わたくしがモテるはずありませんわ
「わたくしがモテるはずありませんわ」
ペネロペ・ラングレーは、届いたばかりの手紙をひらひらさせて言い切った。差出人はアシュフォード公爵ヴァレリアン。今月も届いた、夜会へのお誘いである。
「公爵様はね、花嫁探しでお忙しいの。わたくしは社交界の事情に詳しいから、相談役にちょうどいいのよ」
親友のマリエッタは、紅茶を飲みかけたまま固まった。
「……一年よ? 一年、毎月お誘いが来てるのよ?」
「ええ。熱心な方ですわよね。早くいいお相手が見つかるといいのですけれど」
ペネロペは腰の婚活帳を開き、公爵の欄に今日の日付を書き足した。誰が誰と踊り、誰が誰に花を贈ったか。十七の春から二年分、この帳面には社交界のほとんど全部が書いてある。ただひとつ、自分の名前だけが、どのページにもなかった。書き足そうと思ったことも、一度もない。
マリエッタは紅茶のカップを置いて、指を折りはじめた。
「お誘いが十二通。夜会のたびに、あなたと一曲踊る。毎月、白い薔薇が届く。ほかの令嬢とは踊らない。ねえペネロペ、これを何と呼ぶか知ってる?」
「ご相談ですわ」
「求婚よ!」
「まさか。公爵様はね、踊りながら『最近の社交界はどうですか』とお訊きになるの。お相手探しの下調べでしょう?」
ペネロペは帳面をめくって見せた。公爵の欄には、日付と一緒に同じ言葉が並んでいる。ご相談、一曲。ご相談、一曲。白い薔薇、お礼状済み。
「ほら。全部ご相談」
「それを書いたのはあなたでしょう」
「書いたことは本当ですもの。わたくしの帳面は嘘をつきませんわ」
「じゃあ訊くけど。先月の夜会で、公爵様は踊りながら何をおっしゃったの」
「ええと」
ペネロペは帳面をめくった。
「最近の社交界はどうですか、と。ですからわたくし、北の伯爵家のお嬢様が乗馬をお始めになったことと宰相閣下の姪御様が帳簿の勉強をなさっていることをお話ししましたの」
「それで公爵様は」
「では、あなたは? と」
「ほら!」
「ですから、鉛筆の削り方を変えましたとお答えしましたわ。先を少し丸くすると、紙が破れにくいんですの」
マリエッタは両手で顔を覆った。
「公爵様、どんなお顔をなさってた?」
「いつものお顔でしたわ。少しだけ、黙っていらっしゃったけれど」
マリエッタは天井を仰いだ。この一年、ペネロペが何度も見てきた仕草だった。
ペネロペが帳面に使うのは、いつも鉛筆だった。夜会の広間でインク壺は持ち歩けない。腰の帳面と短い鉛筆さえあれば、誰がどの曲で誰の手を取ったか、その場で書きつけられる。友人に恋の相談をされたとき、この帳面はたいてい役に立った。
「それより、聞いて。侯爵家から茶会のお招きが来たの」
「コルネリア様の? あなたを?」
「ええ。社交界の事情に詳しい方にぜひ、ですって」
マリエッタの眉が、ぎゅっと寄った。
「嫌な予感しかしないわ」
三月のはじめ、侯爵家の茶会は、温室に面した明るい部屋で開かれた。コルネリアは取り巻きの令嬢たちに囲まれて、手のひらに一枚のハンカチを広げていた。白い絹に、青い糸で百合が刺繍してある。
「今度、フェリクス様に差し上げるの。ひと月かけて刺したのよ。わたくしの刺繍、評判がいいの」
令嬢たちが口々に褒める。ペネロペも素直に感心した。百合の花びらの重なりが、とても丁寧だった。
「それで、ペネロペ様。噂の帳面を見せてくださらない?」
返事をする前に、コルネリアの手が伸びてきた。腰の紐ごと引っぱられ、婚活帳はあっさり相手の膝に移った。
「まあ、本当に全部書いてあるのね。十七の春、フェリクス様、アニエス嬢と二曲……二年前からフェリクス様を見張っていたの? 気味が悪い」
「フェリクス様だけではございませんわ。皆さまのことを」
「皆さまのことは書いてあるのね」
コルネリアはペネロペの名前だけを探して、ページをぱらぱらと最後までめくり、くすりと笑った。
「喪女の妄想帳ね。どのページにも、あなたのお名前がないじゃない」
取り巻きの令嬢たちが、扇の陰で笑い声を立てた。ペネロペは少しだけ首をかしげた。言われてみれば、その通りだった。
