1-2世界が変わる日に
ギルバート・コートネイにとって、今日は、今まで生きてきて一番幸福な日だと言えるだろう。
学校が休みの土曜日、ギルバートは父親から送られてきた手紙を読み終えると、息をついて天井を見上げ、満足そうに数回頷いた。
「あーあ、嬉しそうなこと」
ギルバートの部屋のベッドで横になり、本をめくるユーリに、ギルバートは、ふんっ、と鼻で笑う。
「俺のことはこれからお兄様と呼ぶんだぞ、弟よ」
「…まだ気が早いよ、他人のギルバート」
ユーリは寝返りを打つと、ねえさまと結婚するのって卒業後でしょ?と呆れたように言った。ギルバートは足を組んでソファーに腰掛けると、そんなのすぐだ、と嬉しさをにじませながら言った。
彼はユーリ・ワイアット。ミーナの1つ下の弟で、ギルバートとは幼い頃から仲良くしている。可愛らしい丸い瞳と、あどけない表情からは想像がつかないほど小憎たらしい態度の少年である。
ギルバートは、ミーナへの気持ちを誰にも秘密にしていたのに、ある日ユーリに見抜かれてしまった。必死に隠したものの、彼の尋問に負けて、彼にだけはギルバートの気持ちを白状している。
ミルクティー色の髪に少し寝癖をつけたユーリは、頬杖をついてギルバートを見上げる。
「…ま、よかったんじゃない?積年の想いが実ってさ」
ユーリの言葉に、ギルバートは口元を緩ませたあと、少し固まり、そして考え込んだ。そんなギルバートに、ユーリは小首をかしげる。
「(…自分の想いは実る。でも、彼女は…)」
ギルバートは、忌々しい気持ちで過去を思い出す。
あれは2年生の夏頃だっただろうか。もともと家同士が仲良しだったこともあり、定期的に集まっては食事会をしていたが、それが長期休暇の際にも開かれた。大人たちがお酒で盛り上がる中、その騒がしさから逃れるようにギルバートとミーナは、庭で向かい合って座り、本を読んで過ごしていた。
夕暮れ時、夏の静かな風がミーナの癖のある赤茶色の髪を揺らしたとき、ギルバートは積年の思いが漏れ出して、彼女に思い慕う相手がいるのかつい尋ねてしまった。その時にミーナは、ギルバートの親戚で、彼らの4つほど年上であるオリバーが好きなのだと答えたのである。
「…ま、まあ、親がもう決めたんだ。その決定は覆せないしな!ミーナは黙って従うしかないんだ!」
ギルバートは背中に汗を流しながらそう言い繕う。
「(貴族ってのは、個人の惚れた腫れたなんかで結婚しない!それにオリバーはもう半年前に結婚したんだ!どうせミーナの恋は叶わないんだから良いんだよ!!)」
ギルバートはそう、自分に言い聞かせるように心のなかで唱える。ユーリは本をめくりながら、なあにそれ、と呟く。
「どうしたのさ、すっげー悪人のセリフ言ってるけど。はあ…、ねえさま、こんな人のもとに嫁いで大丈夫かな」
「俺のどこが悪人だ。清廉潔白の優等生だぞ」
「ギルバートがねえさまと結婚するために、あらゆる方向から計画的に外堀を埋めていった、…っていう噂をとある筋から聞いてるけど」
「……俺のことはギルバートお兄様と呼べ」
ギルバートはバツが悪そうにそう言い放つ。ユーリは体を起き上がらせると、ベッドに座った。
「でも、結婚なんかしちゃって大丈夫なわけ?ねえさまに好きとすら言えてないんでしょ?恥ずかしいってのが理由で」
ギルバートはユーリの指摘にまた言葉を詰まらせる。
ギルバートは幼馴染のミーナのことがずっと好きだった。
しかし、父親から男なら男らしくと厳しく育てられたギルバートにとって、好きな人を前にした自分というものは受け入れがたかった。
いつもおっとりとしていて、にこにこと笑っているミーナを前にすると、背筋をぴんと伸ばして生きてきた自分がふにゃふにゃになりそうで、それが恥ずかしくて、ミーナの前ではただでさえ気が強い自分がさらにつっけんどんになってしまうのだ。好きだなんてとてもじゃないけれど言えなかった。ましてや、彼女には他に好きな人がいるのだと言うのに。
「…恥ずかしいとかそういう問題じゃない。これは俺の信条だ。男らしくあること、それが俺にとって生きる上での重大な価値なんだよ」
「あーあーはじまった、ギルバートの謎主義」
