずしもこれが本題と関わりの無い話ではないのだが、つまるところ私がこうして隠れ家で手記をつけているのは核爆弾の影響ではなく、医端審問会に追われているからなのである。げに恐ろしき医端審問会。

彼らの裁判にかけられその目に留まれば最後、患者は治療を受けなければならない。その『治療』とは、聞こえはいいが実際のところは実証主義者の遊びであると言って過言でない。患者は心身を秘密警察の尋問よろしく調べあげられ弄ばれた挙句に所謂、治されるべき部分にメスを入れられるという。戻ってきた者もいるし、またそうでなかった者もいる。ただ一つ言えることは、いずれにせよ『以前の』彼らはもう戻って来ないということだ。

収容された者は人類と医者の将来を約束するための礎となり、さらに保有する患者の数量は即ちその治療施設に組織上層部から分配される予算を定める目安でもあるから患者が多くて困ることは無い。

もはやそれは診断でなく、誰が言ったかそれは紛れも無く狩猟かそれに類するなにかであった。哀れな獲物を狙うその狩猟者は『黒衣のホルス』と呼ばれる、気味の悪い連中である。古代エジプトで祀られた、太陽の化身であり不死を与える鳥頭の神だというが、烏のマスクに黒いコートと広いつばの草臥れた帽子は実に陰気だ。そしてかくいう私も、この異形に狙われているのである。


 勿論、そのときはまだ私はこんな隠れ住まいをせずに、普通の忙しい生活を送っていた。雨季の明けた頃、貯まった雨水に沸く羽虫に辟易しながら、私が職場に申請してようやく獲得できた一日の休日に、屑山で遺物収集を行っていたところ、それは何気なく現れたのだ。場違いに陽気な黄色い塗装の装甲車が、轍の泥水を大袈裟に散らしながらゴミ山の間を縫って走ってきていた。私がその馬鹿げた車を奇妙に思って遠巻きに眺めていると、蛇行しながらもまっしぐらに、まるで出来の悪いアクション映画のようにこちらへ向かってくるではないか。異様な感じがして発掘中の山から急ぎ下山すると同時に、それは私の行く手を遮る形で急ブレーキをかけた。そして間髪いれずに中から出てきたのは黒衣のホルスたちである。

私のちょっと変わった趣味を近所の誰かが密告したのだろう、抵抗する間もなくたちまちにして私は捕縛され、医端審問会に連れ去られてしまった。


 病気は存在するか。その問いは如何にして答えるべきだろう。人間に限らず、生物は単体で生存しているのではない。どんな清潔な人間でも食物の消化を促進する微生物を体内に宿しているし、表皮にも老廃物を食べるダニやら得体の知れない虫が跳梁跋扈している。対象がそれ以外の遺伝子による活動の場となる状況は何ら異常ではない、つまり正常なのだ。他の遺伝子の介入を病気とするならば我々は常に病気であるということになってしまう。

ではここからは言葉を用いて考えてみよう。例えば風邪を引いた、癌になった――つまり健康ではないという場合、それを俗世間では病気と呼ぶ。では病気の反対語である健康とは。体が持続可能な恒常的な状態にあることだ。

だがしかし、例えばなんの疾患も無かった年月よりも疾患のある状態の方が長かったのならば、それがその人にとってはある種「恒常的」となるのではないか? 少なくとも、短期間で治癒したり死に至るもの以外を病気とは呼べないことになる。しかもそれは、個人によって期間が異なることなので、まったくあてにならない基準であるということが簡単に証明できる。

では、それを患わなければ生きられたであろう年月を算出して長短を比べるならばどうか。架空の理想的健康状態との比較。それによって健康を害されたか否かを判断し、人体に仇成すとみなされたそれを病気と呼ぶならば。だがそうすると今度は、小さな鼻風邪などすぐに治癒する症状は病気とは呼べなくなる。それを患ったところで余命が削られることはないのだから。

モデルケースとしての生命の活動を害する働きをすべて病気と呼ぶのはどうであろう。生命の活動、つまりは理想的な健康状態である。これでは楽園という最高の健康状態を保てる場所をなんの因果か追放されたアダムとイヴがすべての病気の根源であると告発し、理想寿命年齢に到らず死んだ人間はすべて病気をその死の原因とする。それはウイルスから精神活動の齟齬に到るまで、カンブリア爆発の如く多種多様な病気を生みだすことになるだろう。健康スケジュールから少しでも外れた状態はすべからくそう認識されねばならないからだ。逆に、基準を越えて長寿を迎えた人間は新たな理想寿命年齢の基準となり、人々は画一された生命の砂時計が規定より早く落ちつくすことを恐れて生きることになる。もちろん、基準まで生きた人間にも死因は必然的に存在するので、その死因がなかった場合の生存期間も加算して基準とする。まあ面白い解釈だが、それはこの世に死のある限り我々には病気より他の状態がないことを永久に示し続ける。だがそれでは逆説的に、健康という概念が無ければ病気という概念も無いに等しいことになってしまうのではないだろうか。この説では生命活動そのものが観念としての『人体』を害していることに他ならないのだから。