「見て。この方、ご自分の分の空欄も作っていないのよ」
「最初から諦めていらっしゃるのね。お利口だわ」
令嬢たちが代わる代わる帳面をのぞき込み、そのたびに笑い声が高くなった。ペネロペは膝の上で手を重ねて、それが収まるのを待った。
(だって、わたくしのことは書くほどのことがありませんもの)
「わたくしの名前がないのは、書くほどのことがないからですわ。皆さまのほうが、ずっと書きがいがございますもの」
にこりと笑って言うと、コルネリアの口元がわずかに引きつった。
「公爵様にも見せて差し上げたら? 喜んでくださるわよ、きっと」
帳面は投げるように返された。ペネロペはそれを受け取って、腰の紐をきちんと締め直した。腹が立たなかったわけではない。けれど、茶会の席で言い返すほどのことでもないと思った。
その夜、寝台に入ってから、ペネロペは帳面を胸に置いて天井を見ていた。
どのページにも、自分の名前はない。それに、一つだけ書かなかった夜がある。
一年前の春、王宮の仮面舞踏会。人いきれに疲れてテラスに出たとき、庭へ降りる石の段で、背の高い仮面の男が見事に足を踏み外した。
ペネロペは思わず笑ってしまい、それから慌てて手を差し出した。
「ご安心なさって。わたくしも先週、同じ段で転びましたの」
仮面の男は一瞬ぽかんとして、それから肩を揺らして笑った。
「先週も?」
「ええ。上から三段目が、いちばん滑りますの。苔が生えていて」
「私が転んだのは二段目です」
「では二段目も危ないのね。覚えておきますわ」
男は手を借りて立ち上がると、仮面の下でまた笑った。笑い慣れていない人の、ぎこちない笑い方だった。二人は段に並んで腰かけて、広間の音楽が三曲変わるまで、どの段がいちばん滑るかを話し合った。
夜のテラスは暗く、男の顔は仮面で半分も見えなかった。名前は聞かなかった。仮面舞踏会の決まりだったし、聞いてしまったら帳面に書かずにいられなくなる気がした。
あれは人生でいちばん楽しかった夜会だった。帳面のどこにも書いていない、ただ一晩の夜会。
(あの方は、どなただったのかしら)
考えても分からないことを考えるのは、ペネロペの主義ではない。彼女は寝返りを打って、目を閉じた。
翌週、侯爵家から伯爵家へ苦情が届いた。ラングレーの娘が、帳面にフェリクス様の行き先を二年も書き留めている。付きまといではないか、という内容だった。
母のラングレー伯爵夫人は、手紙を卓に置いて娘を呼んだ。
「春の夜会で、フェリクス様にお詫びなさい。侯爵家の皆さまの前で」
「お母様、わたくしは付きまといなど」
「分かっているわ。あなたがそんな子でないことは」
「でしたら、どうしてお詫びを」
「侯爵家を怒らせて、いいことは何もないの。あなたが黙って頭を下げれば、それで終わるのよ」
母は娘の手を取った。指先が冷たかった。
「でもね、ペネロペ。あなたは見る側の子でしょう。選ばれる側じゃないのよ。見る側の子が、選ばれる側のお嬢さんに逆らってはいけないの」
ペネロペは何か言おうとして、やめた。母がこの言葉を口にするのは、初めてではない。小さいころから何度も聞いてきた。母は、それを娘を守る呪文のように言うのだった。
「わたくしもね、そうだったのよ」
母はそれだけ言って、目を伏せた。
ペネロペはうなずいた。見る側の子。だから自分の名前は、帳面に書かなくていい。そう思えば、何も痛くなかった。
部屋に戻ると、ペネロペは帳面を開いて、春の夜会の欄に小さく書き足した。フェリクス様へお詫び。それから、いつものように隣の余白を見た。自分の名前を書く場所は、今夜もやっぱり空いたままだった。
四月の終わりの春の夜会は、侯爵家と縁続きの伯爵家の、広い庭で開かれた。噴水のまわりに人が集まったころ、コルネリアがよく通る声で言った。
「皆さま。こちらのペネロペ様はね、二年もフェリクス様を付け回して付きまとい帳に書いていらしたの」
ざわめきが広がった。フェリクスは気まずそうに目をそらしている。ペネロペは前に出て、深く頭を下げた。