ユーリの言葉に、ギルバートはぎろりと睨見つける。ユーリは目線をそらすと、さてと、部屋に帰ろうかな、と言って立ち上がった。
「おいユーリ、たまには家に帰れよ」
ギルバートは、部屋から出ようとするユーリの背中にそう言い放つ。ユーリは振り向かず、たまには帰ってるよ、と返すと、部屋から出ていった。
ギルバートはそんなユーリに小さくため息をつきつつも、父親からの手紙をちらりと見ると、また口もとをじわじわとゆるませた。
その翌日の、日曜日の夕方、ギルバートはトレーニングの一環で学校の周りを走っていた。
すると、中庭に立っているミーナの背中を見つけた。ギルバートは走る方向をそちらに変えて、そして、ぼんやりと木を見上げているミーナに背後から近づいた。
ギルバートは大きく深呼吸をした。ミーナの赤茶色い、少し癖のある長い髪を見下ろす。
「(…可愛い。後ろ姿からすでに可愛い。可愛さがあふれ出ている…)」
何度思ったかわからない感情が湧き上がる。しかし、考えるほどに自分が軟体動物になりそうで、必死にギルバートは自分を律する。
ずっと好きだった、その人とようやく結婚することができる。その事実が途方もなく嬉しくて、むず痒くて、口元がまた緩みそうになるけれど、そんなの男として情けないからなんとか凛々しい顔を保つ。
「おい」
ギルバートはミーナの背中に呼びかけた。ミーナは少し驚いたように肩を震わせると、ギルバートのほうを振り向いた。丸い瞳がギルバートを見上げる。彼女の表情に、ギルバートはどうしようもなく胸が騒ぐ。ミーナは、ギルバート…と呟いた。
「もう聞いたか?結婚の話は」
ギルバートは、なるべく感情を出さないように話した。ミーナは頷くと、お父様とお母様から、と答えた。ギルバートは、そうか、と、嬉しい気持ちがにじまないように返した。
貴族の子息子女というものは、家のために結婚するものである。少しでも家のためにいい条件の相手を探すために、親たちは躍起になるものだ。
そういった背景をもってして、ギルバートは自分がかなりの優良物件だという自負があった。まず、家がかなり大きいこと。そして自分自身は成績優秀であり将来有望で、恋愛感情を抜きにして結婚相手として選ぶのなら、かなり良い相手と言える。端的に言えば、ギルバートはミーナが、この結婚を喜んでいると思っていた。
しかしミーナは、どこか元気のない様子で目を伏せた。ギルバートはそんなミーナに面食らった。動揺しているギルバートに、ミーナは、ねえ、と話しかけた。
「あなたはどう思うの?」
ミーナにそう尋ねられて、ギルバートはよくわからずに困惑する。
「どう?」
「結婚のことよ」
ミーナの質問に、嬉しいに決まってるだろ、という本音が今のギルバートに言えるわけがなかった。どういう答えが正解か悩む間に考えついた言葉は、自分の本心からは程遠かった。
「どうもこうもないだろ。俺は親が決めたことに従うだけだ」
そう言い終わってすぐ、ギルバートは、いや違うだろ俺…!と自分で自分につっこむ。
すると、そんなギルバートを急にミーナが見上げた。ミーナの表情があんまりにも苦しそうで、ギルバートは呼吸が止まった。
「……ごめんなさい」
ミーナはそう言うと、ギルバートのそばから走って逃げていってしまった。お、おい!とギルバートはミーナの背中に声をかけるけれど、彼女の姿は消えてしまった。ギルバートは暫くの間立ち尽くしていた。
「(…何だ…何なんだ……)」
その翌日、ギルバートは悶々とした気持ちで授業を受けていた。昨日のミーナの様子が頭から離れずにギルバートは夜も眠れなかった。
自分との結婚が嫌だということだろうか。オリバーのことが忘れられないのだろうか。ギルバートはそう考えては、いてもたってもいられなくなる。
「(…一度、ミーナと話し合ったほうが…)」
ギルバートはそんなことを、結婚が決まってから考えつく。これまでミーナと結婚するために父親など各所への根回し等地道な努力を続けていたが、それはミーナが自分との結婚なら喜ぶに違いないという自負があってのことである。ミーナがあんな顔をするのなら話が変わってくる。
「(…ごめんなさいってなんだ…!何なんだごめんなさいって…っ!)」
「ギルバート聞いたぞ、ミーナと結婚するんだってな」