病気の定義が、本人が以前の状態へ治癒を望む状態にあることとした場合はどうだろうか。確かにそれならばそのときの状態は異常である。が、それではまるで唯我論である。また潜在的な疾患疾病は存在しないことになり、死してそれ以上の治癒は見込めない永遠の健康状態の肉体を手に入れるという帰結になってしまえばまるで何かの宗教のようだ。先の説と同様に、人は死から逃れられないという前提を肯定的にとらえなければ、これらの説は共感を得られないだろう。尤も、医学が死を肯定的にとらえる事が出来たのなら問題は始めから発生しえないのかも知れない。

次に、ヴィトゲンシュタイン的解釈で病気を考えてみるとどうだろうか。病気の存在を証明するには、それを構成する症状を精密に羅列し、つまり当てはまる項目を式とし、等号によって病名を結ぶ。これは確かに明確だ。が、そもそも病気という概念それ自体を語りえないのだから、この問いはナンセンスの一言で片づけられてしまう。


 病気とは統計的に認識される。それが彼らの答えである。大多数の人間の位置するところが正常であり、端に寄ればより少数、つまりそれは異常なのである。その少数の数値を、ある種では先のヴィトゲンシュタインのようにカテゴライズし、名前を付けて始めて『病気』はこの世に現れる。病気を駆除する医者が駆除すべき病気を生みだすのだ。そして私の行動は、この哲学の方針に従って「病気」と診断されたのだ。


 審問会の結論を待つまでに入れられる予備病棟から私が逃げおおせたのは、幸運に恵まれていたからに他ならない。我々を支配する医世界に対抗するレジスタンス達が、ちょうど施設に収容されていた彼らの同胞を助ける為に襲撃が行われたのである。その混乱に乗じて、私は鉄の牢をまんまと抜け出した。

そのままレジスタンスに加わろうかとも思ったのだが、どうにも彼らが言うにはそういう組織は存在せず、ただ個人がその意志によって行動し、ときには今のように連続的複合的な攻撃に到る場合もあるのだというから、まさに病気のようだなとそのとき私は笑いかけた。

個人の意思だって、それが病気でないと証明出来ようか? 肉体に精神が宿り生命と成るというのが正当化するための詭弁で、実はタンパク質の塊たる肉体に脳髄という知的寄生生命体が憑依して、こうしてものを考えている私は『私』でなく脳髄というワタシだったりするのかも知れない。

まあいずれにせよ、問題は黒衣のホルス達からいつまで逃げていられるかである。逃亡生活には慣れてきたが、常に危機と隣り合わせの生き様はハードボイルドとは決して言えない私の虚弱な精神を疲弊させる一方だ。これでは病気にでもなってしまう。

或る日、たまたま巡り合った同じく逃亡中の男から、こんな話を聞いた。

「○×区画に隠れてる仲間がいるんだが、変わった奴で紙幣とか硬貨の蒐集家なんだ。それも別に珍しいものじゃなく、普通に流通してるやつを大富豪レベルで大量に保有してるみたいでな。物質的な意味での守銭奴なのさ。ところが最近になって、どうした訳か今度は猫の蒐集に目覚め出してな。金を持ってるものだからそこらじゅうから猫を買いあさってるらしい。今は不景気だからな。逃亡者も健康な市民も、皆猫を探しまわってるよ。お前でも野良ネコを捕まえて持っていけば買ってくれると思うぜ」

生活資金に困窮していた私は野良ネコを3匹ばかり捕まえていい値段で買ってもらい、その夜は久々に牛肉のステーキを喰ったのである。しかししばらくして、巷で酷い病が流行り出した。体に黒い斑点が現れ、それから半刻もしないうちに喀血し苦しみぬいた挙句に死に到るという恐ろしいものである。

が、私はそんなこともお構いなしに猫を売っていた。私の住む古い地下通路には野良ネコが豊富にいたからである。噂では猫が病原菌でそれに触れた者が最近多くいたから病がこれほど流行したと言われているが、上記の理由から私は噂を信じていなかった。それどころか、売ろうとした猫に情が移り、狭い部屋で飼い始めたりもしているうちに家には3匹の猫が住み着くことになってしまった。