「フェリクス様。ご不快をおかけいたしました」
「あ、いや、僕は別に……」
顔を上げた瞬間、腰が軽くなった。コルネリアが紐をほどいていた。
「こんなもの、もう要らないでしょう?」
婚活帳は弧を描いて、噴水の真ん中に落ちた。取り巻きの令嬢たちが笑い、見物の誰かが手を叩いた。人垣の向こうで、母が扇を握ったまま動けずにいるのが見えた。
ペネロペは裾をつまんで噴水の縁にかがみ、水の中から帳面を拾い上げた。ページは水を吸って波打っている。彼女は一枚ずつ振って、しずくを落とした。
「乾かせば読めますわ。わたくし、字だけは丈夫に書く主義ですの」
笑い声が、少し小さくなった。
マリエッタが人垣を押しのけて駆けつけたときには、ペネロペはもう帳面をハンカチで包んでいた。
「あの人、絶対に許さない」
「濡れただけですわ、マリエッタ。破れてはおりませんもの」
「そういう問題じゃないの!」
家に帰って暖炉の前で広げると、紙はよれていたが、鉛筆の字はひとつも消えていなかった。
二日後、ペネロペは侍女を伴ってアシュフォード公爵邸を訪ね、書斎に通された。手には、乾かした婚活帳と、新しく書いた一枚の紙がある。
「噴水の件は聞きました」
公爵は立ったまま言った。いつもの硬い顔が、いつもより少し硬い。
「侯爵家には私から」
「いいえ、公爵様のお手を煩わせることではございませんわ。今日は、お役目をお返しにまいりましたの」
ペネロペは紙を差し出した。
「わたくしはいま噂の的でございますから、相談役はもう務まりません。代わりに花嫁候補の一覧をお作りしましたわ」
公爵は紙を受け取り、黙って目を通した。
「北の伯爵家のお嬢様は乗馬がお好きで、公爵様の領地は牧場が多いので話が合います。宰相閣下の姪御様は帳簿がお得意。それから、あちらの子爵家のお嬢様は静かな方がお好きだとおっしゃっていました。公爵様はとても静かでいらっしゃるので」
「よく見ていますね」
公爵が紙の二行目を指した。
「では、宰相閣下の姪御様は?」
「公爵様のご領地の帳簿を、きっと喜んでご覧になりますわ。ただ朝がお弱いので、早駆けのお誘いはおすすめしません」
「なぜそれを」
「去年の狩りの会で、三度あくびをなさっていましたもの。帳面に書いてございます」
公爵は口元に手を当てた。笑いをこらえているのか、困っているのか、ペネロペには分からなかった。
「見るのは得意ですの」
公爵はしばらく紙の端を指でなぞっていたが、やがて顔を上げた。
「一人足りません」
「まあ。どなたか抜けておりました? すぐに書き足しますわ。どちらのお嬢様ですの?」
ペネロペが鉛筆を構えると、公爵は小さく息をついた。
「次の夜会で、答えを言います」
「承知いたしました。楽しみにしておりますわ。公爵様のお相手が決まるなんて、帳面に書くのが待ち遠しいですわ」
公爵は何も言わなかった。ただ、紙を丁寧にたたんで、上着の内ポケットにしまった。
噴水の夜会から十日後の、王宮の夜会を前に妙な噂が流れた。コルネリアが、アシュフォード公爵の求婚を受けるつもりらしい。公爵はこの一年、ずっと彼女を想っていたのだ、と。
「行くのはやめなさい、ペネロペ」
支度部屋で、マリエッタが腕を組んだ。
「また何をされるか分からないわ」
「コルネリア様は公爵様とご一緒になるのでしょう? でしたら、わたくしに構っている暇はございませんわ」
「本気でそう思ってる?」
「帳面には、そう書く予定ですわ」
マリエッタが黙って額に手を当てた。
「公爵様が答えをおっしゃる夜ですもの。相談役だった者として、聞き届けなくては」
ペネロペは乾いた婚活帳を腰に下げ、鉛筆を一本差した。ページはまだ少し波打っている。
「……それだけ?」
「それに、コルネリア様がお相手なら帳面に書いておかないといけませんし」
「あなたって子は……」
王宮の広間に入ると、噴水の前で笑っていた顔ぶれが、ほとんどそろっていた。青いドレスのコルネリアが、扇の陰からこちらを見つけた。
「あら、喪女令嬢さん。今夜も帳面をお持ちなの? 噴水で溶けてしまったと思っていたわ」
