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4.プリマドンナ

 オデットは鼻息も荒く、フィリップに詰め寄った。


「カミーユ……、カミーユ・モローですか!? 『黄金(おうごん)座』のプリマドンナの!?」


 突然のオデットの興奮に、フィリップとアンヌマリーが目を丸くして彼女を凝視していた。オデットは構わず、両拳を震わせる。


 この国には、二つの伝統あるオペラホールがある。


 一つは『白鳥座』。前王朝時代に作られた名門で、王族もお忍びで観劇に来るほどの、重厚な歴史と権威を誇る。古典的な作品を得意とし、著名な歌手を何人も抱えるオペラホールだ。

 もう一つは『黄金座』。玄人(くろうと)好みの哲学的な演目を好み、高い技術を持つ歌手が数多く所属する。

 カミーユ・モローは、その黄金座に長年君臨した伝説的なプリマドンナだ。六年前の引退公演はもはや伝説の域で、いまだ彼女を超えるプリマは現れないと評する専門家もいるほどだ。

 オデットの勢いに引き気味の二人に構わず、彼女はうっとりと指を組んで言った。


「信じられません、あのカミーユにご指導願えるなんて……。六年前の引退公演、私も見に行きました」


 そんなオデットの言葉に、フィリップは苦笑する。


「お前さん、意外と図太いな……」


 オデットは瞬きを繰り返す。


 そういえば、自分は実家の没落を受けて、昨夜には娼館に売られかけ、貴族令嬢としての名誉をすべて失う手前だったのだ。オペラ歌手も、基本的には自身の能力ひとつで勝負する存在だが、中にはパトロンに肉体関係を迫られる役者もいると聞く。庶民向けのオペラホールにいたっては、歌劇というよりも、きわどい姿を見せることを目的とした性的なショーに近いそうだ。

 貴族にとって、オペラは『伝統あるホール』で『観る』ものだ。幼い頃から音楽が身近にあったオデットとて、自分が演じる側に回るなど、考えたこともなかった。

 それは、オデットが生まれ育った世界の価値観では、耐え難い『没落』を意味する生活だ。けれども、そんな衝撃よりも、伝説のプリマドンナに会える喜びの方が、上回ったのだった。


(――嘆いたところで、どのみち、元の生活には戻れない)


 あっという間の転落、離れていく周囲。そして何より昨夜の衝撃的な経験を経て、オデットは無垢で無知なご令嬢ではいられなくなったのだ。ならば、置かれた環境で、図太く生きていくしかない。


 無言でやり取りを見守っていたアンヌマリーが、大きく溜め息をついた。






 期待に胸を高鳴らせるオデットの前で、ついに木製の扉が開いた。


「――ごきげんよう、フィリップさん」


 惚れ惚れするほどに美しい姿勢。ソプラノとアルトの中間の、耳に心地よい涼やかな美声。

 メリハリの効いた(なまめ)かしいラインの身体を簡素なドレスをまとい、淡い化粧を施した小さな顔を微かに(ほころ)ばせたその女性は、オデットに目を留め、不思議そうに首を傾げた。

 アンヌマリーが無言で頭を下げ、フィリップは女性に近寄り、捧げ持った華奢な手の甲に唇を落とす。


「やあ、カミーユ。……ついにうちの専属になってくれて、礼を言うよ」

「私も『睡蓮(すいれん)座』の賛同者の一人ですもの、当然よ。――むしろ、黄金座(かつてのしょくば)の嫌がらせで、フィリップさんにはご迷惑をかけてしまいましたわ」


 細く尖った顎を上げ、その女性――カミーユはは妖艶に笑う。フィリップは笑顔を返し、カミーユをオデットたちのもとに誘った。

 再び頭を下げるアンヌマリーに、カミーユは「こんにちは、アンヌマリー。課題は順調にこなしているようね」と朗らかに笑いかける。その後、真顔に戻った彼女は、再びオデットに目を向けた。


「――フィリップさん。この子が?」

「オデット・フルーリ。ソプラノ候補だ」


 答えたフィリップに目配せされ、オデットは慌てて頭を下げた。


「オデットと申します。……お会い出来て光栄です、マダム」


 見に染み付いた貴族令嬢のお辞儀(カーテシー)を披露してしまったオデットに、カミーユは珍獣でも見るような目をしている。苦笑したフィリップが、空気を切り替えるように口を挟んだ。


「……ちょっと複雑な生まれでね。声は悪くないと思うんだが」


 カミーユは黒檀(こくたん)のように輝く髪を流しながら、首を傾げる。だが、次の瞬間には、場の雰囲気を塗り替えるように声を張った。


「まずはオデット、あなたの現状を確認します。アンヌマリーは、あちらで引き続き、課題曲の練習を。終わり次第、聞かせてもらいます」


 昨夜の蓮っぱな様子が嘘のように、アンヌマリーは従順に頷いてその場を離れる。同時に、フィリップも奥の、ジャンたちがいる練習部屋に向かって行った。

 至近距離にいる憧れのプリマドンナを、オデットが感無量で見上げていると、カミーユは片目を(すが)めた。

 オデットは昨日のドレスではなく、アンヌマリーのお下がりの綿のドレスをまとっていた。複雑な造りに二人揃って音を上げ、他に着るものを持たない彼女に、アンヌマリーが古着を譲ってくれたのだ。ぶっきらぼうに見えて世話焼きな彼女に、オデットは早くも親しみを抱いていた。

 

「――身体は悪くないわね」


 アンヌマリーがくれたドレスは、裾が真っ直ぐストンと落ちるタイプで、身体の線が分かりやすい。品定めするようなカミーユの淡々とした言葉に、オデットは戸惑う。

 カミーユは気にする素振りも見せず、うって変わって冷めた声でオデットに命じた。


「足を揃えて立って、背を伸ばしなさい」


 目を瞬かせるオデットに、カミーユは「早く」と冷たく促す。慌てて従ったオデットに、カミーユは続けた。


「目を閉じて。私が良いと言うまで、そのままで」


(何をするんだろう……)


 不思議に思いながらも、オデットは目を瞑る。しばらくそのまま立っていると、カミーユは「もういいわ」とだけ言った。恐る恐る目を開けたオデットに、カミーユは目を細める。


「――体の軸は、しっかりしている。でも、右に重心を預ける癖があるわね。身体が時折、右にふらついていたわ。……それを矯正(きょうせい)しないと。あなた、楽譜は読めるの? 何か音楽の経験は?」


 矢継ぎ早な彼女の言葉に、オデットは戸惑いを隠せない。とりあえず聞かれたことには答えようと、オデットは緊張に強ばる口を開いた。


「楽譜は読めます。楽器も一通り……、生家は貴族階級でした」


 カミーユは片方の眉を上げ、鼻を鳴らす。そんな仕種さえ様になるかつてのプリマドンナは、オデットに言った。


「『睡蓮座』の旗揚げまで、半年しかない。――容赦(ようしゃ)はしないわよ」

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