休み時間になり、同級生たちがわらわらとギルバートのそばに集まってきた。ギルバートは、ま、まあ…、と曖昧に返した。クラスの男子が、残念だったな、とギルバートの肩を叩いた。
「アイリーンのことが好きだったんだろ?まあ、家の決めたことなら仕方ないって」
でも、ギルバートの家なら選び放題だろうになあ、などとざわつく男子たちに、ギルバートは首を傾げる。
「…アイリーン?のことが好き?俺が?」
ギルバートは聞き慣れない名詞とそれに繋がりそうにない動詞に混乱する。男子が、あれ、とつぶやく。
「言ってたじゃないか。アイリーンが好きだって」
「…」
一瞬思い当たる節がなくて困惑したギルバートは、記憶を掘り起こす。そしてようやく、いつかの放課後に周りからしつこく聞かれて、他の男子生徒からよく名前が挙がっていた、顔も知らない女子生徒の名前を適当に挙げたことを思い出す。
「(…にしたって、好きだという話だったか…?)」
ギルバートはそう疑問に思いながらも、騒ぐ周りに訂正するのも面倒くさくて黙っていた。
ギルバートにとっては今そんなことはどうでもよくて、とにかく早くミーナから、昨日の謝罪の本意を聞きたいということばかり考えていた。
午前の授業が終わり、ギルバートは女子クラスに向かった。滅多にそこへは向かわないため、ギルバートはかなり居心地の悪い気持ちで廊下を歩いた。ただでさえ普段から目立つのに、今日はミーナとの婚約が決まったという噂で溢れかえっているため、余計にギルバートは注目の的だった。
なんとかミーナのいるクラスまでたどり着き、教室を覗いた。しかしそこに、ミーナの姿はなかった。
「(…いない。カフェテリアにもういるのか…)」
「…はじめまして」
入り口のそばで考え込んでいると、教室から1人の女子生徒がギルバートの顔をのぞき込んできた。金髪で、猫のような大きくそして赤い瞳が特徴的な令嬢だった。ギルバートは、彼女の名前は浮かばなかったが、彼女がミーナとよく一緒にいる女子生徒だということは思い出した。
「ああ、君、ミーナは知らないか」
「私も探しているの。でも最近、ランチの時間になると一人で何処かへ行ってしまって…」
「…そうか、ありがとう。失敬」
ギルバートはそう言うと、どこか他に心当たりはないか考えながら歩き出した。すると、そんなギルバートの手を、女子生徒がつかんだ。ギルバートが振り向くと、女子生徒はギルバートを見上げて妖艶に微笑んだ。
「一緒に探しましょう?」
小首を傾げてギルバートを見あげながら彼女はそう言った。ギルバートは、彼女が何を考えているのかよくわからず、怪訝そうな顔をしながら彼女の手からすっと離れた。
「結構。気持ちだけいただく」
ギルバートはそう言うと足早にその場を去った。
校内を探し回って、ギルバートはようやく人気のない中庭のベンチに座るミーナの姿を見つけた。ギルバートは呼吸を整えると小さく咳払いをして、ミーナ、と呼んだ。ミーナは少し驚いたような顔でギルバートのほうを見上げた。
「ギルバート…」
「昨日、何か俺に言いたかったんじゃないのか」
ギルバートはベンチに座るミーナの前に立って、そう問うた。しかし自分で言いながら、いや、俺も彼女に言うべきことがある、と悶々とする。
ミーナは目を伏せて一度息を吐いた。膝のうえに乗せた手に力を込めたあと、意を決したようにギルバートを見上げた。
「あの、…あの、私たち、所謂白い結婚、というのにするのはどうでしょうか」
「白い…?」
ギルバートは突拍子もないミーナからの言葉に棒立ちになる。ギルバートは混乱しながら、それは…、と呟く。
「それは、式の日に着るドレスは白いのがいいという…」
「届け出はするけれど、夫婦として実際に生活をしない結婚です」
ギルバートは、話には聞いていたけれど、まさか自分に関係あるものになるとは思ってもおらず、硬直する。ミーナはそんなギルバートを置いて、もちろん、と続ける。
「こんなことを申し出た以上、あなたを縛るつもりはないわ。どうぞ他で恋人なり作っていただいて構いません」
ギルバートは困惑するが、どうやらミーナは本気の様である。彼女の目を見ながらギルバートは、まさか、と心の中で呟く。
「(まさか、オリバーが忘れられなくてそんなことを……)」