「濡れてもまだ使えますの。丈夫な帳面ですわ」
何人かがくすくす笑った。ペネロペは気にせず、壁際の定位置へ向かおうとした。けれどそれより早く、コルネリアが広間の真ん中へ進み出た。
扇をぱちんと閉じて、彼女はにっこり笑った。
「ご存じかしら。アシュフォード公爵様は、この一年ずっとわたくしに求婚してくださっているの」
取り巻きの令嬢たちが、待っていたように声を上げる。コルネリアは輪の外に立つペネロペへ、わざわざ顔を向けた。
「喪女令嬢さん。あなたの帳面にも書いてあるでしょう? 社交界のことなら何でも書いてあるのよね」
くすくす笑いが広がった。ペネロペは少し考えてから、腰の小さな帳面を開いた。噴水に落とされた日から、ページは波打ったままだ。
「ええと、申し訳ございません。公爵様がコルネリア様と踊られた記録は、この一年で一度もございませんの」
「なんですって」
「わたくしの帳面は、嘘をつきませんの。踊っていらっしゃらないものは、書けませんわ」
ペネロペは律儀にそう言って、波打つページを何枚かめくった。鉛筆の字は、どれも噴水に落ちる前と同じようにはっきり残っている。
「そのかわり、コルネリア様のことならちゃんと書いてございますわ。三月十日、フェリクス様に青い百合の刺繍のハンカチ。同じ日の夕方、ギデオン様にも同じ柄のハンカチ。四月二日、フェリクス様と温室で二人きり。四月五日、ギデオン様とも温室で二人きり」
広間の空気が止まった。
壁際のフェリクスが、胸ポケットからハンカチを抜いた。少し離れたところで、ギデオンも同じ動きをした。二人は互いの手元を見て、それからゆっくりコルネリアを見た。青い糸の、まったく同じ百合だった。
「ち、違うの。それは」
コルネリアの声が裏返る。取り巻きの令嬢たちが扇を閉じ、一人、また一人と彼女から離れていった。
「鉛筆で書いておいてよかったですわ。インクでしたら、全部にじんでおりましたもの」
ペネロペがほっとして帳面を閉じたとき、その手に大きな手が重なった。
「では、その帳面に私の一年も書いてありますか」
ヴァレリアンだった。広間じゅうの目が、今度はこちらに集まる。
「もちろんですわ。公爵様の花嫁探しのお手伝い、と」
「違う」
公爵は首を振った。
「一年前の仮面舞踏会で、テラスの段で転んだ男に笑って手を貸してくれた人がいた。私はその人に、一年求婚していたつもりです」
言いながら、公爵は一度だけ上着の胸元へ手をやり、それからもう一度、閉じた帳面ごとペネロペの手を包んだ。
ペネロペの耳が、かっと熱くなった。帳面を持つ指先から力が抜けて、危うく取り落としそうになる。
「……わたくしがモテるはずありませんわ」
「では、私だけにしておいてください」
しんとした広間で、最初に動いたのはフェリクスだった。
「フェリクス様、聞いて。あれはギデオン様が勝手に」
コルネリアがその袖をつかんだ。フェリクスは自分の袖を見下ろして、指を一本ずつほどいた。
「僕のハンカチだけは、一枚きりだと思っていました」
そう言うと、フェリクスはハンカチを小さくたたみ、コルネリアの前の卓に置いて、黙って背を向けた。ギデオンも同じようにハンカチを置き、反対側の扉から出ていった。卓の上に、青い百合が二つ並んだ。
「お父様、違うの、あれは」
人垣を割って現れた侯爵は、娘の言葉を最後まで聞かなかった。
「帰るぞ。今季はもう、どこにも出さん」
コルネリアは父に腕を取られ、扇を握りしめたまま広間を出ていった。誰も道を空けるのをためらわなかった。
「ペネロペ!」
マリエッタが人をかき分けて飛んできて、ペネロペの両肩をつかんだ。泣いているのか笑っているのか分からない顔だった。
「だから言ったでしょう! 求婚だって!」
「マリエッタ、声が大きいですわ」
「大きくもなるわよ!」
公爵が、ペネロペの横で小さく咳払いをした。
「テラスへ。少しだけ、お時間をいただけますか」
王宮のテラスは、一年前と同じ匂いがした。夜の庭の土と、広間からこぼれる蝋燭の匂い。庭へ降りる石の段も、そのままそこにある。
