第九話:楔
「やはり、来たか」
祈祷師がゆっくりと立ち上がり、振り返る。
その顔に驚きはない。声も静かだった。来ると確信していたのだろう。
「この前はどうも。わざわざ待っていてくれるとは、熱烈な歓迎だな」
ヒスイは軽口で応じる。
「一人だけか」
「オレ一人では不満か?」
ヒスイの飄々とした態度に、祈祷師の気配がほんの一瞬だけ乱れた。
苛立ったのを、瞬時に鎮めたのだろう。
やはり、この人物は挑発に乗ってこない。
「────まぁ、いい。何度来ても無駄なことだ」
祈祷師の手には、これ見よがしに箱が握られている。
まるで、精霊はこの中だと言わんばかり。
だが、あの中に精霊がいないことはヒスイにも分かった。
精霊の気配は分からないが、空間の歪みは分かる。
「精霊は────お前の後ろか」
ヒスイの言葉に、祈祷師がほんの僅かにピクりと反応する。どうやら、当たりのようだ。
「それが分かったからと言って、どうする事も出来ないだろう」
祈祷師が手に持った箱を投げ捨てた。
ガシャンという音と共に、箱はアッサリ壊れた。
中には、案の定何も無い。空っぽだった。
「────試す価値は、ある」
ヒスイは、一歩踏み出す。
一瞬で距離を詰め、祈祷師の背後に、振りかぶった拳を振り抜いた。
何の感触もない。
「────だから、無駄だと言っただろう」
祈祷師が不敵に笑う。
すでに勝ちを確信しているのだろうか。まだ戦いは始まったばかりだ。
「それは、どうかな────!」
今度は、拳に重力を纏わせる。
その拳を何もない空間に再度叩き込む。すると今度は手応えがあった。
そのまま拳に力を込めていくと、空間が歪む。
「⋯止せ!」
祈祷師の制止の声を無視し、拳を振り抜く。
その瞬間、空間にヒビが入り、硝子のように砕け散った。
すると、先ほどまで洞窟だった場所が消え失せ、周りの風景が変わる。
結界で幻影を見せていたようだ。
「──見つけた」
そこには────結晶があった。
空中に浮かんだ結晶は、祈祷師の力で浮かんでいるのだろう。
微かに結晶が小刻みに震えている。
中に何かいる事は間違いない。
「見つけたところで、お前にこれは壊せない」
祈祷師はすでに平静を取り戻したらしい。
もう少し焦ってくれるとやりやすいのだが、残念ながらそうはいかない。
「────チッ」
結晶に向けて振り抜いた拳。
鈍い音が響く。
だが、壊すまではいかなかった。
小さな欠片が削れただけ。
剥がれ落ちた欠片の隙間が一瞬だけ光った、ように感じた。
だが、すぐに光は消えてしまう。
「────残念だったな」
祈祷師が、勝ちを確信してニヤリと笑う。
ヒスイが壊せないならば、ここにいる他の誰にも壊せないと同義。
勝ち誇りたくなる気持ちも分からなくは無い。
「その程度で壊れるものか」
長い時間をかけて準備したのだろう事が、その言葉から透けて見えた。
「⋯壊すつもりなんて、最初からねぇよ」
ヒスイは思わせぶりに笑ってみせる。
負け惜しみにも取れるが、それにしては余裕があり過ぎる。
祈祷師の眉がピクりと反応した。
「⋯⋯何?」
壊す気がないならば何のために攻撃したのだ。
ある考えに思い至り、祈祷師の顔が初めて崩れた。
「やっと気づいたか?」
その答えに辿り着いただろう祈祷師に、ヒスイが笑ってみせる。
「あれは、“開けるため”の一撃だ」
開けるため、“何を”と問うまでもない。
祈祷師の顔に初めて焦りが広がった。
「────今だ!」
ヒスイが空に向かって声をあげた。
それと同時に、何かに反応するように結晶が揺れる。
「鎮まれ⋯⋯」
祈祷師が結晶を見上げ、印を結ぶ。
だが、今度は一向に結晶が大人しくならない。
「何故⋯」
そして、唐突に理解した。
先ほどのヒスイの一撃は、壊すためのものではなかったのだと────。
「⋯まさか」
欠けた部分から光が漏れる。
祈祷師は思考に気を取られ、反応が一瞬遅れた。
四方に亀裂が走る。
小さな小さなヒビだったのに、あっという間にその面積が広がった。
そして────。
パリンという音と共に、結晶が割れた。
そこから、清涼な風が溢れ出す。
ヒスイの周りを一周回ってから、空の彼方へ飛んでいく。
向かう先は、一つしかない。
────呼ばれたのだろう。
お待たせしました!