自分が彼女との結婚を強行突破した弊害が現れたことに、ギルバートに頭を何かでぶたれたような衝撃が走る。彼女の心を置いて、良さげな結婚をぶら下げれば、とりあえず家のために喜んで結婚を承諾するだろう、愛情が芽生えるのはその後で良い、という浅はかな自分の考えにギルバートは落胆する。
「(…いや、駄目だ、こんなことを認めては駄目だ…!)」
オリバーのことをミーナが思い続けようとすることが到底許せず、ギルバートは、いや、と頭を振った。
「結婚すると決まった以上、俺は君を…その、あ、愛…た、大切にするつもりだ。男に二言はない」
ギルバートは、つい目を泳がせてしまった。ミーナを好きになってから初めて、こんなふうに彼女への気持ちを本人に(多少は)伝えてしまったことに、緊張と動揺で背中に汗が伝った。
ミーナはそんなギルバートを静かに見つめたあと、そっと目を伏せた。
「…ごめんなさい、私のせいで…」
ミーナはそう、か細い声でつぶやく。いつも朗らかにしている彼女からは想像もつかない暗い声色に、ギルバートはつい、え、と声を漏らす。ミーナはうつむいたままそれ以上何も言わない。
「…昨日から何なんだ。君は一体何に謝罪しているんだ」
ギルバートはそうミーナに問う。ミーナは一度唇をかみしめたあと、アイリーンが、と口を開いた。ギルバートが、え、と声をもらしたとき、険しい表情をしたミーナと目があった。
「アイリーンのことが、好きなんでしょう?」
「…は?」
ギルバートは、思いがけない言葉に再び固まる。先ほど同じクラスの男子生徒たちが噂していた話が、いつのまにかミーナに伝播していたというのだろうか。
ギルバートは前髪をかき上げて、面倒くさがらずに否定しておけばよかったと深く後悔する。
「…それは違う、周りのただの勘違いだ。信憑性皆無の単なる噂だ」
「噂?」
ミーナが怪訝そうな顔をする。ギルバートは、そうだ噂だ、と強く念を押す。しかし、ミーナはさらに表情を険しくする。
「…でも私、あなたから直接そう聞いたけれど」
「はっ?」
ギルバートは困惑する。一体いつ自分がそんなことを言ったというのか、彼には全く記憶がなかった。
固まるギルバートに、数年前の、夏季休暇の時よ、とミーナが続ける。ギルバートは自身の記憶をたどりながら、はっ、と息を呑んだ。
「(…あの時か、ミーナからオリバーが好きなんだということを聞き出してしまった時…!)」
ギルバートはあの日、ミーナが別の男のことが好きだったということを知らされて、ショックのあまり、ミーナから好きな相手を聞き返されたときに、あの日クラスメイトに尋ねられて適当に答えたアイリーンの名前を咄嗟にその時も出してしまったことを思い出す。
ミーナはギルバートの反応を見ながら目を伏せる。ギルバートは慌てて、違う、と否定する。否定しながら、脳内の自分が、いいのか、と自分自身に問いかけてきた。
「(…ここであれは嘘だったと明かせば、俺は男のくせに、好きな相手にこんな不誠実な嘘をついてしまったことを肯定してしまう……)」
ギルバートは言葉を詰まらせる。あの夏の日に、動揺していたとは言え咄嗟にあんな嘘をついてしまった自分を殴りたくなる。
「(…なら、アイリーンへの恋心は実際あったものという設定にして、もう彼女のことを現在は好きではなくなった、ということにするか。…そんなに頻繁に気持ちを変えたらなんだか気の多い不誠実な男に見えるだろうか。いや、ミーナに嘘をついた日から、数年は経っている。それだけ思い続けていた、ということにすればまだ許容範囲か…)」
ギルバートはそんな計算をしながら、ミーナの方を見て、もうアイリーンのことは何とも思っていないんだ、と返す。返しながら、男のくせにこんなみみっちい計算で過去の嘘を取り繕う自分に情けなくなる。
ミーナはまっすぐにギルバートのほうを見つめた。そして、どこか達観したような笑みを見せた。
「本当に良いの。私、本当に何も気にしないから」
ミーナはそういうと、それじゃあ、と言ってギルバートを置いて去って行ってしまった。ギルバートはその背中を見つめたまま固まる。
「(…なぜ…なぜこんなことに……)」
立ち尽くすギルバートに、春の肌寒い風が吹き付けた。