公爵は段の上で立ち止まって、ペネロペのほうを向いた。
「ご安心なさって。わたくしも先週、同じ段で転びましたの」
ペネロペは口を開けたまま固まった。一年前、自分が言った言葉そのものだった。
「……覚えていらしたの」
「忘れられません。あの夜、私は誰にも名前を知られずにただ笑ってもらえた。それがうれしかったのです」
「どうして、おっしゃってくださらなかったの」
「仮面の男だと、あなたに気づいてほしかったのです。手紙にも書こうとしました。けれど『夜会へお越しいただきたく』の先が、どうしても書けなかった」
「気づくはずありませんわ。仮面でしたもの」
「私のほうは、すぐに分かりましたよ。ひと月後の夜会で、広間の向こうから同じ笑い声が聞こえた」
「笑い声で?」
「あなたは笑うとき、少しだけ鼻が鳴る」
「鳴りませんわ!」
「鳴ります。今も鳴った」
「……わたくしより、よほど細かく見ていらっしゃるのね」
「見るのは得意ではありません。見ていたのは、あなたのことだけです」
公爵が真顔で言うので、ペネロペは思わず噴き出した。笑った拍子に、また小さく鼻が鳴った。
そのとき、テラスの扉の陰で衣擦れの音がした。母が立っていた。広間から娘を追ってきたらしい。
「お母様」
伯爵夫人は公爵に深く礼をしてから、娘の前に来た。冷たかった指先が、今日はペネロペの頬に触れた。
「見る側の子なんて言ってごめんなさい。あれはわたくしが昔、自分に言い聞かせていた言葉だったの。あなたにまで背負わせることはなかったのに」
ペネロペは首を振った。何か言うと、泣いてしまいそうだった。母はもう一度だけ娘の頬をなでて、静かに広間へ戻っていった。
テラスに、二人だけが残った。ペネロペは段の端を見下ろして、小さく笑った。
「わたくしがモテるはずありませんわ……と、ずっと思っておりましたの」
「過去形ですね」
「ええ。たったいま、過去形になりましたわ」
ペネロペは照れ隠しに婚活帳を開いた。今夜のことを書いておかなくては。公爵の欄はすぐに見つかった。けれど、鉛筆が止まった。
「どうしました」
「わたくしの欄が、ございませんの。自分のことは、書き方が分からなくて」
ペネロペが鉛筆を差し出しかけると、公爵はそれを手で押しとどめた。
「いちばん前を、見てごらんなさい」
ペネロペは言われるまま、帳面を最初までめくった。何も書いていないはずのいちばん前のページに、たたんだ紙が一枚挟まっている。開くと、見慣れた自分の字が並んでいた。北の伯爵家のお嬢様、宰相閣下の姪御様、子爵家のお嬢様。書斎で公爵に渡した、花嫁候補の一覧だった。
そのいちばん下に、見覚えのない硬い字で一行足されていた。
ペネロペ・ラングレー。
その横に、彼女の帳面とそっくりの書き方で、小さな字が続いている。求婚、十四通。一曲、十四回。お返事、まだ。
「……いつの間に」
「広間で、あなたの手に手を重ねたときに。社交界のことなら何でも見ている方が、ご自分の帳面だけは見ていなかった」
ペネロペは一覧を見つめたまま、何も言えなかった。二年分の帳面のどこにもなかった名前が、自分の帳面のいちばん前に、とうに挟まっていた。
「一人足りない、と申し上げました。名前を書き足したのは、あなたが書斎からお帰りになった夜です」
公爵が、一覧の挟まったページの端を指でそっと押さえた。
「これで、あなたの欄ができました」
それから公爵は、自分の手を差し出した。
「一曲目を。今夜は相談ではなく」
広間から、ちょうど新しい曲が流れてきた。ペネロペは手を取り、段を一つ降りた。そして一年前と同じ段で、見事に足を滑らせた。
今度は、公爵が受け止めた。
ペネロペが顔を上げるより先に、広間の窓が勢いよく開く音がした。
「一年よ! 一年かかったのよ、この二人!」
マリエッタの声だった。続いて窓のほうから、令嬢たちのいっせいの笑い声が降ってきた。
ペネロペは真っ赤になって公爵の上着に顔をうずめた。その頭の上で、公爵が声を上げて笑った。仮面舞踏会の夜から数えて、彼の笑い声を聞くのはこれが二度目だった。




