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5.特訓、一日目

 憧れのプリマドンナとの邂逅(かいこう)に、有頂天でいられたのは、はじめだけだった。


(疲れた……)


 床にへたり込むオデットの横で、アンヌマリーもうんざりとした表情で息を荒らげている。

 老舗オペラホール『黄金座』の元プリマドンナのレッスンは、ほぼ体づくりで終わった。砂の詰まった布袋を手足にぶら下げたり背負ったりしながら、ひたすら室内を走り回る。ようやく終わったと思えば、布袋はそのままで、ただただ無言で立ち続ける。待ち望んだ「終了」の声に、オデットもアンヌマリーも同時に崩れ落ちた。

 噴き出す汗を拭いながら、オデットはアンヌマリーを見つめる。視線に気付いた彼女は、カミーユに隠れて、声を出さずに唇だけを動かした。


『い・つ・も・の・こ・と』


 オデットは思わず、遠い目になる。

 彼女が所属することになった『睡蓮(すいれん)座』の旗揚げは、確か半年後。もしかして半年間、これが毎日続くのだろうか。

 うんざりとした空気に気付いたのか、腕組みをして立っていたカミーユが、ぐったりとしている二人に告げた。


「何をぼさっとしているの。水を飲んだら、次は発声練習よ。早く立つ」


 仁王立ちするカミーユの背後に、(たくま)しい軍神の姿が見えた気がして、オデットは目を逸らした。





 休む間もなく次々課されるカミーユの指示に、オデットは食らいついていくだけで精一杯だった。

 聞けば、アンヌマリーたちはこの三ヶ月ほど、週の半分はこのような訓練を重ねていたのだという。カミーユが来られない日は、歌の特訓がメインだったというが、それでもオデットは尊敬の念を抱かずにはいられない。

 汗だくで座り込んでいたオデットとアンヌマリーは、扉の開く音に、同時に顔を上げた。入って来たのは、睡蓮座のオーナーであるフィリップだった。カミーユが美しい所作で頭を下げるのに、オデットは見とれる。


「……どうだ?」


 ちらりとオデットに目線を向け、フィリップはカミーユに問い掛けた。彼女は片方の眉を上げ、肩を(すく)める。


「……何とかしてみせますわ」


 『根性で』、という言葉が続きそうだ。オデットは思わず震える。

 その返答を苦笑で受け止めたフィリップは、表情を切り替えて、再びカミーユに尋ねた。


「ドラクロワ侯爵夫人がみえている。……引き合わせても良いか?」


 カミーユは目を瞬かせ、ちらりとオデットの方を振り返る。視線の意味が分からず、首を傾げているオデットに溜め息をつき、カミーユは答えた。


「――よろしいのではないかしら」







 濃厚で重厚な深紅の薔薇の花束が、運び込まれたのかと思った。

 フィリップに促されて入室してきた女性に、オデットはそんな感想を抱く。


「ごきげんよう、カミーユ、アンヌマリー」


 黒にも見える濃紺のシルクのドレスに強調された、魅惑的な身体。白金の髪をシンプルに結い上げたその女性は、カミーユと軽く抱き合ったあと、アンヌマリーに笑いかけた。慌ててヨロヨロと立ち上がったアンヌマリーが、「こんにちは、マダム」と頭を下げる。

 へたり込んだままポカンと口を開けたオデットの前に、その女性はサッとしゃがみこんだ。間近に見る顔に施された化粧は、意外なことに薄い。紅ののった唇を優雅に微笑ませ、女性は微かに首を傾げた。


(わたくし)は、マルグリット・ドラクロワ。……お名前は? お嬢さん」


 オデットはようやく我に返る。座ったまま挨拶するなど、言語道断だ。だが、相手が自分に合わせて屈み込んでくれている以上、立ち上がって見下ろすのも失礼に思われた。

 貴族社会に生きてきた以上、ドラクロワ侯爵夫人の名は、オデットも当然聞き知っている。芸術を愛するドラクロワ侯爵家唯一の子として生まれ、婿を迎えたあとは、数多くの芸術家や音楽家を支援してきた、生粋(きっすい)の趣味人。

 そんな人が、なぜここに。

 戸惑いながらも、オデットは名乗った。


「オデット・フルーリと申します」


 オデットが口にした家名に、目の前の女性はピクリと眉を動かす。

 生家の伯爵家の没落は、貴族社会でも話題になったことだろう。

 身構えたオデットをよそに、ドラクロワ侯爵夫人は、歩み寄ってきたフィリップの手を取り、立ち上がる。優雅な仕草に見とれつつ、オデットも立ち上がった。汗染みだらけの綿のドレスを摘んで、カーテシーをする。

 ドラクロワ侯爵夫人は、そんなオデットを見て、小さく喉を鳴らして笑った。彼女の手を丁寧に下ろしたフィリップが、オデットに言った。


「マダムはかつて、カミーユの熱心なパトロンヌをされていた。そのご縁でな」


 カミーユとマダム・ドラクロワに縁があると、なぜ、睡蓮座に協力してくれるのだろう。相変わらず要領を得ない彼女の様子に、マルグリットは呆れたようにフィリップを見た。


「フィリップ。あなた、また、ちゃんと伝えてなかったの?

あのね、お嬢さん。フィリップはかつて、『白鳥座』で脚本家をしていたの。独立して、自分の理想のオペラホールを立ち上げようとしたのが、この『睡蓮座』だというわけ」

「……えぇっ!?」


 はしたなくも大声を上げてしまったオデットは、驚愕(きょうがく)の表情でフィリップに目を向ける。

 身なりは上品だが、どこか底知れない雰囲気の男が、まさか()()名門オペラホールの脚本家だったなんて。

 苦笑気味に頬をかくフィリップに代わって、マルグリットが鼻息も荒く、説明を続けた。


「カミーユとは当時、ライバルホールの所属同士だったけど、面識はあったのよね? フィリップの理想に共感した人たちが、身分や所属の垣根を越えて集まり始めて、私もカミーユに声を掛けられたの」


 誇らしげに語るマルグリットに、オデットは恐る恐る声をかける。


「あの……マダム。質問をよろしいでしょうか?」


 肩肘張った物言いが抜けないオデットに、マルグリットは目を細める。彼女が無言で頷いたため、オデットは言葉を続けた。


「フィリップさんや、皆さんが理想とするオペラホールとは、どのようなものなのでしょうか?」

お気に召しましたら、リアクションいただけますと嬉しいです!

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