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没落した『元』貴族令嬢は、歌姫への道を駆けのぼる  作者: 冬生 恵
【第一幕】睡蓮座、デビュー
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3.新しい生活

「――へぇ。良い気味」


 鼻で笑って告げたのは、露悪的な表情を浮かべたアンヌマリーだった。左隣に立つ小柄なモーリスが咎めるような目線を送るが、アンヌマリーは涼しい顔で受け流す。

 呆然と立ち尽くすオデットに、ジャンが高い背を屈めて(ささや)いた。


「……マリーは母ひとり子ひとりで、ずっと苦労してきたから。悪く思わないでやってくれ。モーリスも生活が苦しくて、地方から出てきた身だ」


 驚くオデットに、ジャンは頷いて見せる。

 初手から微妙な空気感を漂わせる四人に、オーナーのフィリップは再び手を叩いて言った。


「アンヌマリー。パトロンがついて生活出来るようになるまでは、寮でオデットと同室だ。面倒見てやれ。モーリスは、ジャンと一緒に戸締りしろ。今日はもうお開きだ。

明日も九時には練習開始だ、全員遅れるなよ」


 不満気なアンヌマリーには構わず、フィリップはさっさと部屋を出て行く。四人は何となく顔を見合わせ、ジャンが代表するように口を開いた。


「……じゃあ、おやすみ。マリー、オデット。モーリス、悪いけどもうひと仕事だ」


 いかにも不愉快そうに、アンヌマリーが舌打ちした。








「……ほら、寝間着。そこにパンがあるだろ。(かじ)ってさっさと寝な」


 綿のネグリジェを放り投げ、アンヌマリーは自らも大麦のパンを口に運んで咀嚼(そしゃく)する。彼女は「……堅い」と文句を言いながらもパンを飲み込み、身にまとっていたドレスを器用に脱ぎ捨てていく。オデットは無言で、その様を見守っていた。

 オデットの視線に気付いたのか、アンヌマリーが不機嫌そうに振り返る。


「……なんだよ?」


 オデットはネグリジェを抱き締めながら、途方に暮れたように告げた。


「あ、あの。これ、どうやって着たらいいんでしょうか……」

「――はあぁぁぁ!?」


 心底嫌そうに顔を(しか)め、アンヌマリーが声を荒らげる。オデットはおろおろと、そんな彼女に言い募った。


「すみません、私、自分で着替えたことがなくて……」

「――ったく。これだからお貴族様は……」


 頭痛を堪えるようにアンヌマリーはボヤき、足音を立ててオデットに近寄ってくる。彼女の腕からネグリジェを引ったくり、オデットの右耳を引っ張りながら言った。


「良いかい? 脱がしてやるのも、ドレス着せてやるのも、一回だけだからね。次からは自分でやんなよ」


 蓮っぱな物言いながら、脱ぎ着を一度ずつは手伝ってくれるようだ。意外な面倒見の良さに、オデットが目を見開いていると、アンヌマリーはオデットの顎を容赦なく掴み上げた。間近で見る彼女は、陶器のような肌、吸い込まれそうな翡翠めいた瞳の、神秘的な雰囲気の美少女だ。オデットは魅入られたように、アンヌマリーの顔を見つめる。


「なに? 文句あんの?」


 凄む声に、オデットは慌てて首を振った。


「……いえ。とても面倒見の良い方だなと……。ありがとうございます、アンヌマリーさん」


 しばらくオデットの顔を至近距離で覗き込んでいたアンヌマリーは、やがていかにも嫌そうに顔を背けた。


「……マリー」


 それは先ほど、ジャンが口にしていたあだ名だろうか。これは、愛称で呼んで良いということなのか。目を瞬かせるオデットに背を向け、アンヌマリーは吐き捨てるように言った。豊かに波打つ金髪からのぞく耳が真っ赤だ。


大袈裟(おおげさ)で好きじゃないんだ。……フルネームで呼んだら、殴るよ」


(まあ、なんて可愛らしい方……)


 オデットが目を見開いていると、アンヌマリーが振り返りざまに吠えた。


「ほら、さっさと着替えるよ! パンもさっさと食べな、明日っからみっちりトレーニングなんだから!」


 オデットは瞬きを繰り返したあと、ホッとしたように笑った。






 翌朝、アンヌマリーに叩き起されたオデットは、油断すれば閉じそうになる(まぶた)を懸命にこじ開けていた。うつらうつらするオデットの額を、アンヌマリーが容赦なく弾く。二人はキャアキャアと声を上げながら、何とか身支度を終えたオデットは、アンヌマリーに手を引かれながら、昨夜顔合わせをした部屋に向かった。

 扉を開けると、昨日と変わらず爽やかな笑顔を浮かべたジャンと、どんよりとした空気を背負ったモーリスが出迎えてくれる。朗らかに挨拶を述べたジャンが、ふと、オデットがアンヌマリーと繋いだままの手に目線を止めた。


「……仲良くなれたみたいで、よかった」


 アンヌマリーは瞬時に顔を真っ赤にして、オデットの右手を振りほどく。オデットはにっこりとジャンに微笑んだ。

 扉が開く音が開き、フィリップが入ってくる。今日もチャコールグレーのお洒落な上着をまとったフィリップは、四人の顔を見回して言った。


「専属契約の手続きが無事に終わった。今日から男女それぞれ一名ずつの指導役がつく。ジャンとモーリスは奥の部屋。アンヌマリーとオデットはここで待機だ」


 フィリップが指さす方向に目を凝らすと、壁の一部が引き戸になっている。オデットが目を白黒させていると、フィリップは「からくり屋敷に憧れててな」とニヤリと笑う。反応に困ったオデットに首を振り、ジャンがモーリスを連れて扉の奥に消えた。アンヌマリーはぼんやりと、空中を眺めている。オデットは、肩をほぐしているフィリップに尋ねた。


「あの、オーナー。指導役とは、どなたなのでしょうか?」


 オデットは悩んだ末、フィリップのことは「オーナー」と呼ぶことに決めていた。フィリップは二、三度瞬き、オデットに向き直る。


「……知ってるか分からないが。昔、プリマをやっていた歌手に伝手(つて)があってな。カミーユ・モロー――今はカミーユ・ベルナールか」


 カミーユ・モロー。

 その名前を聞いて、オデットは目を見開いた。

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