しかし如何せん、猫の飼育方法が分からない。追われる身ゆえに表町の本屋に行く訳にも行かず、そうだ猫の蒐集家に聞けばよいではないかという事になって彼の隠れ家へやってきた。運が良ければ会えるかもしれないし、会えることは逆に不運であるかもしれない。という仲間からの曖昧な情報を頼りにやってきたが、どうやらそこに彼はいるようだった。


「俺が猫を集めたのは、金を町にばら撒くためさ。金は多くの人間が患う病の元だ。もともと貨幣の偉大で繊細な美しさに魅入られていたから、金という価値でしかそれを見られない輩から貨幣を救済するつもりでもあったし、その人間の病を失くすためにも金の正しい使い方を知る俺が責任をもって蒐集していた。だが、奴らめ或るまとまりかかった大きな交渉の途中で俺を医端審問に売り渡し、金を払わず品物だけせしめようとしたのさ。命からがら収容所行きを逃れた俺は、復讐の為に金をばら撒いた。資本経済学的に見れば俺の行動は正しいから、政府は俺を裁けない。そしてそのまま、世間の奴らは金の美しい恐ろしさに逆襲されて滅びるのさ」


大体彼は、私に薄いコーヒーを出しながらこのようなことを言った。彼は長身痩躯を丸め込んで弧を描くような前傾姿勢のまま、顔だけが垂直にたってこちらに微笑みかけてくる。そしてこう続けた。


「だが、今の終末的な流行病は金が原因って訳じゃなさそうだなあ」


詰まらなさそうに言う彼に、私は「そうでしょうね」と同意し頷いた。少なくとも突発性集団金属アレルギーという病気は記憶に無かったからである。

彼は口を尖らせ口笛で何か古い民謡めいた曲を吹き始めた。すると彼の座している安楽椅子の影から黒い子猫がやってきて、それを水でも掬うかのように拾い上げた。


「猫ってのは気まぐれなイイ女みたいなもんで、こっちが熱を入れてるとフイッとどっかにいっちまう。だが邪険に扱えば、そう今回みたいに金で売り払っちまえば、こいつらはそんな薄情な奴をいつまでも女々しく陰惨に恨み続ける。もしかすると、この病も猫の復讐と見てもあながち間違いでないかも知れんぜ」


私は彼の顔に浮かぶ皮肉な笑みに、猫のような気配を感じてちょっと薄気味悪くなり早々に席を立った。



 死病のパンデミックは一月たっても収束せずに都市のいたる場所で猛威をふるっていた。生き残った人々も家の扉を閉ざして息を殺しているようで、市井は恐怖に慄きながらも動くものの一つも見出せない不安を象徴する絵画のような様相を呈していた。

遠くで死者を焼く煙が狼煙のように幾本も高くのびている。風もなく真っ直ぐ空へたゆとう黒煙はやがて暗雲の抑圧的な絶望へ合流していよいよこの街の閉塞感を濃くした。通りには人気が絶えて、黒衣のホルスと黄色の装甲車が死者を求める幽鬼のごとく通り過ぎていくくらいである。医学界の上層部は病人の隔離と原因の究明に躍起になっているようだった。つい先日も、近くに住んでいた逃亡者の仲間が狩猟者に連れていかれたようで、そろそろ私もこの住み慣れた隠れ家とおさらばしなければ危うくなっていた。

コレクションの遺物を知り合いに預けて、飼っていた猫は売り払わずに逃がしてやった。彼女らは部屋を追い出されてから一度こちらを振り返って、私がジッと見返しているのを確認するようにしてからすぐに暗がりへと姿を消してしまった。恨まれていないことを祈りながら、私も隠れ家を後にした。

一週間の放浪の後、街の外れの廃墟となった教会で、私は黒衣のホルスに捕えられた。随分と前から目を付けられていたらしく、私の捕縛には指揮を執る司令官らしき医師が同行していた。


「一研究者として、記念すべきこの日に立ち会えたのはまったく光栄だ。運命に感謝せねばならない」


医師の目は鬼の首を取ったかの如く回診の、いや会心の笑みを浮かべている。その顔を見ていると、愛想のよい笑みで顔を崩していたので咄嗟に判断がつかなかったのだが、彼が私の実の父親であることに気が付いた。私の記憶にある父は堅牢な顔つきと比べてまるで別人のようだった。

私は父にレジスタンスの首魁と目されているのかと思い、しどろもどろに弁明を始めた。すると彼は、驚いたように、だが笑みを湛えたままそれを否定したのだ。


「いやいや、我々は君をレジスタンス等とは、ましてやそのリーダーとは思っていないし、事実その通りなのだろう? 君はそのようなちっぽけなものなんかじゃあ、ない」


私のことを『君』と呼ぶ父に違和感を覚えながら、私は尋ねた。


「では何者だというのですか」


「名前はまだない。まあ、少し待っていたまえ。いずれ私がその名を決めよう」


「私にはもうあなたに貰った名前がありますよ」


「その名前に医学的根拠はあるのかね?」


私は返答に困った。根拠? 名前に根拠が必要なのだろうか。父は埃の被った汚い木椅子に腰を下ろして言った。


「やれやれ、未だに勝手に名前を付けてそこに意味を付与するなんて愚かしい真似がこの新時代に跋扈しているとは、人類に根付く病の根は深い。やはり議会に医学的再洗礼制度の採択を急がせるべきだな……」


「父さん、なんてことを言うのですか。まるで私そのものが病気であるような物言いではありませんか」


「ドクターと呼びなさい」


父は忠告するように言った。


「君そのものが病気であるような、か。確信を突く言葉だ。そう、人が病気に罹るのではない。人が病気のかたちをとっているのだ」


「そんな滅茶苦茶な」


「君が否定しようと科学は揺るがない。事実は本質に先んじる。実際、少なからぬ研究者からは君こそ今回の疫病そのものであると目されているのだよ。僅か1か月で100万人の命を奪った、疫病のね」


「そんな馬鹿な。私が100万人も殺しただって? 私は地下でジッと身を潜めていただけです。病のように街中を歩き殺してまわっていればもっと早くに捕まっていたことは容易に分かることでしょう」


「なにも鈍器で殴り殺すだけが方法では無い。死に至る病の罹患部が精神にあるように、意思もまた人を死に至らしめ得るのだよ。といっても、まあ私個人の見解では今回の病については君がそのすべての原因だと決めつけるのは明らかに間違いだ。しかし100万人のうち10万人の死が君によるものだと私は見ている。主原因が90万人を殺し、またその主原因によって生まれた副次的な疫病こそが君だと私は睨んでいるのだよ」


――だから、と父は続けた。


「いづれにせよ君がもはや病気そのもので我々によって解析されるべきだということは疑いようのないことなのだ。統計から外れ、理想的健康状態からの逸脱も甚だしい。それでも無自覚で改善する意思もないというのだから、間違いない」


「あなたがたに追われていなければ、決してここまで普通と異なることにはならなかったでしょう」


「もしも、という議論が本質を変化させることはない。さあ、連れて行きなさい」


「どこへ連れていくつもりですか。どこを治すというのですか」


「『病気を治す』 可笑しなことを言うね。我々は人類を治すが、病気は病気なのだから根絶しなければならないだろう?」


「人類! あなたの言う人類、そんなものどこにいるんだ」


「医学書に彼らは散在しているし、君を解析してまとめたカルテにも新しい人類が現れる筈だな。そこにのみ確かに人類は存在するのだよ」


「病気だ、病気だ! あなただってそうではないですか!」


「その通り。統計的に大多数であるのが病人であり病気でない少数の人間は病気だ。もう問答をしている時間はない。ホルスよ、この病気を連れて行け」


父は――医師は目を背けて命じた。黒衣のホルスたちは私の腕を掴んだが、その途端にもがき始めた。疫病が彼らの体も蝕んでいたのだ。医師はそれを目撃すると絶望的な声をあげた。


「ああ、遅かったか! いや早すぎたのかもしれん。そう、この流行病の原因が分かったかもしれない。だがそれを知ったからには死ななければならんのだ」


そう言って医師はばたりと倒れて2度と起き上がることはなかった。それを待ちわびたかのように世界は静寂に包まれた。

私は街へ戻った。もう黄色い装甲車のけたたましいサイレンも聞こえなくなったからであった。

工場が止まり為替相場の電光掲示板はフリーズして光を失くした。飛行機は空から消え列車は沈黙した。せせこましいネズミの様だった車の群れは暗がりに沈んでいる。


おお、病は過ぎたのだ。


無人の道路に黒猫が一匹、大きくあくびした。

私は病膏肓に入るように、あの薄暗い住処に戻ろうと考えた。そこには核という進歩的文明の光がもたらす放射線治療もとどかない、XXXX年という永遠が待っているのだ。

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[一言] 初めまして。一之瀬と申します。 まず初めに。このような作品に出会えたことを嬉しく思います。最初のパラグラフから脳の全力疾走でしたが、それでいながらゆっくりと思考の渦に浸れる作品だと実感するほ…
[一言] 荒唐無稽で哲学的で、それでいて現実的で科学的で、幻想的。実に素晴らしい。間髪入れず惹き込まれ、一気に読みました。 病理とは、生理とは、生とは、死とは。この数年、私の頭の中でグルグルと渦巻い…
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